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ミスター・マッシュルームの人生は真っ暗闇


 急いで玄関を開けると、最初に鬼の形相が目に入った。

「太陽、どこで道草を食っていたの!」

「ごめんなさい。ちょっと塾で自習してて――」

「ウソおっしゃい! さっき、電話したらとっくに帰ったらしいじゃない」

「図書館にいたんだ。その、自由研究の調べ物を……」

 正直者はバカを見る。母さんはさらに怒り出す。

「学校の宿題はもう終わったんじゃなかったの。今年は受験を控えているというのに、模試の成績も良くなかったらしいじゃないの。そんな体たらくでどうすんの!」

 ヒステリックに叫ぶ母さんの背後に、若い学生が幽霊の置き物みたいに突っ立っている。家庭教師の久保塚だ。有名な国立大学の学生らしいけど、紹介すべきところはそれだけの人。お母さんは、この薄気味悪い家庭教師に対して、全幅の信頼を置いている。

 げっそりと痩せたカエルが眼鏡をかけているイメージ通り、いつもヘドロみたいな緑色のカッターシャツを着ている。授業以外ではほぼ無口で、ノリも悪くて冗談も通じない。ロボットに教えてもらっている感じで、当然、ウマが合うはずもなかった。

 説教は授業の後に回された。これで安心したのもつかの間、志望校の過去問に取りかかるとすぐに、今度は久保塚の説教が始まった。

「今日の日付は八月三十日の日曜日。そうだね?」

「はい」

「明日で夏休みが終わる。明後日から二学期が始まる」

「はい」

「四か月後、今年が終わる。年が明けて三週間後、志望校の試験が始まる。君に残されたタイムリミットは、君が思っている以上に残り少ない」

「はい」

「この世で一番平等なのは時間だ。百人の受験生に与えられた試験までの期日も同じ。そして、テストも客観的で正確な結果が出る。分かるかい、ミスター・マッシュルーム? 試験までの期限が差し迫っている、にもかかわらず、成績の調子が芳しくないのは、いかに自分の持ち時間を無駄に過ごしているかなんだ。ちょうど、今の君みたいにね」

 うるさいやつ。こっちは複雑な計算が必要な応用問題に取りかかっている最中なんだぞ。僕は心の中で叫んだ。

「逆に、時間を有意義かつ効率的に使えば、試験も満点を取り、いい学校や大学にも入れて、明るい人生が開ける。ちょうど、今の僕みたいにね」

 ネチネチネチネチ……納豆のように粘りのある精神攻撃は、こちらの集中力を削ぎ落として、走るペンを鈍らせる。ちなみに、ミスター・マッシュルームというのは、久保塚が勝手につけた僕のあだ名だ。僕の髪型がマッシュルームカットというだけで命名しやがった。もっとも、『その名前で呼ぶの、やめて下さい』なんて言える勇気はない。きっと、この教師との関係が悪くなって、この時間が重苦しくなるのは勘弁してほしい。

「君は、今日の授業に十分遅刻した。たかが十分くらいと思ってるよね?」

「思ってないです」

「秒単位に換算してみるといい。なんと六百秒も浪費している。惰眠を貪るという言葉がぴったりだとは思わないかい、ミスター・マッシュルーム。六百秒もだよ」

 算数も知らないのか、ヘボ家庭教師。十分も六百秒も時間は同じだ。

「昔、サラリーマンは気楽な稼業と歌った曲があった。さしずめ、今は家庭教師だね。生徒が志望校に合格すれば、自分の功績になる。万が一、出来が悪くても、お子さんの努力が足りないと言い訳が立つ。すなわち、君の受験がどうなろうと、先生は痛くもかゆくもない。ホント、家庭教師は気楽な稼業ときたもんだ、ミスター・マッシュルーム」 

 こんなに毎日ハッパをかけられ続けて、僕はどうなるのだろう。

「塾の成績もよくないらしいね。だが、おそらく僕の責任ではない。君が通っているのは、確か、『サニーステップ』だったね。志望校合格九十九パーセントを謳う有名な進学塾だ。高い合格率だが、ありがちな数字の詐欺に過ぎない。子供より愚鈍な親なら容易く引っかかる。なぜだか分かるかい?」

「分かりません」

「この手の塾はね、夏の終わりにさしかかると、合格の望みが薄い子にうちに退塾を勧めてくる。その理由は何だと思う?」

「分からないです」

「出来のいい子ばかりを残すためだよ、ミスター・マッシュルーム。塾生全員を分母として、分子の合格者は多い方がいい。分母から劣等生を追い出して、優等生だけを残す。劣等生は初めからいない存在にされるから、合否とは無関係だ。合格率が高いわけだよ。もっとも、できない子も少し残しておく。なぜだと思う?」

「さあ」

 もう答える力もなかった。頭の回転とペンの走りが鈍くなる。

「合格率の帳尻を合わすためさ。九十九パーの合格者と同じく、一パーの落ちこぼれがいないと本当らしくない。彼らはそのためだけの存在だよ。そんな塾に子供を入れる親は、みんな同じことを考えるだろう。うちの子は一パーセントに属するはずがない、九十九パーセントの側だと」

「…………」

「中途退塾者はすぐ人生を切り替えられる。だが、後者は利用されたまま受からない中学受験を強いられ、挙句は時間を浪費する。望みはシングルのトイレットペーパーのように薄いが、合格というもなくはない。はたして、君はどれに転ぶかな、ミスター・マッシュルーム?」

 仮に中学受験を乗り越えたとして、次に高校受験があるし、大学受験、就職活動もある。一体にどこに休みなんかあるのだろうか。

「ほおら、手が止まっている。今まさに君の未来が、希望が少しずつ抜け落ちていく」

 それとも、僕だけには休みなんてものはないのか?

「おやあ、また手が止まっているじゃないか。一度こぼれ落ちた時間は二度と戻らない。まさに、覆水盆に返らず、てやつさ」

 ――ふと、葉月ねえちゃんの言葉が脳裏によみがえる。

『私と一緒に自殺しない?』

「そうするよ」

 従姉が部屋の中にいるつもりで、僕は小さな声で答えた。


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