彼らが戻ってくる前に
アルバートル達が乗っている船がダグド領に戻ってくるまでには、あと二時間もかからないであろう。
フェリテアは我がダグド領を富士山とすると、方角的にも距離的にも新潟県の真ん中くらいの位置にある国である。
あの辺りは柴犬の愛好家が多くて有名な町があると俺は前世の祖父に教えられたと思い出し、そして、柴犬のような外見の狼族の青年の面影までも瞼に浮かび、彼が一度も笑顔を見せなかったと俺は目がしらに手を当てながらも席を立った。
「ダグド様?」
「あぁ、すまない。俺はこれから死神になってくる。彼の家族に彼の死を伝えて来なければ。」
「俺が。」
「いいや。これは俺の仕事だ。」
俺は軽く頭を振って情けない表情を捨て去ると、いざ、彼の姉に弟の死を告げに行かんと、一歩、会議室の戸口へと踏み出した。
だが、俺がドアを開ける必要もなく、ドアは勝手に、それもはじけ飛ぶのではという勢いで開き、そこには混乱した顔のエレノーラが立っていた。
「どうした?」
水晶球に乙女達を映したが、彼女達にはフェリテアの街並みがぼんやりとしか見えていなかったはずだ。
見えていたのか?
俺が見殺しにした青年の死の顛末を。
真っ黒の黒煙を吐き出す業火によって、あっという間に体が煤になってしまった哀れな青年の最期が。
「どうしたんだ。エレノーラ。」
彼女の空のように澄んだ真っ青な瞳は不安の影を浮かべており、健康的な肌の色は血の気を失ったかのように真っ白だ。
いや、彼女は確実にぶるぶると震えている。
「何があったんだ?」
「あか。」
「え?」
「赤ちゃんが。」
「モニークに赤ん坊が出来たのか!まだ俺は付き合いは許したが子作りまで許した覚えはないぞ!あの野郎!帰ってきたら殺す!」
俺の激高ぶりに俺の後ろでティターヌが吹き出した。
しかし、エレノーラは笑うどころか、俺の胸元を両手で突いた。
どんっと。
「うわっ!何をするんだエレノーラ。確かに赤ちゃんは歓迎すべきことだが、イヴォの行為は歓迎どころか血祭りにあげるべきことだろう。親としては!」
再び、俺はどんっと、エレノーラに突かれた。
そこで俺は情けなくも尻餅をついた。
見上げたエレノーラは両目から涙をぽろぽろと流しており、俺はそんな彼女の姿がいたたまれないと、下から彼女の左腕を思い切り自分の方へと引っ張った。
「きゃあ!」
バランスを崩した彼女は当たり前だが俺の元へと落ちてきて、俺は腕の中に納まった彼女をぎゅうと抱きしめた。
ひまわりのような彼女は太陽のように温かく、花というよりも焼き立てのケーキのような香ばしく好ましい匂いが俺を包み、俺の鬱屈した気持ちを和らげた。
「すまない。俺は自分の辛さを発散したかった。で、あの子は大丈夫なんだろうな。それで、はは、俺達は結婚する前にジジとババか。君には貧乏くじばかりですまないねぇ。」
「い、いえ、あの。モニークは妊娠などしておりません。それよりも、シロロちゃんが。あの、赤ちゃんって。」
俺はモニークがまだ純潔らしいことにほっとし、だが、聞き捨てならないシロロについては聞き捨ててしまいたくなった。
俺はエレノーラがこれ以上余計なことを報告しないようにと抱きしめ直し、しかし、俺のエレノーラは俺の領地の差支配人に俺が指名しただけあって、公私をきっちりと分けることのできる方であった。
「聞いてください。シロロちゃんが狼族の赤ちゃんを拾っちゃったそうです。僕じゃ育てられないって、わたくしに連絡してきたのです。わたくしが育てるって彼に伝えましたが、どうしましょう、わたくしは赤ちゃんの子育てなどしたことはありません。赤ちゃんをどうしてあげたらいいのでしょう。」
俺はシロロに感謝をしながら、エレノーラをさらに抱きしめた。
「ダグド様?」
「……大丈夫。俺だって子育て何てした事はないよ。」
「あら、あなたはみんなのお父様では無いですか。」
「どうやって育てるのかわからないから、俺は愛して甘やかしているだけだよ。ハハ、一番甘やかさなければいけない君には俺は甘えてばかりだがね。そのせいで君はまだ二十六歳なのに、ほら、こんなに苦労ばっかり背負っている。」
俺は彼女を抱きしめる左腕は緩めなかったが、右手は彼女の目元から頬にそってさらっと撫でた。
彼女は嫌がるどころか、俺の掌に頬をぴったりと添えてうっとりとした表情を見せて目を瞑った。
まるでクリムトのダナエのようだと俺は考え、彼女はなんてエロティックであるのに神々しい美しさをも持っているのだと、俺こそ彼女にうっとりとした。
「君の肌はシルクビロードみたいだ。」
「ふふ。ダグド様は。わかりました。頑張ります。私の子供として育てます。」
「いや。君は育てなくて良い。その子を育てたいと望む男がいるはずだ。」
彼女はぱっと目を開けた。
そして、寂しそうな表情になった。
「どうしたの?」
「一緒に育てようとは言って下さらないのですね。」
「言わないよ。アルバートルに押し付けるつもりなんだから。俺達は新婚でしょう。赤ん坊の世話は彼に任せようよ。俺達のお兄ちゃんじゃないの。」
エレノーラが顔に浮かべた表情は、俺が一度も見たことは無いほどに悪魔的で、この上ないほどに扇情的なものだった。
俺のピクリともしなかったものが、ピクリとしてしまった程に。
それがどことは言わないが。




