デートの約束はキャンセル不可
六時間後――模試の結果は散々だった。一教科目の理科には時間切れで試験は受けられず、頭の切り替えができないまま臨んだ次の算数も不振、午後になっても本調子は戻らず、最後の国語も思うようにできなかった。
授業の後に一人だけ残された僕は、塾長から説教を受けた。模試を遅刻しとこと、悲惨な解答が理由だった。塾長の説教を要約するとこうだ。
その一、大事な時期に気がたるんでいる。受験なんかあきらめるべきだ。
その二、今の成績で受験をするなら、塾をやめてもらう。
その三、もっとも、月謝代だけ払うなら、別に来年までいても構わない。
僕は泣きたいのをずっと我慢するしかなかった。学業では、褒められはしても怒られたのは今まで一度もなかったのに。僕は絶対悪くない。全部、葉月ねえちゃんのせいだ。あんなの、ほっとけばよかったんだ!
やっと解放されて、塾の建物から外に出ると、またいつもの口癖を放った。
「死にたいよ。いや、ホント、マジで……」
「宮島くん」
後ろから呼びかける声に死ぬほど焦った。独り言なんかしておかしな奴だと思われてしまう。振り向いた先にいた女子の名前が、一瞬思い出せないほどだった。
「あの、ええと……岡本さん?」
塾では同じクラスで、幼馴染の女子、岡本かりんだった。夏にピッタリの水玉模様のワンピースに、トレードマークであるアゲハ蝶をかたどった赤いブローチで髪を止めている。二重瞼につぶらな瞳に、かわいい小顔。当然。塾生の間では人気が根強い。
かりんは僕の家の隣に住んでいる。幼馴染と言っても、学校のクラスは別々だし、一度も一緒になったことはない。親同士が立ち話だけで、かりんとは塾でたまたま出会ってからも、挨拶以外になかった。
「大変だったね、お説教タイム」
「うん。これから家庭教師もあるし、もうやってらんない」
「でも、宮島くんって、他の人よりもすごく頑張ってると思う」
「そんなことないよ」
「宮島くんてさ、塾を二つもかけ持ちして、おまけに家庭教師も受けてるんでしょ。そんなに必死に勉強して受験に落ちたりでもしたら、せっかくのお金と時間をドブに捨てるようなものだし、自分は頭が悪いですって言ってるみたいだもん。頑張るのも当然だね」
「う、うん、そうだね。ところで、岡本さんは誰かと待ち合わせ?」
かりんはいつもおばさんに車で迎えに来てもらっている。模試のある日は夕方前に終わるので、いつもは友達と一緒に帰っているはずだ。
「明日の月曜日、木村くんと友美の三人で遊園地へ行くんだけど、チケットがあと一枚だけ余ってて。もし、宮島くんがよかったら、一緒に行って欲しいかなって思ったりするの」
「僕も? もしかして、僕が出てくるのを待ってたの?」
「うん、わざわざ。貴重な時間を割いてあげたんだよ」
突然の誘いに戸惑ったせいか、かりんが不安げな表情を浮かべる。
「もしかして、迷惑だった?」
「いや、別にそうじゃないけど……」
「何か用事でもあるの? それとも余裕がないの?」
「女の子に誘われるの初めてだったから、ついびっくりしたんだ」
「そうなんだ。確かに宮島くんなら一度もなさそうだね。じゃあ、オーケー?」
明日か。塾も家庭教師も休みだ。でも、自由研究があるんだよな……。
「もし、行けたら夕方までに連絡してね。じゃあね!」
そう言って、かりんはうれしそうにスキップしながら帰っていった。
かりんとこんなに話して、遊園地に誘われるなんて夢にも思わなかった。体の奥はなんだかおかしい。ドキドキというか、ムカムカする。コップいっぱいの油を飲んだみたいに。悪い言い方になるけど、正直、ムナクソが悪い。これが初恋ってやつなのか?
「やあ、宮島くん」
また声をかけられた。塾で同じクラスの木村秀矢と湯浅友美だった。僕同様、かりんに誘われている、例の二人である。
秀矢は、シルバーフレームの眼鏡をかけ、ゴボウみたいに痩せた体の優等生風。いかにも運動が苦手っぽい。塾の成績は同じぐらいだが、今日の模試に関しては彼の大勝ちだろう。
友美は、ボーイッシュなショートヘア、勝気そうな大きな瞳に尖った感じの唇は、不機嫌なボス猫みたい。スポーツが得意で、ドッチボールでは最後まで生き残れるタイプである。
「よかったね、宮島。かりんとデートの約束をしたんでしょ」
「え、何が? というか、二人ともさっきの見てた?」
「岡本さんが入口で待ち伏せしてから、君が塾から出てくる前からあそこで張っていたんだ」
そう言うと、秀矢は道路を挟んだ先に立つハンバーガーショップを指した。「余計なこと言うな」と友美の繰り出した肘鉄が彼の脇腹にヒットする。
「二人も岡本さんに誘われたんだろ」
「うん。でも、あたしとシュウヤはあんた達とは別々だから」
「ますます分かんないな」
いきなり、友美が僕の首根っこを掴んだ。気道を塞がれて窒息しそうだった。
「鈍感なやつだな、もう!」
次に頬をまともに殴られた。女子のくせに腕力がすごく、結構痛かった。
「明日は絶対に来てよ。かりんはね、あたしの大事な親友だから、もしも、あの子を泣かしたりしたら、絶対に許さないから! 分かった?」
無我夢中で首を縦に振ると、やっと首絞め地獄から解放された。
友美は、父親が館長をしている空手道場に幼稚園の頃からか通い、今では黒帯を巻いている。さらに、最近ではボクシングジムにも通っているらしい。そんな彼女の役割はシンプルで、大親友を泣かした奴をコテンパンに叩きのめすことである。
「かりんは宮島の返事を期待してるの。明日は今日みたいに遅れないでよ」
「ちょっと待って! まだ行くって言って――」
「明日の約束はキャンセルできない。僕に言えるのはそれだけだよ、宮島くん」
秀矢の声はとても小さい。虫の息みたいに。でも、言いたいことはなんとなく分かった。是が非でも自由研究を急いで仕上げないといけない。さもないと、柴田に怒られるより先に、人間サンドバッグの刑が待っている。