世にも奇妙な従姉
時間は午前八時四十分。陽炎でゆらめく上り坂の頂上を目指しながら、僕は一心不乱に自転車を押していた。雲一つない晴天、直射日光が容赦なく照りつけ、汗の洪水が顔から滴り落ちる。靴を履いていても足の裏が熱い。アスファルトの上で目玉焼きが焼けそうだった。
今年の猛暑は、八月下旬になっても弱まる気配はない。セミの鳴き声が止んだ以外に暑さは変わらない。熱中症の注意を呼びかけ放送を聞かない日がないほどである。
こんな暑い日はプールに入りたいものだと何度も思ったけれど、お母さんが許さないだろう。そんな時間はないわよ、家の水風呂にでも入ってなさいって言うに決まってる。海水浴は脳を活性化させ、受験勉強に役立ちますとかテレビで取り上げられない限り、小学生最後の夏休みは、塾通いと家庭教師で始まり、自学自習で終わる。
本日の予定は、午後三時まで塾で模擬試験。四時から二時間は家庭教師。後は時間が許す限り自学自習。平日に比べれたら学校が休みというだけで、笑ってしまうほど辛いのには変わりない。しかも、いまいましい自由研究が残っているし。
やっとの思いで坂を越えた。一気に下りを駆け抜けようと街路樹を通った際、僕はハンドルのブレーキをかけた。
見覚えのあるボサボサの長い髪と猫背が、生垣からのぞくのが見えたせいだ。
「……もしかして、葉月ねえちゃん?」
長いストレートに前髪パッツンの黒髪、間の抜けた犬みたいなタレ目、やや厚ぼったい唇。美人には違いないけど、ぽーっと立っている幽霊みたいな感じなので、ツーショットで写真を撮れば、女の幽霊が隣に映り込んだ心霊写真のでき上がり。
呼びかけに振り向いたその顔は、紛れもなく、従姉の宮島葉月その人だった。僕は葉月ねえちゃんと呼んでいる。僕のお母さんの姉、伯母さんの娘にあたる人だ。
家同士が近い割には、最後に顔を合わしたのが去年の春だったか。葉月ねえちゃんとは、彼女が高校に進学して以来、一度も会っていなかった。
「タイくん、久しぶり」
一言そう返すと、すぐに双眼鏡を地面に向け直した。
「こんなトコで何やってんの?」
「観察」
「何の観察?」
つい気になった僕は、自転車を木陰に止めると、従姉の真横から覗きこんだ。
雑草の生えた土の上にセミの死骸があった。一週間の寿命が尽きてしまい、木から落ちてきたのか。死骸には無数のアリが群がっている。
「こんなの見て楽しい?」
「楽しいとはちょっと違うかも。どちらかといえば、あまり楽しくはないかな」
「じゃあ、なんで虫の死骸なんか覗いてんの?」
「興味があるからかも」
「葉月ねえちゃんは虫の死骸に興味があるの?」
「あるかと言われたら、うーん……ないかな」
「さっきはあるかもしれないって言ったじゃん」
「そんなこと言った?」
「言ったよ」
「たぶん言い間違えかも」
「じゃあ、なんで死骸を見てんの?」
「なんでだろうね。私にも分かんない」
かみ合わない言葉のドッジボールに、僕は軽いめまいを覚えた。連日気温三十度を超える炎天下でセミの死骸を観察するなんて、普通の人ならやらない。少なくとも、僕はしない。
この従姉は本当にバカだな。年上なのに賢いわけじゃないから余計にそう思う。自分よりもレベルの低い人がいると、自分は他の誰かより上の位置にいるんだと安心ができるものだ。
少なくとも、葉月ねえちゃんは尊敬できる大人じゃないのは確かだ。
「葉月ねえちゃんって、本当にバカだよね?」
「うん、バカかも」
「アホだよね?」
「うん、アホかも」
セミの足や羽を何頭ものアリがもぎ取って、草むらの巣穴へ運んでいく。あとに残っているのは、小さな黒い目玉と、原形をとどめていない頭だけ。
「いつからそうしてるの?」
「日曜モーニングって番組、何時からの放送だったっけ?」
「えーと。七時から九時だったかな」
日曜モーニングとは、日曜日にしか放送されていないニュース番組で、今朝のYくんの飛び降りを報じていた。
「中学二年の子が飛び降りたニュースがあったよね?」
「うん、あったね」
「次に、子ブタが脱走したニュースがあったでしょ?」
「うん、あった」
「スマホのそれを見る五分前くらいだから、かれこれ三十分くらいかな」
「そんな早く出かけて、ずっとここにいるのかよ?」
「本当は図書館に行くつもりだったの」
図書館の開館時間は九時半から。それまでの間、ここで時間を潰していたわけか。というか、もっと遅く家を出たらいいのに。
僕はあることに気づいた。さっきから葉月ねえちゃんの息遣いが少し荒い。顔色も紅潮して汗の玉が浮かんでいる。
「ねえ、葉月ねえちゃんは気分とか悪い?」
「ちょっとだけ」
まさかと思い、葉月ねえちゃんの赤い額を触れてみた。頭の中身が沸騰したように熱い。
「何やってんだよ! 熱中症になる寸前じゃん。ホント、葉月ねえちゃんってバカだな」
「うん、バカかも」
葉月ねえちゃんを日陰のあるベンチまで連れて行くと、横に寝させてから公園の噴水で濡らしたハンカチを頭に乗せた。ついでに近くの自販機でジュースを買うと、急いで一一九番に電話をかけた。五分後、救急車が来て、彼女は担架に乗せられた。
「ありがと。タイくんは私の命の恩人だよ。この借りはいつか返すから」
「返さなくてもいいよ。もうやめたら。あんなの見てても仕方ないじゃん」
「そうだよね。あれは元は蝉だった、命の抜け殻。死んだ後だからアリが何をしようと勝手だもの。そもそも、虫の世界で何が起きようと、私達人間には関係ない」
今更だけど一応言っておくとね、僕の従姉は少し変なんだ。
「ところで、タイくんはどこへ行く途中だったの?」
「模試だよ」
「もしもし?」
「うん、そのもしも……しまった!」
僕は慌てて自転車を発進させた。今からいくら急いでも間に合わないのは、わざわざスマホで時間を確認しなくても分かった。