新しい執事
自室で学院から配られた資料を読んでいると、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、藤岡でございます」
「どうぞ」
入り口の白いアンティーク扉を見ると、藤岡と若い男性が入ってくる。彼が聞いていた新しい執事だろうか。冬千夏はデスクチェアから降りて2人の前に立った。その男は藤岡より長身だったゆえ、いつもより首を上へ向けないと顔がうかがえない。
見上げた途端、全身の皮膚が泡立った。顔立ちを見るに外人だろうか。色白と言われる冬千夏よりも肌は白く、スッと通った鼻の下に桜色の唇がある。指通りのよさそうな紫がかった灰色の髪、満月を埋め込んだような金色の瞳。この世のすべての美を集結させたかのような、凄まじさすら感じる美形だった。彼の下腹あたりまでしか身長がない冬千夏を見ると、その瞳は柔らかく弧を描く。
彼とどこかで、会ったことがある……?
微笑む顔を見た途端、懐かしさのような感情が胸にこみ上げて切なくなる。だが、こんな記憶に残りやすい男性を見て忘れていたはずがない――
「先程申し上げました、新しく入った執事にございます」
藤岡の言葉に、冬千夏はハッと我にかえった。
「ナハト=B=アルトクレイマンと申します。今日から住み込みで働かせていただくことになりました。霜鈴木家のため、尽力を尽くす所存です。よろしくお願い申し上げます」
挨拶を述べた後、ナハトは恭しく頭を下げる。秋の夜風を感じさせるような、爽やかさと深みがある低い声。おそらく誰もが、第一印象から信頼を置いてしまう人間に見えることだろう。
「霜鈴木 冬千夏といいます。こちらこそ、今日からよろしくお願いしますね」
そう言うと顔を上げたナハトは目を一瞬見開いて、嬉しそうに笑みを一層深くした。満月の瞳がちかちかと光って眩しい。
「彼には明日からお嬢様のアーリーモーニングティーを淹れてもらうつもりです。私と一緒にお部屋に入らせて頂くのでどうか驚かれぬよう」
2人は一礼して部屋を出ていった。
デスクへ戻ろうとすると、クローゼットの横にある姿見に自分の姿が映る。そういえば制服のままだったと、冬千夏は引き出しから部屋着を取り出して着替え始めた。赤いリボンとチェック柄のスカートがかわいらしい、白百合の校章がついたグレーのブレザー。明日からまたこれを来て学校に行くのかと思うと胸が躍る。屋敷にいては叔父の影がチラつくので、冬千夏にとって毎日行かなくてはならない学校は憩いの場であった。
もそもそと白いシャツのボタンをはずし着替えに手を伸ばすと、一瞬、鏡に自分ではない女性の顔が映った。
「えっ!?」
即座に振り返って見やるが、何もいない。鏡にはただ下着姿の呆けた顔が写っているだけで、振り返っても人間の姿など見当たらなかった。
――気のせい?
疲れているのかと目をこすっていると、自室の扉が叩かれた。
「お嬢様、いかがなされましたか?大きな声が聞こえましたが……」
ナハトだ。扉越しに心配そうに声をかけてくれている。
「だ、大丈夫です!ちょっと、あの、物を落としてしまっただけで」
「お片付けが必要ですか?」
「だいじょうぶ、です」
まさか鏡に見知らぬ女性が映ったと言って信じてくれるわけがないだろう、新人の執事に初日からわけのわからないことを言う主人にはなりたくはない。冬千夏自身も今のは幻覚を見たのだろうと思いきることにした。――やけに、異様にハッキリとした幻覚だったが。
扉越しにナハトは「承知しました」と言って、コツコツと足音を立てて扉の前を去っていく。冬千夏はふう、とため息をついてまた姿見を見た。
ロングヘアの女性だった。自分に向かって、薄く笑みを浮かべた美しい女性。
鏡が反射していたせいで鼻から下までしか見えなかったが、そのシルエットだけでも桁外れの相貌だとわかるほどに。なぜそんなものが一瞬でも見えたのかと首を傾げた。
「今日は早めに寝よう……」
時計を見ると午後5時を回っている。もうあと1時間ほどで夕食の時間だ、それまでに学校の資料を一通り見ておこうとデスクに戻った。
――鏡の中から注がれる視線に、冬千夏は気づいていない。