曇る表情
エルシュがドラグニオン王国へと嫁いできて、一ヵ月程が経った。
リディスとの仲は良好だが、夜は相変わらず密着して眠るという日が続いたこともあり、さすがのエルシュも慣れて来ていた。
それでも今の時期は夏場であるため、密着されたままでいるとお互いにかなり暑くなってしまうので、エルシュは雪華の力を使って、寝室の室温を下げるしかなかった。
室温を下げなければリディスが密着して寝ないのではと思ったが、雪華の力を使っていない日でも密着して寝ようとしてきたので、結局は添い寝がしたいだけのようだ。
……表情に感情が出ないっていいわね。
自分が普通の表情筋を持っていたならば、あっという間に顔を真っ赤にして、動けなくなってしまっていただろう。
顔に出ないと分かっているため、平静を装っていられることをこれ程までに感謝したことはなかった。
「エルシュ様、お茶の準備が整いました」
部屋で待機していたエルシュは、階段付きの露台から部屋へと上がって来るフィオンの呼びかけに反応するように、読んでいた本から顔を上げた。
「ありがとう、フィオン」
「では、私は部屋に控えていますので、何かあれば卓上の鈴を鳴らしてお呼び下さい」
「分かったわ」
フィオンは可憐な動作で服の裾を少しだけ持ち上げてから小さく頭を下げて、壁際へと下がっていく。
エルシュは座っていた椅子の上へと本を置いてから、露台から庭先へと続いている階段へと向かった。
庭には大きな木の影が作られている場所に白く丸い机と椅子が置かれていた。
机の上には二人分のカップとティーポット、そしてエルシュが作ったチーズケーキやクッキーが上下二段になっている盛り付け皿に飾られたものがフィオンによって用意されている。
彼女は一人で全てを用意していたので本当に出来た侍女である。
庭先でお茶を飲もうと誘ってきたのはリディスだ。執務の休憩の時間を見計らって、訪ねて来ると言っていたが、そろそろ来るだろうとエルシュは椅子に座って待つことにした。
すると案の定、重みのある足音が聞こえ始めてきたため、すぐに顔を上げた。
夏場でもリディスは身体に生えている竜の鱗が見えないようにと色が濃い長袖のシャツを着ており、そして仮面はもちろん付けたままである。
今日はいつもよりも気温が涼しい気がするので、リディスもそこまで暑くはないのだろう。
「ようこそ、お出で下さいました」
エルシュは立ち上がってから、リディスを迎えるために一礼した。
「遅くなったか?」
「いえ。たった今、支度が整ったところでした」
リディスが席へと座ったことを確認してから、ティーポットに入っている紅茶を二つのカップにゆっくりと注いでいく。
紅茶の煮出し時間もぴったりだったらしく、フィオンは本当に有能な侍女だなとエルシュは心の中で彼女に感謝した。
自分達以外に誰もいない庭で二人きりでお茶を飲むなど、本当に贅沢なことだと改めて思う。
元々、それほど姫君としての自意識が高い方ではないエルシュはふとした時に、自分は王家の人間の一人で、今はリディスの妻であると自覚しては戸惑ってしまいそうだった。
エルシュは盛り付け皿からケーキとクッキーを一つずつ取り分けてから、リディスの前へと置いた。
「ありがとう。……もしや、これらの菓子はエルシュが作ったのか?」
フォークでケーキに線を入れるように一口の大きさに切ってから、リディスは口へと運ぶ。そして、ふっと笑みを綻ばせてから、美味しいと呟いてくれた。
「はい。こちらはチーズケーキですが、固めるために少しだけ、雪華の力を使いました。クッキーは普通に作りましたが」
「そうか。……いや、他の臣下達に私ばかりがエルシュの菓子を食べることが出来て、ずるいと言われてしまってな」
「まあ……。好評なようで、何よりです」
ドラグニオン王国に来てからというもの、お菓子作りはもはや、エルシュの趣味の一つとも言えた。
厨房に入り、他の料理人達に混じってお菓子を作っていても咎める者はいないし、むしろ手伝ってくれたり、味見をしてくれる者ばかりだ。
だが、作る数が少ない時にはリディスの分を優先的に作るのでお菓子の数が足りず、食べられない者もいたのだろう。
「では、次に作る時は多めに作りますね。あ、大臣方と会議をする際にお出ししましょうか?」
「……それはそれで、少しだけ複雑だな」
リディスは紅茶が淹れられたカップを右手で持ちつつ、どこか気に食わなさそうに呟いた。
「あら、どうしてですか?」
「……臣下達とは言え、大半が男ばかりだ。あまり、そなたが作った菓子を食べてもらいたくはない」
呟かれる言葉は少しずつ小さいものへと変わっていく。
「つまり、陛下は私が作るお菓子を独り占めしたいということですね」
「……」
認めたくはないのか、少し気まずそうにリディスはエルシュから視線を逸らして、紅茶を一口、口へと含みつつ無言を貫いていた。
「では、陛下の分は特別美味しくなるようにと更に思いを込めてからお作り致しますので、どうか他の方の分のお菓子を作るのを許して頂けないでしょうか」
「それは……。……分かった」
リディスは素直にこくりと頷く。その素直さが年頃の少年のように見えたエルシュは表情を柔らかくしてから、自らが作ったクッキーを口へと運んだ。
「……そうだった。一つ、伝えるか迷っていたことがあるのを思い出した」
リディスはそう言って、持っていたカップを一度、ソーサーの上に戻してから顔を上げる。
「何でしょうか」
「実は……そなたの姉であるロサフィ第二王女が自国の若い大臣と結婚するらしい」
「……」
思わず二枚目のクッキーを摘まんでいた指先の力が緩まってしまい、クッキーは皿の上へと小さな音を立てながら落ちた。
「……どういう、ことですか」
自分の次姉であるロサフィがドラグニオン王国のリディスに嫁ぐことを嫌がったため、父である国王によってエルシュが嫁がされることになったと言うのに──。
その言葉を口にしなかったのは、きっと自分が今の生活を想像以上に幸福だと思っているからだろう。
心優しいリディスのもとへと嫁ぐことが出来て喜ばしいと思っているため、ロサフィが結婚すると聞いても首を傾げるくらいの感情しか沸いてこなかった。
「詳しい内容は入って来ていないが、我が国からも祝いの品を持った使者が送られるはずだ。何でも、アルヴォル王国内で美形と言われている大臣らしいな」
「恐らく内務大臣でしょう。それまではその方の御父上が大臣でしたが、役職をお譲りして隠居なされたらしいです。ですが、ご子息もとても有能な方だとお聞きしています」
「ああ、なるほど」
納得するようにリディスは頷き返してくる。
自国内で結婚すれば父である国王の目が届く範囲であるため、姉が若い大臣と結婚することは快く思われたのだろう。
もしくは自分が知らない間に、二人は恋仲だったのかもしれない。
今となっては、全てどうでも良いと思えるが、気になることが心の中にふつりと沸いて来てしまったのだ。
何となくリディスの口からロサフィの名前が出るのを嫌だと感じてしまったエルシュは少しだけ表情を曇らせた。