帰りたくない家
春風が桜を散らしながら、1人の女子高生のスカートを波立たせて去っていった。空は透き通るほどに青く、雲一つない晴天。女子高生――霜鈴木 冬千夏は思わず深く息を吐いた。桜並木とのコントラストが美しく、ほのかな花の香りが彼女の鼻をくすぐる。ウェーブのかかった亜麻色のボブヘアが乱れるのも構わず、冬千夏はくるりと回って桃色の景色を眺めた。
今日は4月7日、彼女がこれから通う高等女学院の入学式だった。真新しい制服に身を包み、緊張と期待の入り交じった気持ちを胸に校門をくぐり、今は、式とクラスメイト達との顔合わせを無事に終えた放課後だ。桜並木を堪能しながら小道を抜けて門の前に立つと、黒いロールスロイスが1台止まっているのが目に止まった。
――迎えはいらない、って言ったのに。
先程までの浮ついた気持ちに少し雲がかかる。
運転手は目が合うと小さく会釈した。彼は藤岡といって、冬千夏が幼いころから世話になっているベテラン執事だ。目元に笑いジワが掘られた人優しそうな顔にかわいらしい丸メガネをかけた老紳士で、小さいころの冬千夏はよく彼と遊んでもらっていた。
「おかえりなさいませ、冬千夏様。迎えは必要ないと伺ってはいたのですが……」
ドアを開けると藤岡が申し訳なさそうに振り返る。
「大丈夫です。叔父さまに言われて来てくれたんでしょう?」
返事をした後、困った表情が少しだけ和らいだのが見えた。エンジンがかかり、校門を後にする。
「ええ、すみません。旦那さまには逆らえないものですから……」
「藤岡さんが謝る必要はないですよ」
今住んでいる家の主、霜鈴木鴎外は冬千夏の叔父にあたる。10歳の時に両親を亡くした冬千夏を引き取り、前々から雇っていた藤岡もろとも霜鈴木家の実家である屋敷に迎え入れたのだ。父母から慕われていた藤岡にとってその恩が大きく、鴎外にはよく尽くしている。冬千夏自身も新しい環境に慣れないうちは、藤岡の存在にとても安心したものだった。しかし恩人である叔父自身のことは苦手だ。
少々過保護すぎるのがその理由。外出しようならどこへでも必ず迎えを用意するし、彼女が食べる物にも健康と美容のためだなんだと言って相当気を回しているのだ。一時期は、一日中ずっとボディーガードをつけてきたこともあった。藤岡たち使用人はお嬢様のことを思ってですよと言うが、冬千夏はどうもそうは思えないでいる。根拠はないにせよ何か裏があるのではないかと思うことが何度もあったのだ。
「冬千夏様、到着しましたよ」
モヤモヤと考えるうちに屋敷についたらしい。駐車した藤岡は、すでに車から降りて後部座席のドアを開けてくれていた。慌てて降りて、ありがとうとお礼を言う。
「礼にはおよびません。ああ、そうだ冬千夏様」
「なあに?」
学生鞄を預かった藤岡と玄関へ向かう。
「今日から入った新しい執事を紹介しなければなりません。旦那様にご挨拶なされてから、少々お時間を頂きたく」
「あ、そっか。新塚さん、辞めちゃったからでしたよね」
新塚というのは元からこの屋敷に仕えていた若い執事だ。おおらかな性格で元気のいいあいさつをしてくれる男性だったのだが、冬千夏が最後に見かけた時は頬がこけるほどにやつれていた。声をかけると笑顔でごまかされたのが記憶に新しい。
「わかりました、部屋で待っています」
「ありがとうございます」
玄関の大扉をくぐり抜けて、鴎外の書斎へ向かう。2階へ上がり赤いカーペットの敷かれた廊下をわたった一番奥の部屋。一呼吸置いて、ノックした。
「叔父さま、ただいま帰りました」
「入りなさい」
扉を開けると、大きな書斎机に座る鴎外が見えた。
「入学おめでとう、どうだ学校の様子は」
「少し不安でしたけど、クラスメイト達も先生方も優しそうでよかったです」
ぽつりぽつりと特別盛り上がりもしない会話をかわす。叔父と姪の会話はいつもこんなものだった。お互い笑顔を向けてはいるが、彼女は叔父とどう接したらいいのか長い間よくわからないでいる。
「お友達と交流もいいが、いつなにがお前に牙を向けるかわからない。不良がいたら、絶対にそいつには近づいてはならないぞ。女学院に通わせたから安心かもしれないが……、部活を決めるときは必ず私に相談しなさい。外に学習しに行くものがあったら大変だ。……入らなくてもいいがな、勉学に集中するのは大事なことだしな」
「はい、叔父さま」
「お前は大事な霜鈴木の娘なんだから」
いつもこれだ。まるで話は聞いていないというように、自分の要望だけを半ば興奮気味に吐き続ける。外出は楽しくて好きだが、帰って来た後のこの時間が苦痛でたまらなかった。はやく終わらないかと思いながら相づちを打って聞き流す。
「3日後は、おまえの誕生日だったな」
「えっ」
突然話が切り替わり、声が上ずってしまった。席を立った鴎外が近づいてきて冬千夏の細い肩に手を置く。
「おまえも16歳か。特別なお祝いを設けているから、楽しみにしていなさい」
「あ、ありがとうございます。叔父さま」
頭を下げると、大きな手が頭を撫でてくる。
「私はいったん会社に戻るよ。誕生日には戻ってくるから、その間は使用人たちの言うことをよく聞いて大切に過ごしなさい」
「……はい」
「おまえはだいじなむすめなんだから」
そう言って、鴎外は部屋から出ていった。バタンと大きな音を立てて閉まる扉に気圧され、冬千夏はその場でしばらく立ちつくす。
――なんだか、嬉しそうだった?
彼の表情が大きく変わることは少なく、いつも真顔で言葉はどこか淡白だ。なのにさっきは薄く笑みを浮かべていた。めった見ない顔だったからか、少しだけ鳥肌が立つ。
――“特別なお祝い”とはいったい何なのだろう。誕生日はいつもケーキと鴎外が決めた贈り物をもらって粛々と済ませていたのに、どうして今回に限って。
今は考えても答えが出てくるとは思えない。早く誕生日が過ぎ去っていくよう願い、部屋を後にした。
「……部屋、戻らなきゃ」
藤岡の用事を済ませるために廊下をとぼとぼと歩く。紹介される新人に元気のない姿を見せられまい。なるべく普段通りにふるまえるよう、自分の頬をぺしぺしと叩いた。