気楽な教師
次の日、起床したエルシュはリディスの朝の支度を手伝おうとしていた。自分の夫となる者の支度を手伝うものだと思っていたが、まだ慣れていないからとリディスに断られてしまった。
リディスは普段から、あまり人の手を使わないで支度を一人で整えてしまうらしい。恐らく、着替えの最中に竜の鱗を他人に見られないようにするためだろうと何となく察せられた。
そのため、昨日から王城入りしたエルシュの世話が出来ることが嬉しいと喜々として語っていたのは、身の回りの世話をしてくれている侍女達だ。
そんな侍女達に着替えを手伝ってもらい、そして朝食は昨夜と同じようにリディスと二人で摂ってから、午前中はこの国のことを深く学ぶための勉強の時間となった。
リディスは執務があるため、勉強を教わるのは彼からではないらしいが、別れる前に不安そうな瞳で自分を見て来たのは何故だろうか。
侍女によって通された部屋は四方の壁が、分厚い本が並んでいる棚に囲まれた場所だった。
しかし、図書館にしては狭い気がして、エルシュは通された部屋の中をぐるりと見渡すように歩いてみる。
部屋の真ん中には木製の机が置かれていたが、一人用にしては大きすぎる広さで、かなり年代が古いものらしい。
すぐ傍には黒板のような移動式の板が立っていた。
椅子に座って待っていて欲しいと言われたがまだ誰もいないため、エルシュは本棚を覗き込むように見ては、試しに一冊の本を手に取って眺めてみる。
ドラグニオン王国に関することが書かれているのかと思っていたが、手に取った本はどうやら物語のようだ。
教師となる者が来るまで読んでいようかと思っていると、部屋の扉が慌てたように思いっ切りに開かれる。
「わっ、もう来ていたのか……」
そう言って、部屋の中へと入って来たのは肌が色白で、雪がふわりと積もったような白髪をうなじ辺りで髪結い紐を使って一つにまとめている若い男だった。
着ている服はしわが入っているシャツに濃い茶色のベストを着ており、その上に膝ほどの長さがある白衣を着ていた。
彼はエルシュの姿を瞳に映すなり、やってしまったと言わんばかりの表情をする。恐らく、遅刻してしまったと思っているのだろう。
中年くらいの教師が来ると思っていたエルシュは慌てて、本を本棚へと戻してから、足を扉の方へと向けた。
「えっと、君がエルシュ姫でいいのかな?」
白髪の男は人懐こそうな笑みを浮かべながら、エルシュへと近付いて来る。
「はい。エルシュ・クライアインと申します。あの、座学の教師の方でしょうか」
「ははっ。いやぁ、教師というには色々と不出来だけれどね。でも、リド……じゃなかった、陛下からエルシュ姫の座学を担当するように頼まれた、ジーク・ローファスだ。気楽にジークと呼んでくれ」
ジークは飄々としているが、纏う空気が柔らかいため、エルシュは心の中で安堵していた。
「はい、ジーク様。今日はどうぞ、宜しくお願い致します」
エルシュが丁寧に頭を下げるとジークはふわりと花が咲いたように柔らかい笑みを浮かべた。
「うん、宜しくね。さて、さっそく勉強を始めようと言いたいところだが、今日はお休みだ」
「えっ?」
何故だと言わんばかりにエルシュが驚きの声を上げても、ジークは楽しそうに笑っているだけだ。
「まだこの国に来たばかりでお堅い勉強をしても、楽しくはないからね。それに君も緊張しているようだし、僕に慣れてくれてから勉強を始めようと思うんだ」
「私は……」
顔には出ていないが、緊張はしていた。そのことをジークは読み取っていたらしく、目の前の彼はにこりと笑って、着ている白衣のポケットから一つの布の包みを取り出した。
「ここに来る前に、王城の厨房でお菓子が作られていたから、少しだけお裾分けしてもらったんだ。良かったら食べないかい?」
「えっと、あの……」
「確かこの部屋には茶器が揃っていたはずだけれどな。……ああ、あった。あとはお湯を沸かして……」
ジークは手作りのお菓子が入っている布の包みを机の上へと一度置いてから、棚に入っていた茶器を二人分取り出し始める。
エルシュはどうすることも出来ないまま、まるでお茶の準備を始めるジークを少し呆けた瞳で眺めるしかなかった。