彼の企み
鴎外は入り口で待ち構えていたらしく、ノックした直後すぐに扉を開けて冬千夏を迎え入れた。廊下にいたナハトが見えたのではないかと不安になったが鴎外に周囲を気にする様子は見られない。扉がそそくさと閉められて冬千夏は半ば押し込められるように部屋の中へ入った。部屋は明かりがつけられておらず、月の光だけがぼんやりと家具の輪郭を照らし出している。
「やっとこの時が来た」
荒い息が混じった声が背後からかけられ、冬千夏の身体は強張った。
反射的に振り向いて、息を飲む。
鴎外の瞳は老体から発せられているとは思えないほどに爛々と輝いていた。強膜は血走り濃く濁った灰色の瞳は震え、逃さないと言わんばかりに冬千夏を捉えている。鼻や額の周りに脂汗を噴き出し、口から嗚咽交じりの息を吐く相貌は、もはや獣のそれだった。いつもの冷めて無表情な鴎外とは違う、別の恐ろしさが冬千夏を支配する。
「お、叔父さま……?」
この人は誰だ。
本当に自分が知っている霜鈴木鴎外なのだろうかと、正気であったなら馬鹿馬鹿しいと思える質問に答えが見出せない。恐怖で支配された頭の片隅で必死に頭を巡らせていた。
「長かった、長かったとも……。お前をここに縛り付けるためどれほど苦労したことか、どれだけの時間と資金を浪費したことか。事故に見せかけたことも隠ぺいしたことも悟られないためにどれだけ気を配ったか、どれだけ工作したか……すべて野望のためとはいえ本当に長かった」
「何を、言って」
ぶつぶつと言いながら鴎外は冬千夏に両手を伸ばす。後ずさった先の書斎机にぶつかってバランスを崩し、尻餅をついた。
事故に見せかけた?
隠ぺいした?
何を?
疑問符で頭がパンクしそうだ。鴎外が今まで何をやってきたか、どうしてここまで豹変するのか。すべての回答がこの男の中にあるのはわかっていたが、知ってしまうのが怖くて聞けない。背中に書斎机の冷たい壁が当たり、逃げ道は無いのだと嫌でも思い知らされた。
「それも、もう終わる。……なあ冬千夏、16歳の誕生日おめでとう。今まで辛かったろう、疲れたろう?ずっと1人で耐えてきたんだもんな、いまそれを無くして気持ちよくしてやるから。もうそれからは何も感じなくてよくなるから……」
狂っている。
この叔父は狂っている。
そう理解した時、大きな両手が冬千夏の肩を掴んだ。
「嫌、いや」
叫ぼうにも恐怖で声が上手く出ない。鴎外が覆いかぶさり、抵抗する冬千夏の胸倉を両手でつかんで服を引き裂く。冬千夏の脳内で恐怖よりも、嫌悪が勝った瞬間だった。
「――!」
鴎外が自分に何をしようとしているのか悟り身体中の血の気が一気に引く。顔や肩を必死に押し出そうとするが、冬千夏の力では鴎外の身体はピクリとも動じない。煩わしそうに両手首を片手で捕み、体勢を崩した冬千夏に馬乗りになった。あらわになった皮膚に生暖かい手が滑りこんできて鳥肌がぶわりと立つ。
怖い、助けて。ナハトさん、ナハトさん助けに来て。
「嫌!」
「冬千夏様!」
破れんばかりに扉が開かれ飛び込んできたのは、藤岡だった。そのままの勢いで鴎外に体当たりし、倒れていた冬千夏を起こす。鴎外は傍にあった観葉植物の植木鉢に頭をぶつけ、身体を丸めて悶絶していた。
「お怪我は……!冬千夏様、ああ……申し訳ございません……!」
自分の執事用ジャケットを脱いで冬千夏に羽織らせる。当然彼女には大きすぎたが、今の藤岡にできることはこのくらいしかなかった。
「こんなものですみませんが、今は。……下の階にナハトくんがいます、ここは私にまかせてお逃げください」
「藤岡さ……っ!」
藤岡の背後に立つ鴎外に気づき声をかけるも、遅かった。何か光るものが横薙ぎに振られた瞬間、赤い液体が周りに散らばる。冬千夏の頬に飛沫が付着し、それが血だと認識するころには既に傍らにいた藤岡が地に伏していた。安心したのも、つかの間のことだった。
「邪魔が入ったな……鍵はかけておいたはずなんだか……」
藤岡が倒れた背後で、頭から血を流した鴎外が片手にナイフを持ってぬらりと立っている。冬千夏は何が起こったのか理解できず、ただその場に立ち尽くしていた。倒れた藤岡がせき込んで血反吐を吐く。誰が見ても危険な状態であるのに足がまったく動かず、震える声で目の前の男に疑問をぶつけることしか出来ないでいた。
「ど、して、おじさま」
状況に理解が追いつけず、涙も出てこない。鴎外は冬千夏の言葉を無視して藤岡に向き直った。
「やはり新塚のように消しておくべきだったな、藤岡。お前は冬千夏に気にいられていたし仕事もよくできたから生かしておいてやったんだが」
藤岡はなおも血反吐を吐く。血で濡れた喉で掠れていたが、それでも必死に声を出した。
「あなたが……あなたが、新塚くんを」
「冥土の土産に教えてやろう。そうだよ、私がやったんだ、――今のお前のようにね」
鴎外は両手を大きく振りかぶり、再び藤岡に突き刺そうとする。
「――やめてええ!!」
冬千夏が叫んだ瞬間、ナイフが宙を舞った。
大きく弧を描きながら飛びあがり、ガギンと音を立てて壁に深く突き刺さる。
「……あ?」
ナイフが消えたと思った鴎外は辺りを見渡し、何かを視界に捉えた。とたんに茫然とした表情は、みるみるうちに醜く歪み怒りの表情に変わっていく。目を閉じていた冬千夏は恐る恐る目を開けて、鴎外の向いていた方向を見た。
「貴様もか!」
鴎外が吠える。
「遅くなって申し訳ございませんお嬢様……。ただいま救出に参りました」
そこには、廊下の明かりを背後に微笑みを湛えたナハトが立っていた。