仮面の理由
日が暮れて夕食の時間となり、エルシュが通された自室に侍女が呼びに来たため、付いて行く。
侍女に案内された場所は、大人が手を広げた程の長さの台が真ん中に置かれている一室だった。長方形の台の上には燭台が置かれており、灯されている火によって室内は明るく感じられた。
「座ると良い」
低い声にはっと顔を上げると、すでにリディスが食事の席に着いていた。真向かいの席に座るようにと視線で促してきたため、エルシュは失礼しますと一言、言い置いてから着席した。
「そういえば、エルシュ姫は食べ物において、好き嫌いはあるのか」
世間話を始めるようにリディスが突然、話を振ってきたため、エルシュはつい気の抜けたような返事を返してしまう。
「え? ……いえ、特には……あっ」
「何だ?」
そこで一つ、苦手だったものを思い出したがエルシュはすぐに首を振ってから、答える。
「いえ、何もありません」
「……そうか」
リディスはそれ以上、問い詰めるようなことをしてこなかったので、エルシュは密かに安堵していた。
アルヴォル王国に居た頃、姉姫達と食事の席に同席した際に、嫌がらせとして自分に出されている料理の中に虫を入れられたことを思い出してしまい、つい虫が嫌いだと言いそうになってしまったのである。
……さすがにそんなことを言ってしまえば、色んな意味で引かれかねないわ。
ただでさえ、お互いのことを良く知らない間柄だというのに、相手から不審に思われるような言動はしない方が良いだろう。
リディスが台の上に置かれていた呼び鈴を鳴らせば、給仕係と思われる侍女が配膳台を押しながら、室内へと入って来る。
ふわりと良い匂いが鼻を掠めていき、エルシュは思わず目を細めていた。
他国から嫁いできたとは言え、リディスと夫婦になったことを国民や諸外国へ正式に公表したわけではない。
そのため、自室に居ても妙な緊張を抱いたまま過ごしていたのだが、やはりお腹は空いていたようだ。美味しそうな匂いを嗅いでしまえば、安堵の溜息が零れてしまっていた。
「……この国の料理がそなたに合うと良いのだが」
ぼそりとリディスは呟く。仮面を被っているので、表情から感情までは読み取れないが、それでも自分を気遣ってくれる言葉に嬉しさを感じた。
「私、アルヴォル王国以外で料理を食べたことがなかったので、ドラグニオン王国の料理が楽しみだったんです。向こうはどちらかと言えば、野菜中心の料理ばかりですから」
アルヴォル王国では植物の国という名を背負っているためか、国民のほとんどは野菜が中心となるものを食事として摂っていた。
それでも王家の人間である姉姫達や小さな弟妹は肉を食べることを好んでいたため、食事には肉料理や魚料理も多かった。
しかし、好き嫌いのない自分にとっては他国の料理というものは未知でもあるため、密かに期待していたのである。
「……そうか。それならば良かった。……毒見は済ませてあるので、安心して食べて欲しい」
「はい。ありがとうございます」
目の前に置かれたのは前菜で、薄切りにされている肉とチーズ、そしてトマトが横一列に綺麗に並んでいるものだった。
……粗相をしないように食べるのって、難しいわね。
これでも、姫君としての行儀作法は学んできてはいるが、やはり目の前に人がいると緊張して、上手く食事の手を進めることが出来ない気がした。
自国に居た頃は出来るだけ他の兄弟達と顔を合わせないように一人で食べることが多かったため、誰かと一緒に食事をすることに慣れていないからかもしれない。
空気が重いわけではないが、やはり気まずさが感じられる。
話題を振った方が良いのだろうかと何気なく顔を上げるとリディスも同様に思っていたのか、同時に視線を交えてしまう。
「……」
視線を交えたというのに、このまま無視してしまうことは失礼な気がする。
何か訊ねられるような話題を探していたがたった一つしか思いつかず、エルシュは開きかけていた口を閉ざした。
「……何か、訊ねたいことがあるようだな」
すると、リディスが諦めたような物言いで問いかけてきたのである。気になっていると顔に出てしまっていたのだろうか。
自分の表情は感情が出ないものだと自負しているが、リディスは空気から読み取ってしまったのかもしれない。
それならばいっそのこと、この場で聞きたかったことを訊ねて、靄がかかったような空気を拭ってしまいたい。そう思ったエルシュは思い切って訊ねてみることにした。
「不快な思いをさせてしまったら、申し訳ありません。……陛下は何故、仮面を被っていらっしゃるのだろうと思いまして」
瞬間、自分達の食事を運んで来てくれていた給仕達から、ひゅっと息を吸い込んだような音が漏れ聞こえる。
やはり、聞いてはいけないことだっただろうか。
だが、リディスは意外だと思っているのか、目を少し瞬かせているだけだ。
「……そうか。私が仮面を被っている理由を知らなかったんだな」
リディスは納得するように頷き返してから、周囲に立ったままの給仕にすぐさま目配せをする。
「すまないが暫くの間、彼女と二人きりにして欲しい。用があれば呼ぶ」
人払いをさせる気らしく、リディスの命令を受けた給仕達は丁寧に頭を下げてから、その場から去っていく。
扉が閉められ、室内はリディスとエルシュの二人きりになってしまった。
足音が聞こえなくなってから、リディスはエルシュの方へと向き直る。
「……エルシュ姫は我が国とドラグール王家のことについてはどれ程、知っているんだ?」
「エルシュ、と呼んで下さって構いません。……実は嫁ぐことが決まったのは数日前だったので、一般的に知られていることしか知らないのです」
一般的と例えたのはドラグニオン王国について深いことは知らないと伝えるためだ。周辺の他国について学ぶことはあっても、その内政や治めている国王の中身などは知らずにいた。
「……ああ、そういえば当初はそなたの次姉であるロサフィ王女に婚姻を結ぶことを打診していたな。了承も得ていたはずだが、途中で第二王女の体調が悪いことから、そなたがドラグニオンに嫁ぐことになったと伺っている」
「……その節は大変失礼致しました」
自分が嫁ぐことが決まったのは本当に突然だった。
本来はリディスと自分の姉が結婚するはずだったが、ロサフィは冷徹だと言われている男のもとになど行きたくないと直前になって駄々をこねてしまったのだ。
それに元々、父である国王もロサフィを他国へ嫁がせたくはないと思っていたようだ。
だが、婚姻を結ぶことを決めた以上はこちらの都合で破談して、国家間の関係を悪化させるわけにはいかないため、身代わりのようにエルシュに白羽の矢が立ったのだ。
「いや、構わない」
恐らくリディスは何故、自分が姉の代わりにこの場に居るのか分かっているのだろう。
しかし、彼は腹を立てることも呆れることもなく、淡々と受け止めているように見えて、エルシュは更に申し訳なく思ってしまう。
「……では、ドラグニオン王国が何故『竜の国』と呼ばれているかは知っているか?」
「えっと……。おとぎ話にもされている伝説の神聖竜が神として、信仰されているからだとお聞きしています……。それと確か、遥か昔に竜が空を自由に飛び交う国だったとも聞いております。……今も竜はこの国で見かけることは出来るのでしょうか」
「人が住んでいる場所では滅多に飛ぶことはないが、深い谷や森の奥で密かに生きていると聞いている。……しかし、そうか。あまり詳しいことは知らないんだな」
「……申し訳ありません」
明らかに自分の勉強不足だ。少し目を伏せながらエルシュが謝るとリディスはすぐに首を振り返す。
「いや、知らないならば、これから知っていけばいい」
真っすぐと向けられる青い瞳に捕まってしまったエルシュは、何となく気恥ずかしさを感じて、今度は目線を少し下へと逸らした。
無礼なことだと分かっているが、そうしなければあの瞳に射貫かれてしまいそうな気分だったのだ。
「では、本題に入ろう。……まず、私がこの仮面を付けている理由だが、これは竜の力を抑えるためでもあるんだ」
「竜の力?」
初めて聞いた言葉にエルシュは小さく首を傾げた。
「そなたが言っていたように、この国では神聖竜と呼ばれる竜が信仰されている。力が強く、人々を幸福へと導く竜として崇められているんだ。また、私の祖先である初代国王が神聖竜から加護を受けたことで王家の正統継承者である者には代々、竜の力を宿した者が生まれるようになったらしい。それは魔法を使うために必要な魔力と似たような力だ」
そう言いながら、リディスは右手の指先で銀色の仮面を二回ほど軽く叩いた。
「だが、その力は自分一人では抑えきれない程に膨大で強いものだ。力を放出し続ければ、自分と周囲に影響が出てしまうため、制御するための術が施されたこの仮面を常時身に着けておかなければならないんだ」
「どんな時も外すことは出来ないのですか?」
「……短時間であれば力を制御出来るが、あまり外したくはないな」
どのような事情があるのだろうと思っていたが想像以上だ。上手い言葉がかけられずにいると、リディスは気にする必要は無いと告げるように再び首を横に振った。
「私にとっては普通のことだ。そなたが気に病むことはない」
「……聞いてはいけないことかと思いまして」
「まぁ、確かに一部の者は腫れ物を扱うように、仮面のことを深く訊ねては来ないからな。しかし、私がそれを一々気にしていても仕方がないだろう」
リディスはそう言って、淡々と答えているように思えたが仮面の下の青い瞳が一瞬だけ揺らいだのをエルシュは気付いていた。
彼の本音はどうやら仮面の下と共に隠されているらしい。
「だが、そなたは思っていたよりも物怖じしない性格なんだな。……私の顔が怖いのか、初めて会った者はほとんどが怯えて口籠るというのに」
意外だと言わんばかりにリディスはそう呟いてから、グラスに入っていた葡萄色の飲み物を喉へと流した。
「そうでしょうか」
「挨拶を交わした時、表情を動かすことなく真っすぐ視線を向けて来たのには驚いたぞ」
「あら……。それなら私も、まさか一国の国王様が同じように跪いて、挨拶をして下さるなんて思ってもいませんでした」
「……堅苦しいのは苦手なんだ。それに玉座からでは、話をしようにも遠すぎるからな」
どうやら、リディスは噂とは大きく違った人物らしい。そのことに安堵しつつも、エルシュは変えることの出来ない表情のままで自身について話すことにした。
「実は私、感情が表情に出にくいのです」
そう言って言葉を綴る時でさえ、微塵も表情が変わることはない。
「自分の中では笑ったつもりでも、笑えていなかったり……。冗談を言ったつもりでも、真顔なので本気だと受け取られてしまうのです。アルヴォル王国で過ごしていた時は周囲から、ずっと無愛想で近づきにくいと言われていました」
まるで他人事のように自身について話すエルシュに対して、リディスは一度、口を閉ざしてから言葉を零す。
「……そうか。それなら私と少しだけ似ているな」
「え?」
「私も仮面を被っていることで、表情が読みにくいと言われるんだ。……だが、表情から感情を読み取られて、相手に都合よく話を持って行かれるよりは良いだろう」
「それは……確かにそうですね」
エルシュは一理あると頷き返すと、リディスの口元が少しだけ緩まったように見えた。
……きっと皆、仮面の方ばかりに目がいくから、本当の表情を読み取られにくいのね。
同情よりも悲しみの方が勝ってしまうのは何故だろうか。せめて、自分だけはリディスの感情を読み取りたいと思ってしまったのだ。
お互いに再び無言が流れ始めても、それは決して居心地が悪いものではない。むしろ、この静けさが好きだと思えるから不思議だ。
まだ、リディスと顔を合わせて一日目だというのに、エルシュの心は自国に居た頃よりも安らかに感じられていた。