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看護師ミツルの事件簿  作者: 瀬夏ジュン
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第3話 耳鼻科外来の惨劇

 分娩室で謎が生まれてから数日後の朝、また事件が起きた。


 葛城(かつらぎ)トキエ、53才、女性。

 スエヒロ記念病院に勤務して30年以上。

 昨年、総副婦長に就任。

 非常に優秀。

 髪はいつもアップにして上でまとめている。

 持病、腰椎ようついヘルニアおよび骨粗鬆そしょう症。


 副婦長なのに、いまだに耳鼻科外来に出て主任をしている。

 今朝も彼女は早かった。診療開始の1時間前から用意を始める。予定を確認し、器具や薬剤をそろえ、整理整頓をする。

 そうして先生が来るのを悠々と待つ。

 若い看護師から疎うとまれているのは自覚している。だがポリシーを曲げるつもりは、さらさらなかった。

 医療の神は、細部に宿る。

 すべては患者さまのため。

 それが彼女の信念。細やかな部分をいい加減にせず、奉仕の倫理で動く。


「あらまあ、機械台がハミ出ているわ。きのうの片づけ、誰だったのかしら」


 手術スペースの配置がちょっとだけ乱れているのを、葛城主任は見すごさなかった。電気をつけないまま、暗い奥へ小走りに進んだ。


 ぴちゃ。


 走り抜ける彼女の額に何かが触れた。

 それは冷たくて柔らかかった。

 オデコに右手を当てる。

 左手でそばの壁を探る。

 スイッチを押して灯りをつける。

 手のひらを見た。赤く濡れていた。


 あたりに異臭が漂っていた。


 手術台の横に何かが揺れている。

 宙にぶら下がっているようだ。

 それにぶつかったのだ。

 こぶし大のものが、無影灯むえいとうのハンドルから糸で吊されている。

 目をこらす。

 黄色くもあり、白くもあり、紫でもある。


 肉のかたまりだった。


「ひえっ」


 耳鼻科外来主任は、のけぞった。

 この時点で、彼女の腰椎付近の筋と筋膜は深刻なダメージを負った。

 あるいは、椎間板が押されて軟骨随核がはみ出してしまったのかもしれない。

 とにかく彼女は、「ぎっくり」してしまった。


 しかし本当に重大だったのは、次だった。

 大きな動揺と激しい痛みにより、主任の両下肢は体重を支えられなくなった。

 身体は後方へ傾いた。

 両腕のサポートが全くないまま、豊かなヒップが床に落ちていった。

 つまり、彼女は激しく尻もちをついた。


 ぐしゃ。


 腰椎が圧迫骨折する音を、意識が薄れる直前に、彼女は聴いたに違いない。

 整形外科病棟へ搬送。最低1ヶ月の入院。

 脊髄に異常がなかったのは幸いだった。

 だが彼女にとっても、忙しい耳鼻科外来にとっても、非常に痛いケガだった。





「というわけで、耳鼻科に駆り出されてるのよ、あたし」


 喫煙室で、クジラのシオのように煙を吐き出す美少女。

 まだ3年目だというのに、リエは経験豊富でデキる看護師だ。なんでもソツなくこなし、ミスがない。いろんな場所からひっぱりダコだ。


「将来の副婦長候補だね。凄腕のフリー看護師、スーパーナースRアール。もしそんなテレビ番組があれば、主演してほしい。ぜったい売れる。保証する。かわいいし」


「あんた、バカにしてんの?」


「カチンときた?」


「きた。ラーメンおごりなさい。二蘭堂にらんどうの、こってり、ぜんぶ乗せ」


「あそこ、ひとりずつ仕切ってあって、しゃべれないよ。つまんないよ」


「いっかい行ってみたいのよ。今日はどう? 早番?」


 早番は早番なんだけど。

 退院するサユリさんに誘われているのだ、ぼくは。

 どうしようかな。

 友情をとるか、人生の新たな可能性を選ぶか。

 そりゃあ、新たなほうがいいに決まってるよなあ。


「なによその顔。なんかムカつく」


 白ウサギのような頬をふくらますリエ。


「わかったわ。ラーメンじゃなくて焼き肉にさせてもらう。いや、鍋でもいい。モツ鍋。そうだ、あんたバレンタインのお返し、3年分バックレてるでしょ!」


「ちゃんとお礼あげたと思うけど」


「ちゃんとしたお礼はもらってない。ああ、無性にモツが食べたくなってきた」


「耳鼻科外来の話のあとに、臓物ぞうもつですか」


「あたし摘出臓器の横でも、問題なく食事できるわよ」


「耳鼻科につるされてたモノも、胎盤だったの? それとも、まさか」


「赤ちゃんだったら、凄まじいわよね。そうじゃなかったから、あたしもホッとした。耳鼻科のアレは、ウシの胆嚢たんのうだってさ。さすがに続いたから、組織を調べてみたんだって」


「胆嚢?」


「そう。んで、分娩室で見つかったヤツは、じつはウシの肝臓だったって」


 なんと。


 3日前、不思議な胎盤にみんなが動揺した。

 けれど、それは違ったのだ

 肝臓。

 次は胆嚢。

 ああ、そうだね。

 これは、次があるね。


「あら、もう行っちゃうの? 一服しなさいよ、あげるから」


 立ち上がるぼくに、リエはケミカルフリーの健康タバコを差し出した。


「煙はじゅうぶん吸ったよ。モツ鍋は、意外なところで食べれるかもね」


「はあ?」


 リエの視線を背に浴びつつ、ぼくは喫煙室を飛び出た。

 甘い香りの個室まで、ほんのちょっとの距離。

 なのに、ずいぶん遠く感じるよ。

 いつのまにか走っている。

 胸の鼓動が高まる。


 予期せぬ方向に、新たな可能性があった。

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