守りたいもの
昼食を摂ってから、通常の執務を行っている最中、リディスは背後に気配を感じたため、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……お前も、気配を消すのが好きなようだな」
諫めるようにリディスがそう告げるとジークは肩を小さく動かしながら、ふふっと笑っていた。
彼は本当に人をからかい、遊ぶのが好きらしい。これで実年齢が百三十四歳だと言うのだから、世の老人達は驚きだろう。
「彼女と何を話していたんだ」
少しだけ語気が強くなってしまったがお互いに気心知れた関係であるため、遠慮などは必要ないのだ。
「リドがそんな表情をするのは珍しいねぇ。でも、君が心配するようなことは何も話してはいないよ」
ジークはいつも、自分と二人きりの時は「リド」と呼んでくる。その呼び方は別に構わないのだが、彼に呼ばれると子どもを愛称で呼んでいるように聞こえるのは何故だろうか。
「……君が呪いのことをエルシュ姫に話したと言っていたから最初は驚いたけれど、それよりも僕はもっと驚いてしまうことがあったんだ」
「なに……?」
「彼女は君が年老いて死ぬまで、共に生きることを望んでいるよ。……もし君が、いつか竜となってしまっても、傍に居たいって」
「……」
ジークの口から聞かされるエルシュの言葉を耳に入れて、リディスは思わず息を飲み込んでいた。
……まだ昨日、会ったばかりの関係だと言うのに、どうしてそこまで私のことを……。
昨夜からエルシュはリディスに対して、どこか好意的に接してくれているような気がしてならなかった。
自分はまだ、エルシュに何も与えていないと言うのに何故、彼女はそこまで自分のことを想ってくれるのだろうか。
……分からない。だが、分からないからこそ、彼女のことを知りたいと思う。
エルシュが自分の瞳を真っすぐ見つめながら伝えてくれた言葉が自然に心の中に浮かんでいた。
元々、性根が優しい人なのだろう。淀みがない程に真っすぐな視線を向けて来る表情は、汚れを知らない清廉とした雪のようだった。
「ねぇ、リド」
「……何だ」
それまで背後に居たジークが執務机の前へと移動し、真正面から自分のことをじっと見つめて来る。
「僕さ、本当は諦めかけていたんだ……呪いを解くことを」
「……」
ジークは百年以上の時間の中で、ドラグール家の人間にかけられている竜の呪いを解こうと試みてきたらしいがどの魔法も呪いには効かず、何の手応えもないままらしい。
彼のローファス家に課せられているのは、表向きは竜の守り人という補佐役な役目とともに、その裏では竜の呪いを解く方法をずっと模索していた一族でもあった。
そして、王家の人間達が竜化していく自分の姿に絶望して、自死していく光景をもう何十回も見ているのだ。
発狂してもおかしくはないというのに、彼の精神が負の感情に陥ることはなかった。それでも、時折見かける悲しげな瞳は自身のことを無力だと思って嘆いているのだろうと感じていた。
「でも、エルシュ姫がさ……。君と生きていきたいって願っていたんだよ。君に寄り添って、心を知って、生きていきたいって」
「……」
リディスはつい、声を出してしまいそうになっていた。心臓がどくん、と高鳴ったような気がして、何かに堪えるようにジークから見えない位置で拳を強く握りしめる。
「その言葉を聞いた時、僕はエルシュ姫が眩しく見えてしまってね。……僕が作れなかった君への道標を彼女なら示してくれるんじゃないかと思えたんだ」
自身が褒められたようにジークは嬉しくて仕方がないと言わんばかりに笑っていた。
一瞬だけ、瞳が光で反射したように見えたのは気のせいだろう。彼が泣いているところなど、二十数年という年月を一緒に居るというのに見たことがなかったのだから。
「だから、リド。僕はもう一度、竜の呪いを解くために頑張るよ」
薄緑色の瞳が自分に強い意思を真っすぐと向けて来る。
……変わらないな。
彼と初めて会った時のことなど、遥か昔過ぎて忘れてしまっている。それでも、ジークが自分達、ドラグール家のためにその身を費やしてくれていることは理解していた。
本当はジークには自由に生きて欲しいと思っても、彼はそのことを許さない。まるでそれが定めだと言うようにドラグール家を見守り続けるのだ。
「……程々にしろよ。見た目は若くても、身体は老体だろう」
「むっ! それは失礼だぞ! 確かに年々、体力の衰えを感じているけれど、僕の心はまだ若いからね!」
腕を組んでから、頬を膨らませる姿はリディスの歳とそう変わらないように見えるのに、あまりにも子どもっぽく見えて、思わず小さく噴き出してしまった。
それを見たジークも少しだけ拗ねたような表情をしてから、尖らせた口で同じように噴き出す。
「ふふっ。……でも、本当に良かったよ。エルシュ姫は良い子だ。……いや、聖女の心を持っているとでも言うのかな」
「……そうだな」
エルシュには仮面の下の鱗を見せたが、彼女は嫌悪するような感情を自分に向けては来なかった。
むしろ、綺麗だと言われたため、戸惑ってしまった程だ。本当に綺麗で真っすぐなものを持っているのはエルシュの方だというのに。
「けれど、彼女は君にとっての唯一の弱点となりえる存在だ。……君がエルシュ姫に心を寄せれば寄せる程ね。そこを付け入るように奴らが突いて来る可能性はあるだろう」
「分かっている。……だからこそ、守らねばならない」
自分の中でエルシュの存在はもはや特別なものになりつつあった。彼女を守りたいと思う感情に名前を付けることは出来ないが、それでも心は傾いている。
「……もうすぐ、彼が留学先から帰って来るね」
「そうだな。その前にこちら側の基盤を固められて良かったよ。……だが、まだ城内にはダドリウスに肩入れしている貴族達が潜んでいるだろうな」
ダドリウス、それは自分の父の腹違いの弟である叔父の息子だ。
つまり、自分にとっては従兄弟の関係であるが王家の血を引いていることから、彼の周囲を取り巻いている実家や貴族からはダドリウスを王位に就けるべきだという声が上がっている。
それは恐らく、ダドリウスが国王として操りやすい性格をしているからだろう。
単純で強欲な性格をしている故に、彼を焚きつけて、後ろ盾となりたいと思う輩がこの城内には多く潜んでいるのだ。
……傀儡の王など、作らせてたまるか。
ダドリウス派と陰ながら呼ばれている者達を野放しにして泳がせているのは、あちら側の動向を探りやすくするためだ。
今のところは、現国王が自分であることを不満に思っているだけらしいが、他国へと留学していたダドリウスが帰国してしまえば、何が起きるか分からないのが現状である。
「堅物で、年頃の令嬢に興味がなく、倹約過ぎる面白みのない男が玉座に座るのは相応しくはないらしい。……本当に、呪いを気にしなくていい身として生まれて来た奴らは気楽でいいな」
「……」
ジークは何も答えないまま、唇をきゅっと結んでいた。ジークがこのような仕草をする時は、大抵が彼にとって悲しいと感じた時だと知っている。
長年の友人でもあり臣下でもあるジークにそのような表情をさせてしまうとは、我ながら最低な奴だと改めて自覚する。
「……すまない、自嘲が入った。気にしないでくれ」
リディスは一度、目を伏せて、長い溜息を吐いてから再び開いた。
「ジーク。ダドリウス派の動向、陰から見張っていてくれ」
「……うん。でも、リドも根を詰め過ぎないようにね」
「分かっているさ。……私はまだ、始まったばかりだ。こんなところで倒れてしまっては歴代の王達に申し訳が立たないからな」
大丈夫だと言うように、リディスが口元を緩めるとジークは少しだけ安堵したのか、深く頷き返した。
ダドリウスが王位に望まれることは、彼が生まれた時から始まっていたことだ。いつか、大きな転換期が来ると思っていたが、もしかするともうすぐなのかもしれない。
……守り切らなければ。
リディスはジークに覚られないように短く息を吐く。
まだドラグニオン王国に来たばかりのエルシュをこちらの事情に巻き込みたくはない。彼女には、争いごとと無縁の場所に居て欲しいからだ。
「……恐らく、ダドリウスの下に付いている者が密偵として城内を動き回っている可能性がある。ここ数年で雇われた者には特に気を付けろ。……それと私のことを良く思っていないと噂していた者も調査しておいてくれ」
「了解」
リディスの命令にジークは短く返事をする。
どれだけの人間がダドリウスに肩入れしているのかだけでも把握しておかなければならない。
昔はその事実を知るたびに、自分のことを真に想ってくれる人間はいないのだと気落ちしていたが、今はもう違うのだ。
リディスは何かを強く決心するように、両拳に爪が食い込む程に力を入れていた。