最低の仲違い
トラックはサービスエリアで停車した。建物は薄暗く、二、三本の電灯だけがこうこうと照らされている。他に止まっている車はない。
「すまんが、ちょっと便所行ってくるさかい。ボン達も行っといた方がええぞ。ええか、目的地のあすなろ海岸までは連れて行ったるけど。そのあとは、わしも大人の責任として、親に言わんとあかん。ええな?」
「はい」
「よし。目的地まであと少しやからな」
富本さんがトイレへ消えたのを確かめると、「私も」と降りてきた葉月ねえちゃんを止めた。
「どうして?」
「逃げよう。もう、あの人とはいられない」
「なぜ?」
「僕らの目的を忘れたのかよ。自殺しに行くんだぞ。海岸まであと少しなのに、あの人が一緒にいたら邪魔になる。場所を変えるしかない」
「死に場所を変える?」
「ここまで来れば、近くに海くらいある。あの人がトイレに行っているうちに早く――」
「ねえ、タイくん。計画を延期しましょう」
「なんだって?」
「今回の計画は失敗よ。今なら家出でごまかせるから、自殺はまた今度にしましょう」
「怖くなったのか?」
「私の気持ちは変わらない。でも、今夜はもうダメ。失敗なの」
「まだ失敗してない。まだ夜明けまで時間がある。今ならまだ軌道修正できるさ」
「失敗なの」
「だから、なんでだよ?」
葉月ねえちゃんは富本さんが入った便所を指差した。
「あの人がいるから」
「だったら、尚更逃げてしまえばいいだろ。車で行けない道を選べばいい」
「もう遅いの。今思えば、あの人に出会った時点で計画は失敗していたの」
「何それ、意味分かんないよ? 富本さんとは、もう二度と会うこともないんだよ。全国を走ってる間に、いきなり消えた家出姉弟のことなんか、すぐに忘れるよ」
葉月ねえちゃんは首を振った。
「私達が自殺をすれば、きっとニュースになるわ。新聞の記事に載るし、ネットでは誰とも知らない暇人があることないことを書き立てる」
「僕らが死んだあとの世界なんて、どうでもいいじゃないか」
「まだ分からないの? ねえ、タイくん、富本さんが私達の死を知ってしまったら、どんな気持ちになるかを考えてみて」
「……僕らのことなんか忘れてるよ、きっと。忙しくてニュースなんか見ないかもしんない。新聞とかテレビとか見ない人かも」
「それって勝手な都合だよ。あの時に私達を止めていればよかった。嘘をつかなければよかった。警察に保護させておけばよかった。あの人はそう悩んで後悔するよ。もしかすると、良心の呵責に苛まれて……なんてことになるのだってあるかもしれない」
「それこそ、たらればの話だ」
「私達は自分達だけが死んだら、それで全部が丸く収まるなんて考えるべきじゃなかったの。身勝手な自殺で、一体誰を悲しませて、傷つけてしまうのか、踏みにじってしまうのかとか、もっと深く考えていないといけなかった」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! 僕らは自殺しますけど、気にせずに仕事を頑張って忘れて下さいって、って言うつもりかよ!」
僕の語気も強くなった。イライラする自分を抑えようとした。けれど、一旦せきを切った感情は、過ぎ去ったことまで蒸し返してしまう。
「ところで、検問を通過した時に溜め息ついたよね? 葉月ねえちゃんは計画がダメになってほしかったわけ?」
「何の話か分からない」
「とぼけるなよ。だいたい、駅で葉月ねえちゃんが遅刻したのもそうだ。あの四十五分のロスがなけりゃあ、終電で降りることもなかったし、警官と鬼ごっこをしなくてもよかったし、ヒッチハイクなんかしなくて済んだんだ。僕の自殺する理由は周りのせいだけど、葉月ねえちゃんは自分が悪いんだろ。鈍臭くて、馬鹿で、要領が悪くて、秀英に落ちて。それで逃げようとするなんて卑怯だ」
「私は、自分がどんくさいのを分かってる。でもね、それならタイくんも同じだよ」
「僕もドン臭くなんかないぞ?」
「タイくんの場合は卑怯で臆病なの。しかも、自分でそれに気づいてない」
「僕は卑怯でも憶病でもない」
「今の生活がイヤなら、正直に言えばいいじゃない。塾も家庭教師もやめて、受験も考え直すの。学歴なんて、最後の大学にさえいいところに入ってしまえば、それ以前は関係ないの」
「そんなの現実逃避だ。今がダメなら将来はもっとダメになるよ」
「タイくんはおかしいよ。今の自分の暮らしがイヤなのに、それを解決しようともしない。お互いに話し合って、喧嘩でもすれば解決するかもしれない。万が一解決できなくても、周りにタイくんの気持ちが分かるのに」
「分かってくれるわけないよ、どうせ。その代わりに死んでやるんだよ。あんな家族も学校も塾もクソくらえだからね」
「違うよ。タイくんは、ただ、自分をさらけ出すのが怖いだけ」
葉月ねえちゃんの一言に、僕の口は閉まった。
「タイくんって、どんな辛いことにあっても、自分は悪くない、悪いのは全部他の人だって思ってるでしょ? 私は五年先しか生きてないけど、人って自分勝手な生き物なと思ってるの。親や教師が子供に成績を期待するのだって、正解でもないし間違いでもない。ライオンが本能でシマウマを食べるのと同じで、自分の望みを主張しているだけ。この世界は七十億人のエゴで回ってるの。でも、タイくんは違う。自分を殻に閉じ込めているだけ。相手に合わせて、自分の心を無理にすり減らしてる。代わりの他人を軽蔑にするの。そうすることで人の上に立ったつもりでいる。私ね、タイくんが私のことを格下に思ってるのを知ってるんだよ。でも、私からすれば、タイくんは、私や他の人よりもずっと下だよ。底の泥沼でもがきながらただ文句を言うだけ、自分を自分の望む姿にしようともしない」
頭の中が再び熱くなるのを感じた。昨日と今日で一番腹立たしく思った。葉月ねえちゃんを否定できないのがとても悔しい。
「そもそも、葉月ねえちゃんが海岸で死のうって言ったからいけないんだぞ」
「タイくんも賛成した」
「図書館で一緒に死のうって誘ってきたじゃないか」
「死にたいって最初に言ったのは、タイくん」
生まれて初めて、葉月ねえちゃんと喧嘩している気がする。互いに譲れない。たとえ、売り言葉に買い言葉になっても、間違っているかもしれない自分を、守ろうとする自分がいる。
「僕を巻き込むな」
よせ、そんなことを言ってはいけない。もう一人の弱い自分が止めたけど遅かった。
「死にたいなら、一人で死ねばいいだろ」
葉月ねえちゃんが手を振り上げて、僕の頬を叩いた。意外と痛くて盛大な音だった。
「私だって、ずっとこの世界からいなくなりたかった。タイくんに言われるまでもない。今みたいなことを家や学校で散々言われたから。あなたなんか死ねばいい、消えろって。でも、あの人達は私が嫌いって知ってるから我慢できた。おかしいよね、タイくんに言われるとね、なんだかとても辛いよ。心臓をナイフで一突きされたみたい。タイくんは死なない方がいいと思う。そうやって人を傷つけて生きていけば、違う意味で強くなれるから」
葉月ちゃんは洗面所の方へ走っていった。一瞬だが、手で顔を押さえていた。初めて泣かしてしまった。僕も泣いた。自分が情けなく思ったからだ。
「ブゥ……」
足元でドンちゃんが悲しげな鳴き声を出した。
「僕のせいなんだ。葉月ねえちゃんの方に行ってやれ」
ドンちゃんは頭のいいブタのようだ。『三匹の子ぶた』なら、レンガの家を作る末っ子になってる。何度も僕の方を振り向きながら、トボトボと歩いていった。




