美しいもの
「……駄目だ。見てしまえば、きっとそなたは拒絶する。そして、私を忌み嫌うだろう」
瞳は大きく揺れており、吐かれる言葉は震えていた。
「私に嫌われたくはないとお思いなのですか」
エルシュの問いかけに対して、リディスは無言になったが、彼の言葉の真意を知るためにはもう一歩、踏み込むことが必要なのだろう。
「嫌われるも何も、私が陛下のもとへと嫁いできた理由はただ一つでございましょう。それ以外に存在理由など、ありませんし。……全ては世継ぎのため、でしょう?」
エルシュはわざと冷たい言葉を吐いた。
もちろん、自分がリディスへと嫁いできた理由はしっかりと分かっている。
アルヴォル王国とドラグニオン王国の関係性を強固にするために婚姻を結び、そして嫁いだ先で王位継承者となる世継ぎを産むためだ。
そのことを頭に入れた上で自分は今、リディスと共に寝台の上にいるのだとエルシュははっきりと告げたのである。
この言葉を放ったことに対して、罪悪感が生まれないわけではない。それでも、リディスと心を交わすには必要な言葉だと思えたのだ。
リディスの瞳は一度、丸くなり、それから獣が獲物を狙うように鋭くなって見えた。
「それなら、話が早い」
そう言って、リディスはエルシュの両手首を掴み取ると、そのまま体勢を崩すようにベッドの上へと押し倒したのである。
エルシュの背中を包み込むように、身体はベッドへと埋まっていく。耳に響いたのは金具の音で、恐らくベッドの脚となっている部分が軋んだに違いない。
リディスは自分の手首を握っているのに、どうして腫れ物を扱うように優しいのか。その答えは目の前にあった。
「──とでも、言うと思ったのか」
静かに言葉の続きがリディスの口から零れる。
エルシュの瞳に映っているリディスの表情は、仮面を被っているというのに今にも泣き出してしまいそうな程、歪んで見えた。
何故、彼はそのような顔をしているのだろうか。
「そなたは自分のことを道具か何かだと思っているのか」
「……」
「それならば、私も──そなたにとっては、ただの都合の良い嫁ぎ先で、都合の良い王なのだろうか」
「──いいえ」
エルシュはリディスの言葉に対して、反射的に答えていた。全てを切り裂くように、首を横に振りながら言葉を続ける。
「確かに私はこの国と母国を繋ぐために陛下へと嫁いで来ました。ですが、私個人としてはあなた様を深く知りたいと思っています」
真っすぐと挑むように、強い意思を秘めた瞳でエルシュはリディスを見つめる。
「私を……知りたいだと?」
エルシュの言葉を聞いたリディスは驚きと戸惑いを含めた声色で聞き返してくる。その表情はまるで子どものように幼くも見えた。
元々、強くは握られていなかった自分の両手首を掴む手が少しずつ緩んで行く。エルシュはリディスの手から逃れた自らの手を目の前で瞳を瞬かせている青年へと伸ばした。
「私があなた様を知りたいのです。つまり、陛下に対して深い興味があるということです。好きなものや苦手なもの、何で笑い、何で悲しむのか……。そうして、あなた様の感情に触れることで知っていきたいんです。……それが私なりの妻としての第一歩だと思うのですが、いかがでしょうか」
「……」
リディスは瞳を大きく見開いたままだ。エルシュがそのようなことを告げるとは思っていなかったと表情に出てしまっている。
だが、次第にエルシュの言葉を理解したのか、リディスは何とも言えない表情へと移り変わっていった。
驚きと焦り、そして怯え──そういった感情が入り混じった表情で、どのように言葉を返せばいいのか迷っているように見えた。
「見せては……頂けませんか」
エルシュは穏やかな声でもう一度、問いかける。リディスの顔が泣きそうな程に歪んだ。
「……今宵の夜伽にするには、私の仮面の下はそなたにとって汚らわしいものが刻まれている。それでも……知りたいと思うのか」
「はい」
迷うことなく返事をするエルシュに対して、リディスは口を真っすぐと閉じた。
やがて、何かを決意したのか、彼はエルシュへと覆いかぶさっていた身体をゆっくりと起こしていく。
「……」
エルシュも上体を起こしてから、ベッドの上へと座り直した。目の前では、仮面の紐を解こうかと迷っているリディスが浅く呼吸していた。
じっと見つめてみれば、彼の大きな手は微かに震えていた。
エルシュがリディスへと手を伸ばそうとしていると、一瞬にして彼の手によって捕らわれてしまう。ランプの灯りの下で、揺れ動く青い瞳がエルシュだけを映していた。
「……怖いのですか」
静かに訊ねるとリディスは一度、唇を噛んでから口を開いた。
「……まだ、会ったばかりのそなたに、怯えられたくはない」
「優しいのですね」
「なに?」
「だって、私を怖がらせないように、陛下は振舞って下さっているのでしょう? 優しい以外に何がありますか」
静かに、穏やかに、本当のこと以外は告げないという態度でエルシュが言葉を口にすると、目の前のリディスは絶句したように身体を強張らせていた。
そんなリディスの表情に対して、エルシュは目を細めた。
自分は笑顔を見せることは苦手であるが、それでもこの心の内をリディスに伝えられるようにと出来るだけ穏やかな表情を浮かべる。
「陛下のことを……私に教えてくれませんか」
「……」
やがて、エルシュの手を抑える腕が少しずつ下ろされていく。抵抗する気配もないまま、動かないことがどうやらリディスの答えらしい。
エルシュはそのまま、両手をリディスの仮面の紐へと伸ばす。
今度は止められなかった両手は、仮面の紐を指先に絡め取り、ほぐすように紐解いていく。そして、仮面に手を添えてから、そっと外した。
「……」
ランプの灯りによって照らされたことで、銀色の仮面の下から何かが眩しく反射した。
深い青色の切れ目と、真っすぐに高い鼻。
精悍さと凛々しさを備えた、整った顔立ち。
そして、頬よりも少し上の、目の下辺りに見えたのは光に反射する数枚の白く透明な鱗だった。
一枚、一枚がはっきりとしており、それが決して描かれた模様ではなく、リディスの一部ということは目に見えて分かった。
光によって反射する白く透明な鱗は、見る角度によっては七色に輝いて見えた。まるで宝石のようだ。
エルシュは銀色の仮面を手に持ったまま、リディスの顔をじっと見つめる。
視線を逸らすことなくリディスの顔を眺め続けるエルシュに対して、不快に思ったのかそれとも気恥ずかしく思ったのか、彼は十を数えない内に顔を背けた。
「……何か言ったらどうだ」
しぼり出すように声に出されたのはその一言だった。エルシュは一度、納得するように頷いてから返事を返す。
「綺麗なお顔だと思いました」
「……は?」
「私、あなた様ほど、整ったお顔を見たことがなかったのです。だから、綺麗なお顔だと思いました。頬の上で輝く宝石のような鱗も含めて、美しいと思ったのです」
「……」
またもや、リディスは絶句している。今度は少しだけ間抜けに口をぽかりと開けていた。
「もう少し、じっくりと眺めても宜しいですか?」
「え、いや……」
詰め寄るように膝を進めるエルシュに驚いたのか、リディスは少し後ろへと仰け反った。
しかし、顔を近づけていたエルシュの身体の体勢が崩れてしまい、そのままリディスの胸へと飛び込むように、二人してベッドの上へと寝ころぶ形となってしまう。
接した身体はお互いに布越しだと言うのに、どうしてこれほどまでに温かいのだろうか。
「すみません、大丈夫ですか」
「……平気だ」
「すぐに退きます」
今、自分はリディスの胸板の上へと手を置いてから、身体を重ねてしまっている状態だ。
自分の体勢が相手にとって失礼であると自覚したエルシュはすぐさま、リディスの上から退こうと試みる。
だが、リディスはエルシュの身体を受け止めたまま、いつの間にか背中に回している手を離そうとはしなかった。
一体、どうしたのだろうかと吐息がかかる程の距離に縮まっているリディスへ、不思議がるような瞳を向けると、彼は押し込めていた言葉を紡ぎ始めた。
「……怖い、とは思わなかったのか。私の顔は明らかに、普通の人間のものではないんだぞ」
「私、嘘を吐くのは苦手です。感情は顔に出にくいですが、あまり嘘を吐ける性格をしておりません。それに自分が思ったことを素直に言葉に出しただけですよ?」
どうやら本音が疑われているらしく、エルシュは小さく首を傾げながら答えると、リディスは呆れているのか安堵しているのか、どちらなのか分からない溜息を深く吐いた。
「……この鱗を美しいなどと言ったのは、そなたが初めてだ」
そう言って、リディスはやっと強張りが解けたのか目元を緩めた。初めて見せる、その笑みと呼ぶべき表情は想像以上に儚げなものに見えた。