想う心
ジークに呼び出しを受けたリディスは不満げな表情を隠すことなく、自らの執務室へと戻って来ていた。
「そんなに機嫌を悪くしないでくれよ、リド。仕方がないだろう?」
「……別に怒ってなどいない」
「あ、嘘だね。君は拗ねている時、目を細める上に、口を尖らせる癖があるから」
「……」
この宰相はたまに腹黒い時があり、時折、自分をからかっているのはよく分かっているが、ここ最近はエルシュ絡みによるからかいが増えているような気がして、リディスはわざとらしく顔を顰めた。
「それで用件は何だ。わざわざ私を呼び出しておいて、お前一人で事足りる用事だったならば、今月の給料は減給するぞ」
「うわっ、それって職権乱用って言うんだよ?」
「知るか」
「まぁ、そんなに邪険にしないで。エルシュ姫と過ごす時間なら、あとでたっぷりとあげるからさ。あ、それとも夜の方がいい? 僕としてはそろそろ、リド達の子どもにジークおじさんって呼ばれたいなぁ、なんて……」
「いいから、早く用件を言えっ!」
止まりそうにないジークの言葉に終止符を打つためにリディスは大きな声を張ってから、彼を睨んだ。
ジークは舌を小さく出してから、悪気がないと言わんばかりに笑っている。
この男は人をからかうことさえしなければ、有能かつ人望厚い人物として扱えるのにと何度思ったことだろう。
百歳以上の歳の差があるため、向こうは自分に対して孫を相手にするような態度で接して来ることがよくあった。
それが鬱陶しいような、安堵するような不思議な感覚を抱いていることは絶対に口が裂けても言わないと心に決めている。
すると、それまで陽気な表情をしていたジークから、ふっと笑顔が消えたのだ。瞬間、自分を呼び出した用事が例の件についてだということはすぐさま察せられた。
「……あいつが帰ってくるんだな?」
それは自身の従兄弟でもあるダドリウス・ファヴニルのことだ。
魔法の国、カルタシア王国に留学していた彼だったが、王立魔法学園を卒業するとともにドラグニオンへと戻ってくるつもりらしい。
「うん。恐らく、一週間後くらいには王城入りするだろうね」
「……そのままカルタシア王国に居座ってくれれば、どれほど楽だっただろうか」
「まぁ、さすがにそれはこちらにとっては都合が良過ぎる話だけれどね」
数年前まで、ダドリウスは決して他国へ留学する気はなかった。
ジークによる説得が効いたのかは分からないが、結局ダドリウスは留学することを心に決めてくれたため、数年間だけはリディスを取り巻く王城内は穏やかだったのだ。
「だが、この数年間のおかげで基盤はある程度、整えることが出来た。ダドリウスが帰って来ても、そう簡単に覆すことは出来ないだろう。……もちろん、気を緩めるつもりはないがな」
「うん、暫くの間は闇討ちされないように気を付けてね」
「物騒なことを言うな」
もちろん、この話はエルシュにはまだ聞かせていない。
彼女がこの国で暮らすことに慣れて、落ち着くまで機会を見計らってから話そうと思っていたのだが、思っていたよりもダドリウスの帰国の方が早かったようだ。
「とりあえず、ダドリウスには離宮の部屋を使ってもらうことにしたよ」
「……ああ、先々代の王妃が余生を過ごしたあの屋敷か」
離宮は王城の敷地内に建てられている屋敷のことで、地位の高い貴族が住むような立派な造りをした屋敷だった。
自分は入ったことはないが、屋敷の内装はかなり豪華絢爛だと聞いている。
「あの場所なら、君とエルシュ姫が普段、過ごしている王城の一角から随分と離れているし。エルシュ姫が王城の外へと出歩かない限り、顔を合わせることは無いだろうよ。……まぁ、ダドリウスの方は行き来が制限されているわけではないから、王城のどこかで鉢合わせ、なんてこともあるかもしれないけれど」
「……出来るだけ、私とエルシュの私室には近づかせないように警備の者を増やしておいてくれ」
「もちろん、その辺りもぬかりなく」
ジークは頼りがいのある表情で頷き返す。この男は本当に先回りが得意なようだ。
「さて、ダドリウスはどう動くかな。……自分を担ぐ者達を率いて、自ら王位を望むのか、それとも──自滅かな」
まるで預言するような物言いでジークは低い声で笑う。このような悪い笑みを浮かべているなど、エルシュは思ってもいないだろう。ジークはエルシュの前では猫を被っているのだ。
「……こちらからは動くなよ。それとダドリウスの周辺に忍び込ませる密偵の選定はお前に任せる」
「了解。……お互いに寝首を掻かれないように気を付けようね」
「ああ」
ジークは他にやることがあるから、と言って執務室から出て行った。
「はぁ……」
一人になった途端に、重く長い溜息を吐いてしまう。
いつか、この日が来ると思っていた。
対峙しなければならない日が来ることは前々から覚悟していたことだ。それが予定よりも少し早まっただけだと自分に言い聞かせる。
「……守らなければ」
生まれて初めて、心を揺り動かしてくれた白い髪を持った姫君の姿が伏せられた瞼の裏側に映される。
表情を表現するのが苦手だと言っていたため、常に無表情ではあるものの、呟かれる言葉はどれも温かく、強い意志が込められたものばかりだった。
呪いの進行を隠すための仮面を取って見せても、エルシュは怖がったりはしなかった。それどころか、美しいと言い切ったのだ。
それが世辞などではないことは、真っすぐと向けられる水色の瞳から察することが出来た。
……本当に雪のように清廉で、氷のように透き通っている。
国同士の結びつきを深めるための結婚だったとしても、自分の心は確かにエルシュを想う気持ちで満ちていっていた。
このような感情を今まで持ったことがなかったため、最初は戸惑ってしまっていたが、エルシュと接するうちに悩むことが勿体ない気がして、最近は積極的に彼女と接するようになった。
エルシュと過ごす時間は、自分の心と身体が休まる大切な時間だ。
だからこそ、幼い野望だけで動いているダドリウスに今の安らかな時間を壊されたくはないのだ。
リディスは伏せていた瞳を開いてから、改めて強く決意するように短く息を吐いた。