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噂をすれば訪問者


 午後六時――地獄の時間がやっと終わった。

 ひと安心したと思いきや、久保塚が帰った後、お母さんが夕食の準備も中断して、本日三度目の説教を開始した。

「最近、勉強に全然身が入っていないじゃない。どうしたの?」

「ごめんなさい。もっと、頑張ります」

「頑張るだけじゃなくて、ちゃんとした結果を出してちょうだい。もっと、頑張りなさい。頑張りが足りないから、遅刻をしたり、テストの点が悪くて居残りをさせられたりするの」

 謝るしか言葉に出す力は残っていない。ふと、テレビかネットで聞いたフレーズを思い出した。頑張っている人に頑張れって言ってはいけません。お母さんはそれを知らないか、僕は頑張れを言ってはいけないと思ってないのかもしれない。

「私とお父さんはね、あなたに投資をしているの。二つの塾と家庭教師に通わせるお金は、決して安くないの。太陽はその代わり、投資に見合った成果を出さないといけないの。太陽に求められている成果は何か分かるわよね?」

「受験に合格すること」

「そうよ。中学受験、高校受験、大学受験、そして就職活動。人生は“ふるい分け”の連続なの。出来の悪い人から脱落して、一度も失敗しないで最後に残るのが優秀な人なの。途中で落ちたらそこで終わり。最初で中学受験落ちたら、太陽はずっと、落ちこぼれのままなのよ」

「はい」

「従姉の葉月ちゃんがいい例ね。あの子は変わり者だけど、成績はよかったじゃない。だけど、高校受験で名門の秀英高校に落ちたでしょ。しかも、面接なんかで。今では、名前の知らない三流の高校に通ってるけど、いくら頭の良くても結果が実らなかったら意味がないの。負け犬と同じなの」

「はい」

 その時、タイミングよくインターホンが鳴った。

「こんな時間に、宅急便かしら?」とお母さんはカメラに映る訪問者の姿を確認した途端、「うげっ」と、サスペンスドラマで一服盛られた被害者みたいな声を漏らした。

「あ、あら、葉月ちゃんじゃないの。久しぶりね。どうしたの、こんな時間に?」

「こんばんは、叔母さま。タイくんに頼まれて、自由研究の手伝いに来ました」

「まあ、そうなの」

 お母さんと僕は、地味な灰色で薄いジャージ姿の葉月ねえちゃんを出迎えた。きっと、僕の返事を聞きに来たのかもしれない。もしくは、図書館での件をお母さんに話していないかどうか確かめるためか。こっちだって気まぐれな従姉が口を滑らしたりしないか心配だった。

 僕は慌てて、彼女の手を引っ張って自分の部屋に連れて行った。

「タイくんのお部屋って、相変わらず牢屋みたいだね」

「お母さんに、あのことは言ってないから」

「ありがとう」

「葉月ねえちゃんは本気なの?」

「私は本気だよ。タイくんはどう?」

 頭の中に思い浮かべていた天秤は、久保塚が帰った時から片方に傾いていた。僕の中で、『生きること』は『死ぬこと』よりも軽くなっていた。

「する」

 なんとかその一言だけを絞り出した。近くで踏切の音が聞こえる。窓の外は暗くなり始めていた。

「叔母さんの手伝いをしに行くね」

 葉月ねえちゃんは何事もなかったように部屋を出ていった。


 自分の返事の重みを実感しないまま、僕は一階のリビングに降りた。お説教で中断していた夕食の準備を、エプロン姿の葉月ねえちゃんが手伝っていた。今晩の夕食はカレーライスとポテトサラダのようで、器用な手つきでニンジンやジャガイモを包丁で刻んでいく。

「上手いわね、葉月ちゃん。いつも、家の手伝いをしてるの?」

「少しだけです」

「うちの太陽も見習わないとね。今時、男の子も調理ぐらいはできないとね」

 さっきまでとは違う優しいお母さんモードだった。日頃から、家庭科と図工は無駄な授業だからなくした方がいいなんて言っていたくせに。

「タイくんも塾とか家庭教師とか頑張ってます」

「葉月ちゃんだって、勉強はよくできる方じゃない」

「少しだけです」

 葉月ねえちゃんは謙遜したが、少しどころじゃない。中学時代は、誰もが(僕も含めて)認める天才児だった。

 二年前、当時中学三年生の葉月ねえちゃんは、私立秀英高校を受験した。県内でトップクラス、全国でも五指に入る難関校の試験は、偏差値七〇以上の受験者が毎年受け、倍率も十倍という狭き門である。葉月ねえちゃんはその筆記試験で満点に近い高得点を叩き出した。これは地元でニュースになったほどで、我が町に神童現るってな感じでもてはやされた。

 葉月ねえちゃんは母子家庭で、伯父さんは彼女が幼い頃に亡くなって以来、伯母さんの期待は普通ではなかった。僕のお母さんの姉だから、「頑張れ」をスローガンに育てたと思う。

 誰もが合格を信じて疑わなかった。僕やお母さんだって、また伯母さんが自慢をしに来るものだと思っていた。

 しかし、葉月ねえちゃんは不合格だった。しかも面接で落ちた。

 魂の抜け殻になった伯母さんが、面接でのやりとりを教えてくれた。学校に電話して無理やり聞き出したらしい。

 まず、葉月ねえちゃんは面接会場に私服で来た。高校受験で『面接当日は私服で来て下さい』と指示があった場合、私服とは、通っている中学校の制服を意味する。暗黙のルールってやつだ。

 面接の日、葉月ねえちゃんは、今まで地味で目立たなかった自分をイメチェンするために、ジーンズを履き、派手な服、おまけに化粧に髪を金髪に染めて面接に臨んだのだという。

 おまけに、葉月ねえちゃんは面接の間、試験官の質問に答えず、最後までダンマリを決め込んだ。本人はその理由を一切明かなかった。さすがの面接官も迷ったことだろう。特に、年配の教諭が相当激怒したらしくて、成績がいいだけで教師をバカにするような生徒は、伝統ある我が校には不要だと、顔面に青筋を立てて主張したという。

 難関校への進学は夢と消えた。葉月ねえちゃんは今、家から歩いてほど近い別の高校に通っている。競争倍率はゼロに等しく、解答用紙に名前と受験番号さえ書けば合格できるような、吹けば飛ぶ進学先だった。

 伯母さんの落胆をよそに、本人は平穏な毎日を過ごしていた。時には虫の死骸を眺めたり、図書館に居着いたりしながら。そんな人生の海面をクラゲみたいに漂っていたはずの従姉が、どうして自殺を持ちかけてきたのか?

 お母さんと葉月ねえちゃんの二人で、夕食がいつもより早く出来上がった。

「すみません、叔母様。タイくんと部屋で食べてきます。自由研究で考えないといけませんので」

 そう言うと、二人分のカレーとサラダを持って、僕に合図した。

「あら、熱心ね。太陽、葉月ちゃんを困らせないようにね」

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