仮面に隠されたこと
アルヴォル王国から侍女を連れて来ていないエルシュは、王城の侍女に手伝ってもらいながら湯浴みを済ませて、支度が整えられた寝室へと通された。
そこは昼間に過ごした自室ではなく、最初から寝室として用意されている部屋らしい。
室内は落ち着いた空気が流れている。もしかすると眠りを誘う香でも焚かれているのかもしれない。
ベッドの傍にある小さな机の上には炎が灯されたランプが置かれており、露台へと続く大きな窓には外からの灯りが入って来ないようにと窓掛けが引かれている。
「……ここで寝るってことよね?」
だが、通された部屋のベッドは想像以上に縦横に広く、室内も一人で使うには不安を覚えてしまう程の広さだ。
しかも、革が張られている長椅子の目の前には、同じ高さくらいの長台が置かれており、その上には冷やされている飲み物と数種類の果物が入った皿が置かれていた。
部屋に通された以上、自分が寝る場所はここ以外にはないのだろう。エルシュは意を決してから、ベッドへと近付いてく。
「広い……」
アルヴォル王国の城で与えてられていた自室はこの寝室よりも少しだけ狭い上に、ベッドと机と衣装がしまってある棚が揃って置かれていた部屋だった。
そのため、これほど広い寝室を自分が使っていいのだろうかと不安になってしまうのだ。
ベッドの前で立ち止まったエルシュは室内に誰もいないことを確認してから、思いっきりにベッドの上へと飛び乗った。
ぼふんっ、と柔らかな音と共に、エルシュの身体は少しだけベッドの中へと沈んで行く。
「ふふっ……。柔らかいわ」
いっそのこと、ベッドの上に立ってから飛び跳ねてみたい程の柔らかさだ。
ごろり、と大きなベッドの上を転がっている時だ。突然、部屋の扉が開いた音がして、転がるように寝ていたエルシュは驚いてしまう。
視線を向ければ、部屋の入口に立っていたのは寝着を着ているリディスだった。入口の扉は閉められたというのに、彼の口はぽかりと開いている。
「っ……!」
驚いたエルシュはすぐにベッドから跳ね起きて、はだけてしまっていた服の裾を直してから立ち上がる。
「えっと……」
ベッドの上ではしゃいでしまっている姿をリディスに見られた上に、服がはだけているところまで見られてしまうとは。
エルシュは頭の中で言い訳を考えようとしていたが、お互いに無言の状態が続いてしまっていることもあり、気恥ずかしさと同時に気まずさも感じていた。
「あの、陛下……。どうして、こちらに……」
この時ばかりは感情が表に出ないことを心から感謝していた。一方でリディスの方はというとエルシュの姿を見て、固まっているようだった。
見苦しいところを見せてしまったことを反省するのは後回しにして、どうしてリディスがこの寝室にいるのだろうかと思ったエルシュはおずおずと訊ねてみることにした。
「あ、ああ……。この部屋は私とそなたの寝室でもあるからな」
「えっ……」
どうりでベッドがかなり広いわけだと納得したが、急に居た堪れなくなったエルシュはベッドの傍からすぐに離れた。
「すみません、私……。陛下とご一緒すると知らなかったので……」
「いや、こちらこそ、事前に伝えるのを忘れてしまっていたようですまない」
気まずい空気は拭えないまま、その場に流れていく。
……確かに、公に結婚式を挙げていなくても、今日から夫婦になるんだもの。一緒の部屋で寝るのはおかしいことじゃないわ。
自分の中で異様に高鳴っていく心臓を何とか抑えようと深呼吸しつつ、エルシュは顔を上げた。だが、同じようにエルシュへと瞳を向けて来たリディスと視線が重なり合ってしまう。
「……さすがに嫁いできたばかりで、同じ寝室というのは気が引けるだろう。だが、今夜は時間が遅いため、そのベッドを使ってくれないだろうか。……私はこの長椅子で寝させてもらう」
「えっ? い、いえっ……。あの、少し驚いてしまっただけなのです。なので、その……陛下とご一緒が嫌だというわけではなく……」
このような事態に陥ったことがないため、どういった言葉を返せばいいのか分からないエルシュは慌てながら言葉を続ける。
一国の王である者に長椅子を使わせて、自分だけがベッドで眠るなど、不敬以上に何があるだろうか。
「それに慣れなければならないこともございましょう」
小さくなっていく声を何とか出し切ってから、エルシュが再び顔を上げれば、そこには仮面の下で目を丸くしているリディスが居た。
「あの、陛下……?」
エルシュがそっと声をかけるとリディスははっと我に返ったように瞳を瞬かせる。
「いや、すまない。……そなたは本当に、臆さない性格だなと思って」
「あら、これでも内心は陛下に見苦しいところを見られてしまったことを恥ずかしく思っているのですよ」
何でもなさそうに答えるエルシュに対して、リディスは肩の力が抜けるようにふっと目元を和らげた。
「では、今夜から宜しく頼む」
「ええ、こちらこそ」
返事ではそう返しているものの、エルシュの心臓には穏やかさが戻って来ないままだ。
……男性と一緒に寝るなんて、初めてだわ。
アルヴォル王国の国王であった父や腹違いの兄弟とでさえ、一緒に寝たことは無い。
夫となる者と初めて一緒に寝るということが、どういう意味なのか分かってはいるがそれでも落ち着かずにはいられなかった。
もちろん、自分の役目がどのようなものかも自覚はしているため、受け入れる覚悟はすでに出来ている。
エルシュは一つ深い呼吸をしてから、ベッドへと腰掛けた。先程、味わった柔らかさに思わず、ふっと安堵の息が漏れてしまう。
そこにもう一人分の重みが加わり、ベッドが少しだけ揺れた。
「……」
手を伸ばせば、届いてしまう近さだ。これ程までに男性の傍に近寄ったことはないため、やはり緊張が込み上げて来てしまう。
……私、今夜は眠れそうにないかも。
そう思いつつも横になろうとしていたが、視線の先に仮面を被ったままのリディスがいたため、視線を交えてしまう。
「……寝る時も、仮面を外すことは出来ないのですか」
「……ああ」
「寝返りを打つ際は難しそうですね」
エルシュの返答にリディスは瞳を丸くしていた。自分は何か変なことを言ったのだろうかとエルシュはベッドの上で首を傾げる。
リディスはそんなエルシュを見ては、口を数度開いては閉ざしていた。何か言いたいことがあるのだろうか。
やがて、リディスの口からは重たい吐息が零れる。
「……そなたはこの仮面や私のことを本当に怖がったりしないのだな」
「怖がって欲しいのですか?」
「いや、そんなことは……。ただ、この仮面を被っている私と初めて会った者は奇異なものを見るような目で見て来るからな。そなたのように、最初から臆することなく接してくれる者が珍しいと思ったんだ」
「……」
リディスは仮面のことで、今までどれ程の言葉や感情を他人から投げかけられてきたのだろうか。
窮屈で苦しくて、でも誰も自分の気持ちを分かってくれない世界で生きなければならないことが、どれほど辛いことなのかをエルシュは知っている。
「……陛下」
エルシュはベッドの上に置いていた身体を少しだけ、リディスの方へと近づける。
自ら近づいてくると思っていなかったのか、リディスの身体が一瞬だけ強張ったように見えた。
「仮面を、取って頂けませんか」
「っ……」
エルシュの言葉に、リディスが小さく引き攣ったような声を上げた。
「無理にとは申しません。ただ……陛下が胸の内に抱かれているものを知りたいのです」
真っすぐとエルシュは空色の瞳をリディスへと向ける。王に対する不敬で捕らえられても、おかしくはない発言だがリディスは目を大きく見開いて固まっているだけだ。
だが、リディスの仮面の下に隠されている感情を知りたいと強く思ったのだ。
彼が抱いているものを理解することが出来れば、少しは寄り添えるかもしれないと甘いことを考えてしまったからである。
……初めて会って、それほど時間を過ごしていないと言うのに、寄り添いたいと思ってしまったのは何故かしら。
その意味を理解していないのに、リディスのことをもっと知りたいと思ってしまう。
固まっていたリディスはエルシュから視線を逸らし、震えるような溜息を吐く。その表情は仮面に隠されているのに、何かを恐れているように見えた。