雪の花
「いやぁ、先が楽しみだなぁ。あんなに小さかったリディスが今はもう僕の背丈を越える程に大きくなった上に、彼の子どもまで生まれるかもしれないのだからね。ああ、そうだ。名前の候補でも決めておくかい? 君達の子どもならば男の子も女の子も可愛いだろうねぇ」
しかし、にこにこと楽しそうに笑いながら紅茶を飲むジークの背後から、突如として地を這うような低い声が響いてきた。
「──何の話をしているんだ、ジーク」
「んぐっ……」
ジークの真後ろに突然やって来たのはリディスだった。銀色の仮面の下からは細められた瞳がジークを捉えており、傍から見れば睨んでいるように見える。
リディスの気配を察知出来なかったジークは喉に流していた紅茶でむせて、小さく咳き込んでから顔を上げる。
「もう、驚いたじゃないか……」
「わざと気配を消していたに決まっているだろう。お前が変な話を彼女に話している声が聞こえたからな」
部屋の扉を開けた音さえ聞こえなかったので、リディスの気配を消して相手に近づく技術は凄いものだとエルシュは密かに感心していた。
「変な話なんかじゃないよ。君とエルシュ姫の未来について、ちょっとお喋りしていただけだよ。──ねっ、エルシュ姫」
ジークから同意を求められたエルシュは素直に頷き返す。
「ええ、子どもの名前でも決めようとしていたところです」
「なっ……」
リディスが口をぽかりと開けて、石のように固まったままエルシュを凝視してくる。
この人は本当に反応が面白い人だとエルシュがこっそりと思っていると、目の前に座っているジークも同じように思っているらしく、彼は片目を一度瞑ってから、にやりと笑っていた。
ジークもリディスをからかうことが好きらしい。
「……子どもも何も、まだ手さえ出していないだろう」
リディスの口から早口に零される言葉にどのような感情が含まれているのか分からないが、それでもかなり動揺していることは読み取れた。
次第に不穏になっていく空気を察したのか、ジークはぱっと立ち上がってから、エルシュに軽く手を振って来る。
「さて、今日のお喋りはここまでにしておくよ。お堅い授業は明日からということで。それじゃあ、またね、エルシュ姫」
「あ……。はい、ありがとうございました」
リディスの鋭い視線から逃げるようにジークは早々と部屋から出て行った。その後ろ姿を見送ってから、リディスは疲れたような溜息を一つ吐いて、ジークが座っていた椅子に腰かける。
そして、気にするような素振りを見せながら、エルシュへと訊ねて来た。
「……あいつと何を話していたんだ」
「そうですね……。ジーク様が陛下の保護者で、子ども扱いすると怒られる、という話をしていました」
「……ジークめ」
小さく舌打ちしながら、仮面の下で顔を顰めているようだ。
リディスにとってはあまり、広めないで欲しい話だったらしく、エルシュはそんな彼の様子を眺めながら、ふっと息を漏らした。
「人様から陛下のお話を聞くのも楽しいですが、やはり私としてはご本人から直接、お話を伺いたいですね」
「何を聞くつもりだ……。それに昨夜から私ばかりがそなたに話をしている気がする。そなたの話を聞かせてはくれないのか」
まさか、そのように言葉を返されるとは思っていなかったエルシュは瞳を瞬かせてしまう。
「私の話、ですか? ……聞いてもたいして面白くも何ともないと思いますが」
「私が聞きたいだけだ。時間なら気にすることはない。私は今、休憩中だからな」
「……」
つまり、好きなだけ話をしろという意味だろうか。確かに昨夜から、リディスについて色んな話を聞かせてもらったが、自分は聞くばかりだった気がする。
……でも、私の話を聞きたいということは……私のことを知りたいと思ってくれているということかしら。
そう思ってしまえば、心のどこかが波打ったような不思議な感覚が感じられた。もし、自分のことを知りたいとリディスが思ってくれているなら、それはとても嬉しいことのように思う。
「……ですが、話をしろと言われましても、私は話し上手ではないので……。特に面白い話題を持っているわけではありませんし」
アルヴォル王国にいた際も、流行や話題に鈍感だったため、侍女や姉姫達の間で交わされる話に付いて行けなかったことを思い出す。
本当に話題が思いつかないため、エルシュが困った顔をすると、リディスが少しだけ思案するような表情をしてから、ぱっと顔を上げた。
「……そういえば、エルシュは不思議な力を持っていると聞いたが。アルヴォル王国の王家が持っている植物を操る力ではなく、別の力を」
恐らく、雪華の力のことを言っているのだろうとエルシュは肯定するように頷き返した。
「本来ならば、植物の国の王家が持つ力は植物を自在に操ることが出来る力のはずなのです。ですが、私の場合は母方の血が濃かったようで、母の生まれ故郷であるアイスベルク公国の王家が使える雪華の力を持って生まれてしまったようなのです」
「雪華の力……。ああ、聞いたことがあるな。確か、アイスベルク公国の王家は空気中の水分を瞬時に氷雪に変えて操ることが出来ると耳に入れたことがある」
「ええ。……見てみますか?」
エルシュが何でもなさそうに訊ねるとリディスは数回、目を瞬かせた。
「いいのか?」
「構いませんよ。減るものではありませんし。魔法と違って、魔力を必要としませんからね」
王家が持っている力は魔法とは別物である。
力を持った起源としてはそれぞれの国の初代国王が、一つの属性に特化した性質を持っている精霊と契約を結び、そして血を交えたことで、代々続く王家にその力が受け継がれるようになったのだという。
それは他国の王家も同様らしい。
気が遠くなる程、遥か昔の祖先達が築き上げたものが、今もこうやって子孫である自分達が使える力として残っているのだから、本当に不思議なものだ。
エルシュは指先で机をとんとんと二回叩いた。
瞬間、二人の間に漂う空気が冷たいものへと変わっていき、エルシュの視線の先には少しずつ白い雪が粉を振られたように降り積もっていく。
突然、雪が形成されたことに驚いているのか、リディスの瞳は大きく見開かれていた。彼の反応は見ていて楽しいため、エルシュも心の中で小さく笑ってから、更に指先で二回、机を叩く。
すると、机の上に降り積もっていた雪は少しずつ中央へと集まっていき、やがてそれは丸みを帯びたものへと変化していく。
「これは……」
「はい。雪だるまの完成です」
雪玉が二つ、縦に重なったものがその場に形成され、エルシュは机に置いていた手をゆっくりと引っ込めた。
「……凄いな」
「雪から氷に変化させることも出来ます。……小さい頃は力を練習するために、氷で彫刻を作ってみようとしたこともありました」
「作れたのか?」
「土台となる部分が細すぎて、途中でぽっきりと折れてしまいました。やはり、全体像をしっかりと想像しなければ、思うようなものは作れませんね」
「……今度、庭で作ってみたらどうだ。広い場所ならば、それなりに大きなものが作れると思うぞ」
「あら、それでは陛下のお姿を氷の彫刻としてお作り致しますね」
「いや、どうして私なんだ……」
気まずげにリディスはエルシュから視線を逸らす。色んな表情を見るのが楽しくて、ついからかってしまいたくなるが、相手は一国の国王でしかも自分の夫となる者だ。
あまり深追いするようなことはしてはいけないだろう。
そこで、エルシュは一つだけ小さな息を漏らすように吐いた。
「……私には一切、植物を操るための力が備わっていないんです。そのこともあって、親兄弟達からはよそ者扱いされてしまって。……もし、私が植物を操る力を持って、生まれていたならば、もっと陛下のお心を楽しませることが出来たのでしょうけれど」
そう言って、エルシュは机の上に置かれている、花が活けられた花瓶に手を伸ばす。そして、指先をそっと桃色の花弁に触れてみたが、何も起きることはなかった。
これが自分の親兄弟だったならば、一瞬にしてこの場を桃色の花弁が舞う空間へと誘う力があるのだろうが、自分は雪華の力しか持っていないので出来るわけがなかった。
「……別に、植物の国の力が見たくて、そなたを招いたわけではない。それに……」
リディスは自身の手を花弁へと触れていたエルシュの手へと伸ばし、包み込んでくる。
自分の手は他人よりも温度が低いため、リディスから伝わって来る体温の温かさに溶けてしまうのではないかとさえ思えた。
「花は花でも、雪の花も……悪くはないと思うし、美しいと思うぞ」
顔を上げれば、優しい瞳で自分を見つめて来るリディスが居た。
エルシュは何かを言葉にしなければならないと分かっていたのに、声を出すことさえ出来ず、ただ見つめ返すことしか出来なかった。
無言の空気が居た堪れなくなったのか、リディスはエルシュの手をゆっくりと離してから立ち上がる。
「……私は執務室に戻る。昼食の準備が整い次第、侍女をこちらへ寄こすから、それまでは自由に過ごしているといい」
「……はい」
辛うじて言葉を返すことは出来たが、それでも視線を合わせることは出来なかった。リディスはエルシュに背を向けて、静かに部屋から出て行く。
その場に一人、エルシュだけが残されたというのにどうして身体がこんなにも熱く感じられるのだろうか。
右手にはリディスが与えてくれた温もりがまだ残っている気がした。
……花は花でも、雪の花も……。
リディスが言っていた言葉を心の中で復唱して、それからエルシュは顔を伏せるように机へと額を接触させた。
「っ……。本当に、あの方は……」
ちらりとエルシュは先程、作った雪だるまの方に視線を向けてみる。雪だるまは今のエルシュと同じように、少しだけ溶け始めていた。