おでかけの計画
とある金曜日の夕方。
「コンパクトミラーですか」
車のハンドルを持つナハトが呟いた。運転席のすぐ後ろに座った冬千夏が、遠慮がちに頷く様子がルームミラーに映り込む。放課後、学校であったことをぽつりぽつりと話す彼女の様子が、今日はなんだか違った。
今は学園近くの住宅街を通り過ぎ、街中を走行している。窓からは学び舎から解放され、仲間と遊びに行く学生たちの姿が見られた。
「そうなの。もっと気軽にイルさんとお話できたらなって。それにコンパクトミラーなら、ナハトさんにも会いやすいでしょう?」
それはイルと日中も話がしたいという、冬千夏が出した提案だった。日中、冬千夏が起きている間は鏡さえあればイルと会えるのだが、冬千夏は外出の手鏡というものを持ってはいない。身なりを整えるだけなら、学校や公共の化粧室のものだけで事足りていたためだ。
しかしイルの存在を知った今はそうはいかない。たとえば緊急の用で話がしたい時、わざわざ人目を忍んで化粧室を探すというのも不便だ。
冬千夏が外側から感じたものは、口頭でなくとも精神にいるイルに伝わる。しかしイルの考えを冬千夏に伝えるには会話が必要であった。
「私のことは、そんな……。でも冬千夏様とお話できる頻度が増えれば、イル様はお喜びになられるはずです」
ナハトの顔がほころぶ。自分のこともこの小さな主人は考えてくれたのだと思うと、表情が緩まずにはいられなかった。
すると冬千夏はまた「それでね」と、今度は先ほどより緊張した面持ちで話し始める。
「今週の日曜日、ナハトさんが大丈夫なら……一緒に買いにお出かけしたいなって……」
その言葉を聞いた瞬間、ナハトはハンドルに自身の額を打ち付けた。ガン、とものすごく鈍い音がした。
幸い信号は赤だったため停止していたが、車全体が小さく揺れるほどの衝撃が走る。
「ナハトさん大丈夫!?」
「だいっ、じょうっぶです大丈夫です。失礼致しました」
シートベルトがぴんと伸びるのにも構わず冬千夏は運転席側に身を乗り出した。ナハトの額が赤くなっている。血は出ていないことに安心してひとまずは席に座りなおした。
信号が青に変わり、車は緩やかに走行を再開する。
「お出かけ、ぜひご一緒させてください。藤岡さんにも伝えておきますね」
ナハトは何事もなかったかのような笑顔を浮かべた。額は赤いままだが。
「う、うんお願い。帰ったらおでこちゃんと冷やしてね……」
車は街を過ぎ、陸橋を渡って屋敷の門へと進む。今日も何も変わったこと無く帰宅した冬千夏は、学園から出された宿題を済ませようと駐車場を後にした。ナハトと共に玄関ホールへ向かうと藤岡がいつものように出迎えてくれる。
「おかえりなさいませ冬千夏さま、ナハトくん」
「ただいま藤岡さん」
「ただいま戻りました」
挨拶を済ませた冬千夏は自室へ向かい、ナハトと藤岡は玄関ホールに残った。
「ちょっと聞いてください藤岡さん」
主人の背中が廊下の影に隠れて数拍おき、ナハトが深刻そうに口を開く。
「はい? なんでしょう」
「冬千夏さまと今週の日曜、一緒におでかけすることになりまして」
「おやまぁ」
藤岡は一度目を丸くしてからゆったりと笑った。
「その……誘ってくださったのです。コンパクトミラーを選びたいと仰いまして……しかしですね」
一方ナハトはどうも、いつもよりなんだか歯切れが悪い。彼にとっても喜ばしいことであるはずなのだが、晴れやかな表情にはとても見えなかった。藤岡は彼の顔色を伺いつつ、うんうんと話を聞く。
「私、イル様のご趣味はもちろん従者として心得ております。しかし冬千夏さまのご趣味は……恥ずかしながらまだすべてを把握出来ているとは言い難いのです。でも従者としては、当日は冬千夏さまの好みに合うものを提案して差し上げたくて……」
従者としては、の部分をナハトは強調して言った。
「ですからね、藤岡さん。その本当に心苦しいんですが、たいへん悔しいんですが、しかして貴方しか伺える方がいないので、……本当は冬千夏さまをもっとゆっくり観察させて頂いて、私自身が試行錯誤の末に見つけていきたいのですが、今は緊急で……藤岡さん」
「……」
「…………冬千夏さまが好みそうなものを教えてください……」
「……」
ナハトは観念したようにそう言うと、ゆっくりと腰をほぼ90度に曲げて頭を垂れた。彼を見た藤岡の反応はというと、驚きというか感動というか、絶句に近い。
そんなに思い詰めなくても気軽に聞けばいいのに――そう強く思った。この行動は恐らく、ナハト自身のプライドと主人に対する忠義がドロドロになるまで戦い、悩み、ないまぜになった結果だろう。プライドというのは"冬千夏の執事の先輩である藤岡に頼りたくない"という部分で、何故そう思うかはナハトの態度で容易に予想できた。忠義については言わずもがな。しかしこんなふうに、仰々しく頭を下げる必要は果たしてあるのだろうか。
彼は執事の仕事をなんでも完璧にこなす癖に、人とのコミュニケーションにおいては不器用すぎるように思える。
「顔を上げてくださいナハトくん。……そういうことなら私ではなく、お嬢さまに直接聞伺えば良いのでは? いくらお仕えして長いとはいえ、若いお嬢さまの趣味すべてを理解するには、私は老いすぎてしまっています。あまり参考にならないかと……」
藤岡がやんわり言葉を投げて、ナハトはやっと顔を上げた。
「いえ! その、藤岡さんの視点も参考にしたいのです。それに直接聞くのは、それでは意味が無いといいますか……」
「……なるほど、分かりました」
顎に手を当ててしばし考えると、藤岡はこう提案した。
「書斎にいくつかファッション誌があったと思いますので、そちらを見ながら相談していきましょうか」
「かたじけない……悔しいですが、借りは必ず返します」
「はいはい。そんなに硬くならなくても良いですのに」
おもしろそうに藤岡は微笑み、ナハトはその背中を付いていく。おでかけ当日は彼にとって成功の日になるだろうか、藤岡は想像を膨らませて笑みを一層深くした。




