竜の呪い
リディスはエルシュの両肩を抱えたまま、起き上がる。そして、エルシュの手元にある銀色の仮面に視線を注ぎながら、続きを話し始めた。
「その仮面は確かに竜の力を制御するためのものでもあるが、実際はこの鱗を隠すためでもあったんだ。……竜の鱗を持つ人間など、他にはいないからな」
「……つまり、陛下の素顔を知っている方は少ないということでしょうか」
エルシュの問いかけにリディスは深く頷き返す。
「そうだ。……私には竜の呪いがかけられているんだ」
「竜の呪い……」
初めて聞く単語にエルシュは目を瞬かせる。
「そなたが私を知りたいと言うのならば、全て話そう。……この身の全てを」
銀色の仮面をエルシュから受け取ったリディスは自ら仮面を被り、紐を頭の後ろで結び直した。
「ドラグニオン王国の王家が代々受け継ぐと言われている竜の加護の話は、半分は事実で半分は真実を隠すための嘘だ。……つまり、民衆向けに脚色されている話でもある」
「……」
「確かに私は強い竜の力を受け継いで生まれてきた。だがそれは加護という生易しいものではない。これは呪いだ。初代国王が竜から受けた呪いが私まで引き継がれたものなんだ。……呪いがかけられた理由はこうだ。──かつて、竜と人間は共存していた。その上で竜が人間に力を貸してくれていたが、いつの間にか人間は欲の塊となってしまっていた」
まるでおとぎ話を話すようにリディスはどこか遠くを見つめながら呟く。
「更に強い力を欲する人間に竜は深く呆れ、激怒した。それほど力が欲しいならば、お前自身が竜になってみろ、という言葉を吐き……そして、私の祖先は呪いをかけられたらしい」
リディスは瞳を細めてから、短い溜息を吐く。集中していなければ、聞き取れない程の小さな吐息だった。
「竜の呪いを受けたドラグール家の正統継承者は、時間と共にその身を竜の姿へと変える呪いが刻まれているんだ」
そう呟いたリディスの表情は先程と同じく強張っており、エルシュの感情を読み取ろうと顔を窺ってくる。
しかし、先程と寸分も変わらない表情であるエルシュを見て、安堵のような溜息を吐いてから言葉を続けた。
「ドラグール家の人間は成人するにつれて竜化が加速していくらしい。今、私の身体には目元と両腕に鱗が生え始めている。……竜化はすでに始まっているんだ」
「……竜化を止めることは出来ないということでしょうか」
「ああ。歳を重ねるごとに、部分的に鱗が身体に生えて来て、やがて全身が竜へと変わるらしい。だからこそ、完全な竜となってしまう前に王位を継承した者は世継ぎを早く作る必要があるんだ」
リディスが王位に即位したのは昨年だったはずだが、確か歳は二十歳を過ぎたばかりだと聞いている。
前国王は四十過ぎという若さで亡くなっており、あまりにも早い崩御だったと当時は言われていたらしい。
疑問に思ったことをリディスが察したのか、小さく頷いてから答えてくれた。
「……この国の歴代の国王達は若いうちに亡くなる者が多いんだ。世継ぎに王位を譲った後に、前国王が死ぬのが早い理由として、その身に抑えていた竜の力が強すぎて、耐えられなくなったというのが表向きだ。だが、本当は……国王達自身が呪いによって、完全な竜へと姿を変えてしまう前に人間として死にたいという願いの下で、自らの手で死んだ者が多いからだ」
「っ……」
語られた真実に、エルシュは思わず口元を片手で覆ってしまう。まさか、国王達が自死していたなど、誰が思うだろうか。
「私の父は一年前に自らの胸に短剣を立てて死んでいた。身体を見てみれば彼の腕は人間のものではなくなっていた。顔こそは人間だが、指先から足先まで硬い皮と鱗、そして鋭い爪へと変化していた」
どこからも風は吹いていないはずなのに、ランプの灯りがゆらりと動いた。
「そして私を産んだ母は……父から王家にかけられている呪いの話を聞かされたことで、自分の子どももいつか竜になってしまうのだと絶望し……私が一歳にもならないうちに自ら命を絶った。彼女は竜へと変わっていく父も、いずれ同じようになってしまう私の存在も受け入れることが出来なかったんだ」
「……」
悲しみよりも憐れさを含んだ瞳でリディスは小さく呟く。彼の中には生母との思い出は全く残っていないのだ。
だからこそ、生母に対して恨みのような感情を持っていないのかもしれない。
エルシュはいつの間にか、ベッドの上へと投げ出すように置かれていたリディスの左手に自身の右手を重ねていた。
大きくて硬すぎず、それでいて温もりが込められている手はエルシュが触れたことによって、一瞬だけ震えた気がした。
「……私もいつか、歴代の国王達と同じように竜となってしまうのだろう。だからこそ、早く王位を譲る者が必要なのだ。たとえ、そこに情がなかったとしても……」
まるで自分自身を貶めるような発言に、エルシュは添えている手に力を込める。
「……望むのであれば、私は陛下のお相手を致します。ですが、一つだけ……私と約束をして頂けませんか」
「約束……?」
「生き急がないで欲しいのです」
エルシュはしっかりとリディスの瞳を見据えたまま、挑むように告げた。
「陛下にかけられている呪いから、『ドラグニオン王国の国王』という役目のためだけに、あなた様自身を大切にすることをどうか忘れないで頂きたいのです。……私が嫁いで来たのは確かにドラグニオン王国の国王です。ですが、それ以前にあなた様は……リディス・ドラグールというたった一人だけのお方なのです」
静かに諭すような言葉にリディスははっとしたように目を見開いてく。
「私はまだこの国の王妃として、未熟な点は多いと思います。ですが、王妃とは妻のこと。伴侶というものは一生を寄り添い合い、添い遂げるものだと教わりました」
きっと、自分は初めて彼と会った時から、すでにこの深く青い瞳に囚われてしまったのだ。
リディスのことをもっと知っていきたいと思ってしまっている時点で、表情に出てはいなくても、心はすでに傾いていた。
どうか、自分の想いが伝わるように、とエルシュは瞳を逸らさないまま言葉を続ける。
「私はあなた様と生きていきたいと思います」
「……」
「竜の呪い──それが、あなた様に宿る『呪い』だと言うならば、私はその『呪い』ごと、あなた様を愛します。だからいつか、もし……陛下が竜になってしまわれる時が来ても、傍に居てもいいですか。……あなた様の妻として」
視線を逸らしたのはリディスだった。苦いものを食べてしまったような、不思議な表情のまま深い溜息を吐く。
「……そなたは物好きだ。私はいずれ異形の姿へと変わってしまうというのに、寄り添いたいと願うなど。……こんな夫は嫌だと言って、自国に帰ることだって、まだ間に合うと言うのに」
苦し紛れにそう告げるリディスに対して、エルシュはわざとらしく首を傾げながら、視線を交えようと顔を覗き込む。
「あら、陛下は私のことがお嫌いですか」
「……」
返事はなく、黙ったままだ。なので、もう一度試しに訊ねてみる。
「嫌い、ですか?」
「……いや」
返って来た言葉は簡潔なものだったが、不快感は混じってはいなかった。恐らく、彼にとって精一杯の本音だろう。
リディスは、本当は優しく脆い人なのだ。
だからこそ、エルシュに正体を知られることに怯え、そればかりかいずれは竜となってしまう自分が嫌ならば自国に帰って良いなどと言葉にしてしまう。
だが、リディスの瞳はどこか縋るようにエルシュを見つめている気がして、自分はその瞳に込められた感情を彼が生きる上での「生」として繋ぎ止めたいと思ったのである。
「それなら、私は安心して陛下の傍に居ても良いんですね」
出来る限りの笑みを浮かべてみせようとしたが、やはり上手く笑えないため、きっと冷ややかな目元になってしまっているだろう。
それでもリディスは嫌悪するような表情は一切しなかった。
「未熟者ですが、陛下の恥にならないように立派な王妃を目指しますので、今日からどうぞ宜しくお願い致します」
「あ、ああ……」
深々と頭を下げるエルシュに面食らっているのか、慌てたようにリディスも同じく頭を下げて来る。どうやら律儀な人でもあるらしい。
エルシュはそれまで触れていた手をそっと離す。手の内側にはリディスが持っていた熱が移ってしまったらしく、優しい温もりが残っていた。
「あっ。もちろん、望まれるのでしたら、今夜からでも夜のお相手は致しますよ?」
「っ……」
激しい動揺を見せるリディスに対して、エルシュは表情を変えることなく、少し得意げに頷き返す。
どうやらこちらが思っているよりも、リディスは女性と接する機会はそれほどなかったようだ。それはそれで何となく嬉しい気がして、エルシュは更に表情に出ないようにと努めた。
「……そなたは感情が表には出ないが、それでも人をからかうのは得意なようだな」
視線が逸らされたまま、しぼり出すように呟かれた言葉に対して、エルシュはわざとらしく首を傾げてみせる。
「冗談のつもりはないですよ?」
「……まだ、私とそなたは今日、顔を合わせたばかりの間柄だろう。心臓に悪いことを言わないでくれ」
「ふふっ。陛下は誠実で真面目なお方なのですね」
「……」
表情を変えずにエルシュが小さく笑うと、リディスはそのまま背中を見せながら、ベッドの中へと入っていく。
少しからかい過ぎて、拗ねてしまったのかもしれない。
エルシュは肌触りの良い掛け布団をリディスの肩まで掛かるようにと上げてから、息を漏らすように言葉を呟く。
「陛下、おやすみなさいませ」
おやすみの挨拶をしてから、エルシュも同じベッドの中へと入っていく。足の指先から柔らかい質感が感じられ、エルシュは目を細めながら身体を横にする。
「……おやすみ」
身体一つ分、離れた場所から穏やかな声色の言葉が零されて、エルシュは少し目を瞠ってから、頭の向きをリディスの方へと向ける。
彼はこちらに背を向けたままだ。それでも、はっきりと聞こえた言葉に口元が緩まってしまう。
「……はい、おやすみなさいませ」
もう一度、エルシュは挨拶を呟いてから、ゆっくりと目を瞑っていく。
自分では大丈夫だと思っていたが身体は疲れていたらしく、すぐに意識は夢の中へと進んで行った。
その日、結局、リディスがエルシュに手を出すことはなかった。