誕生日パーティ
4月10日。先刻していた通り、鴎外は昼過ぎに屋敷の門をくぐった。自室の窓から様子を見ていた冬千夏は、胸で握っていた両手に力を籠める。
学校で授業でも受けていれば少しは気が紛れたろうに、残念ながら今日は休日。起きてから今までもずっと不安で、食事さえまともに手を付けられなかった。
コツコツとドアを小突く音に、身体が跳ねる。
鴎外だろうかと思うと怖くて声が出ない。
「お嬢様」
藤岡だ。
恐れていた相手ではないとわかると、心臓も幾ばくか落ち着いた。
「どうぞ……」
蚊のなくような掠れた声だったが、藤岡は聞き取れたのかそっと部屋に入ってくる。心なしか彼の瞳も自分と同じ、不安の色を湛えているように見えた。
「午後6時になったら食卓に降りて来なさいと、旦那様から」
「……ええ」
誕生日だというのに、普通こうも暗い顔をするものだろうか。2人とも黙りこくり言いようもない気持ちにとらわれている。用は済んだはずなのに部屋から出ていかない藤岡は、目の前の主人になんて声をかけていいのか、このまま自分は指示に従うままでいいのかと葛藤していた。
「……ナハトさんは?」
「今は食卓の準備をしているようですが……お呼びいたしましょうか?」
藤岡は冬千夏の問いに首を傾げる。
「ううん、大丈夫」
冬千夏もまた、葛藤していた。もしも何かあった時ナハトは助けると言ってくれたが、いざそうなると彼の首が飛ぶし監督していた藤岡にも迷惑がかかる。特別なお祝いとやらを自分がもらって事なきを得れば、誰もひどい目に合わずに済むのではないかと。様子がおかしい叔父のことは気になっていたが、きっと何事も無いだろうという気持ちもどこかにあった。杞憂だと自分に言い聞かせ、藤岡を見る。
「きっと大丈夫です、藤岡さん。そんな顔をしないで」
そう言って気丈に振る舞ってみせた。
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晩餐は拍子抜けするほどに変わりなく行われた。
使用人一人一人から祝いの言葉を投げかけられながら席に着き食事を始める。最初に前菜とスープが運ばれ、メインディッシュを食べ終えた後はデザートの誕生日ケーキが運ばれた。使用人が機械的に運んでくる料理を会話もせずにただ咀嚼する、粛々と事務的に行われていく様子は例年と変わりない――というか毎日の食卓と大差なかった。先程までの不安は何だったのかと思うほどいつも通り。少し違うと思うところをあげるとすれば、料理が例年の誕生日パーティより遥かに美味だったという点だろうか。普段は無口に食べ進める鴎外も、美味いと漏らすほどだった。
「まさに今日と言う日に相応しい晩餐だった。褒めて遣わそう」
鴎外が向き直って言うと使用人たちが頭を下げる。ナプキンをテーブルの上に置いて立ち上がると、鴎外は向かいに座る冬千夏の席へ歩いた。内心ビクビクしながら目で追っていると、大きな皺だらけの手のひらが冬千夏の小さな肩へ掴むように置かれる。
「誕生日の贈り物を用意している。私の部屋に来なさい」
喜びを噛み殺したように囁くその声色に鳥肌が立つ。手が置かれた肩から髪の先に至るまで寒気のするような何かが身体を這い回ってきて、冬千夏は手を振り払いたくなった。
「誰も近寄るな」
使用人たちを警戒するかのごとく語気を強めて言い、鴎外は食堂から出た。バタン、と扉が閉められた途端に冬千夏は長く長く息を吐く。手を置かれていた時間はたった2、3秒だったのに、今もずっと触れられているような感覚がする。震える身体を抑えるように両手を握りこんだ。
いつも通りの誕生日だと思っていたが、やはりその考えは間違っていたのだろうか。
嫌だ。行きたくない。
「――お嬢様」
視界に誰かの足が映りこむ。声でナハトだとわかって顔を上げた。
「随分お疲れのご様子です……お手を」
彼はいつも通り笑みを浮かべており、わずかだが不安が拭われる。差し出された手を導かれるようにとって食堂を後にした。
長い廊下を一歩踏み出すにつれて心臓の音が徐々に大きくなっていく。
「本当は藤岡さんが旦那様のお部屋までお連れするはずだったのですが……警戒されるということで私に代わって頂きました。新人の私のことなど、旦那様は気にも止められないでしょうし」
「え……?」
先を歩くナハトは首だけ振り返り瞳を曲げて笑う。声色に変化は無かったが、その表情は穏やかながらも怪しさを湛えているような。何か企んでいそうな顔にも見えて冬千夏は少し不安になった。
「何かあれば私か藤岡がすぐに駆けつけます。安心なさってください」
「……無理だけは、本当にやめてくださいね」
「もちろんで御座います」
やけに機嫌が良さそうな様子が気になったがとりあえず現状打破に集中することにした。屋敷広しといえどもう鴎外の部屋は目の前だ。扉の前に立つとナハトは後ろへ引いて、自分はここまでだと言うように冬千夏を見守る。
深く息を吐き、意を決して扉を叩いた。