雪華の力
「……」
何となく空気が先程よりも重くなってしまった気がして、エルシュはぱっと顔を上げた。
「あの、陛下……。まだ暑いようでしたら……室内の温度を下げましょうか?」
「なに?」
気の利いた話題へと変えることが得意ではないエルシュは咄嗟に思いついたことをいつの間にか口にしていた。
仮面を被っている上に長袖を着ている姿は見るからに暑そうなので、汗を流しながら執務を行っているリディスに思い切って提案してみることにした。
「そのようなことも出来るのか……?」
「ええ、空気中の水分を操って、冷たい水蒸気を作り出してから室温を下げることが出来ます。……その、とても暑そうに見えるので、もし宜しければ……」
おずおずと切り出してみると、リディスは少しだけ口元を緩めてから頷き返した。
「では、お願いしよう」
リディスの返答を受けてから、エルシュは部屋の窓を閉め切り、そして右手を左から右へと一閃を薙ぐように軽く振った。
自分が持っている雪華の力は、魔力を使って、魔法を生みだす方法とは全くの別物だ。
……涼しく、冷たく。透き通るような空気に──。
目を瞑りながら、エルシュは空気をかき混ぜるように、上下左右に手を振った。
体内に力が宿っているというよりも、自らの意思を強く持ち、想像しながら念じることで空気中の水分がそれに従ってくれるのだ。
言うなれば、「対話」するように自然の力を借りていると言ってもいいだろう。
傍から見れば自在に操っているように見えるがそれなりに集中力が必要となるもので、細かいことも出来るようにと日々、鍛錬によって身に着けて来たのである。
エルシュが瞳を開けてみれば周囲の空気は先程よりも大分、涼やかになっており、想像通りに雪華の力で室内を冷やすことが出来たようだ。
リディスの方へと振り返れば、彼は目を丸くしてから何も見えないはずの空間を凝視していた。
「……そなたは本当に凄いな」
ぼそりと呟かれる言葉には深い感心が含まれていた。
「一瞬で室温を下げることが出来るなど魔法のようだな……。それまで暑かったのが嘘だと思える程に快適だ。これならば執務に集中することが出来るだろう。……ありがとう、エルシュ」
「……恐れ入ります」
まさか、それ程までに深くお礼を言われるとは思っていなかったため、エルシュは熱いものが身体の内側から込み上げてくるのを何とか抑えながら、リディスへと頭を下げた。
ここまで喜ばれるならば、明日もこの執務室を雪華の力で冷やしに来てみようかと思ってしまう。
……寝室も寝る前に涼しくしておこうかしら。
その方が寝付きやすいかもしれない。今のところ、リディスが自分に手を出すような状況に入ってはいないので寝苦しくは無いのだが、涼しくしておけば喜んでくれるかもしれない。
そう思うと、上手く笑えなくても口元が緩んで行く気がした。
そこへ執務室の扉を叩く音が響き渡る。リディスに用がある者が訪ねて来たのだろう。
エルシュは空になった器をトレイに載せたものを両手で抱え直した。
「入れ」
「失礼するよ」
軽い口調で部屋へと入って来たのはジークだった。彼の手には書類が握られているため、リディスに仕事の話をしに来たようだ。
「リド、ちょっと相談が……って、ええっ!? 何、この部屋……。凄く涼しいんだけれど!」
廊下との室温の違いに気付いたのか、ジークは目を見開いたまま、その場で首を大きく左右に動かしては見渡していく。
そして、エルシュがリディスの近くに立っていることに気付くと合点がいったのか、変な声を上げながら、感心するように呟いた。
「ほぁー……。もしかして、エルシュ姫がこの部屋を涼しくしたのかな?」
「はい、そうです」
「凄いねぇ……。雪華の力は氷雪を自在に操れると聞いていたけれど、まさか空気中の温度も下げられるなんて……! いやぁ、本当に良かったね、リド。エルシュ姫のおかげで君の嫌いな夏はこれから快適に過ごせるぞ!」
捲くし立てるようにそう告げるジークの言葉を聞いて、リディスは少しだけ目を細めた。
「……確かに過ごしやすいが、何度も彼女に頼るのは申し訳ないだろう」
どうやら、リディスは自分のことを気遣ってくれているらしく、小さく首を振っていた。
「……あの、ご迷惑でなければ、私は構いませんよ?」
リディスとジークの会話に割って入るようにエルシュは控えめに声を上げる。
「私の力が役に立つというのならば、ぜひ使って頂きたいです」
「だが……」
渋るようなリディスの言葉にエルシュは一度、首を横に振った。
「使って頂けませんか。……誰かに私を必要とされたことがなかったので、力を必要とされるだけでも、十分過ぎるくらいに嬉しいんです」
エルシュの答えにリディスとジークは一瞬だけ、眉を中央へと寄せて、困っているような表情をした。
しかし、ジークはぱっと表情を明るくしてから、頷き返してくる。
「それなら、エルシュ姫の力に甘えちゃおうかな」
「おい、ジーク……」
ジークの返事に対して、リディスがたしなめるように呟く。だが、ジークはそんなリディスを無視してから、エルシュの方へと歩み寄って来た。
「まあ、いいじゃないか。エルシュ姫の気遣いを受けようよ。……それじゃあ、さっそく僕の執務室の室温を下げてもらおうかな。あ、もしかして力を使うたびに、身体に大きな負担がかかることはあるかな?」
「いえ、特には……」
「それなら、良かった。──そうそう、リドに話があるんだった。この書類に目を通しておいてくれ。外務大臣がカルタシア王国へ歴訪する際の旅費について相談して来たから、その費用を見直してみたんだ」
「あ、ああ……」
矢継ぎ早に言葉を紡いでいくジークから書類を渡されたリディスは、戸惑いながらもジークとエルシュを交互に見ていた。
「じゃあ、エルシュ姫を少しお借りするよ、リド。……そういえば、エルシュ姫が厨房で氷菓子を作ったって聞いたのだけれど、まだ残っているかな?」
「え、ええ……。たくさん作ったので、まだあると思います」
「おっ、良かった。それなら僕もあとで一つ、頂きに行こうかな。こう見えて、僕は甘いものが好きでねぇ。また何かを作った際には頂けると嬉しいな」
「趣味で作ったお菓子ですが、それでも宜しければ……」
まるでリディスが会話に入り込む隙を与えないように、ジークは言葉を捲くし立てている気がした。
ジークに急かされて執務室を出ることになったエルシュだが、出る前にちらりとリディスの方へと視線を向けてみる。
「……」
仮面の下の瞳は細められており、そして何故か口先が少しだけ尖っているように見えたのは気のせいだろうか。
ジークによって扉が閉められる前にエルシュはリディスに向かって、軽く頭を下げてから執務室を出た。
ぱたんと扉が閉まった後、突然噴き出したのはジークだ。何が面白かったのかは分からないが、彼は腹を両手で抱えながら肩を震わせて笑っている。
「はははっ……。いやぁ、まさかリドが拗ねる顔を見られるなんて、長生きはするものだね」
「え?」
「でも、これで確認出来たかな」
彼は一人で納得するように何度も頷きながら、満足気に笑うばかりだ。一体、何のことだろうかとエルシュが首を傾げていると、ジークはふわっと花が咲いたように笑う。
「まぁ、君とリドの仲が順調のようで良かったってことさ。……さて、僕の執務室はこの隣の部屋だよ」
どこか気分が良さそうにジークはにこにこと笑ったままだ。
……私、そんなに陛下と親しくしていたかしら?
今日は氷菓子をリディスに食べて貰って、そして執務室の室温を雪華の力で冷やしただけだ。特に何かをしたわけではない。
「おーい、どうしたんだい、エルシュ姫?」
「あっ……。今、参ります」
とりあえず考えることは後回しにしよう。透明な器がトレイの上から落ちないように気を付けながら、エルシュはジークの後を追うことにした。