第1話 通常運転、じゃない
京藤修斗は校舎2階。教室前の休憩スペースにあるソファーに深く座り込んだ。各フロアの廊下を少しずつずらしてある造りの校舎は、1階から4階までの吹き抜けの空間がある。見あげると、天井がはるか上にある。昼休みだからだろう。何人もの生徒が手すりにもたれかかっているのが、下から見える。それぞれのフロアに活気がある。小難しい理論の授業から解放された生徒たちが学食の方へ走っていく音。廊下で覚えたての術を試す生徒。缶コーヒー片手に談笑する男子生徒。あこがれの先輩を追い回す女子生徒たち。
実に穏やかな日常。いつもの日常だ。
ガラス張りの壁からは鎌倉の街を一望できる。鎌倉市街へ降りる蛇行した道沿いに、まるでピンクのベールをかぶせたようにソメイヨシノが咲き誇る。鎌倉駅へ向かうバスが、そのトンネルの中を下っていく。
嗚呼、この鎮守学院がある鎌倉山にも春が来た。
京藤修斗はため息交じりに
「見かぎりし 故郷の山の」
そっと口ずさむ。
「桜哉ってね」
聞きなれた声が続いた。振り返らなくても分かる。聞かれたのが少し恥ずかしくて耳が赤くなる。
「居たのか」
「うん、いつでも修斗の横に居るよ!」
背もたれに手が掛かる。見慣れた、長い黒髪の少女が嬉しそうに見下ろしていた。
「そりゃーとても幸福なこった・・・」
苦笑いをして呟く。
*****
中神秋葉。修斗とは同じ甲府出身。小学校・中学校と共に過ごしてきた。そして、この学校にも一緒に入ってきた。所謂「腐れ縁」。まあ、中神家は甲府市積翠寺地区の巫女の家系であり、京藤家は隠形鬼の庶流の庶流であり、共にこの学校に進学するのもまぁ分からなくはないが。
女の子にとって大切なアレも順調に成長してきているらしい、とついこの前、口を滑らせてしまった所、怒るどころか何を勘違いしたのか喜ぶくらいの天然さの持ち主だ。
長い黒髪に整った顔立ち、豊かなソレ、それにプラスして天然となると、もう健全な男は虜になる。まさにパーフェクトウーマン。
が、不幸にも彼女が興味を抱く異性は修斗だけなのだ。
*****
つんつん、頬を突かれて我に返る。
「ってかさ、ねえねえ。授業終わったら暇だよねー!どうせ暇だよね!暇だよね!」
いつものペースだ。どうやら、彼女は通常運転らしい。
「ああ・・・暇だよ。貴方の予想通り、誰もデートに誘う人も居ないから、暇で暇でたまりませんよーだ!!」
やけくそになる修斗も通常運転。
「んじゃ、若宮行き決定!!!あのね、美味しい店ができたみたいなの!!」
「待て待て。俺はまd・・」
ごもる修斗を余所に
「さすが太っ腹!!」
手を叩いて喜ぶ。勝手に奢ることになっている。
周りの男どもの嫉妬の視線が刺さる。こうして、穏やかな昼休みをこの「腐れ縁女」に奪われていくのもまた、通常運転だ。次の一言が無ければ完璧な日常の復元、だった。
「じゃあ、礼華も誘うね!」
ん?ちょっと待て。それはおかしい。それは通常運転ではない。脱線&谷底直行ルートだ。
がしっ
周りの矢の雨のように降り注ぐ男性諸君の視線に構わず、彼女の肩を掴む。いや、構っている場合ではない。非常事態だ。
「なぁ、落ち着いて考えてみろ。誰かを誘うのは良いが、あいつはやめておこう!いや、人選が間違ってますよ、秋葉さん!」
今ほど、こいつの天然さを怖いと思ったことは無い。純粋とは、怖い。
「何で、そんなに必死なの?修ちゃん。」
秋葉は、はてな顔。首をかしげて、口元に手なんて当てちゃってる。可愛い。
しかし、ここは譲れない、いや譲ってはいけない。
「そりゃー必死になりますよ!秋葉さん?人選がおかしいでしょ?!それから、修ちゃんはやめようねって中学2年の時に約束したよね?!?!」
「あーわかった!礼華ちゃんのこと好きなんだ!そうなら、そう言ってくれれば良いのに!もう照れちゃって、修ちんたらぁ!」
「急に勝手で不名誉な妄想膨らませないでね?!地球がひっくり返ったって、あんな破壊神を好きになることなど有得ないわ!有り得ん!有り得たら、逆立ちしてやるよ!ってか修ちんって誰?!」
「あーそういう事言う?礼華ちゃんは良いコだよ!もう良い!これからはデートしてあげない!」
彼女は、頬を少し膨らませた。少し怒っている。
いや困った。本気で当惑する。
その時、ものすごい音が校舎中に響き渡った。天井から降ってきたそれを、修斗はソファーから飛びのき、間一髪避けた。ソファーに深く刺さったそれは
教場の扉。鋼鉄でできたそれは、重さ200kgを超える。こんなのが直撃したらと想像するとぞっとした。よく見ると、その真ん中に小さな足形がある。
これもいつもの事。間髪入れず、恐らく・・
「コラー!待ちなさい!茨木さん!今日という今日は逃がしませんよ!!」
声の大きさなら、学校内で5本の指に入る藤堂幸乃教官の声。
それと同時に、4階の手すりを黒い影が飛び超える。宙返りをしたそれは、ほぼ垂直のガラス張りの壁を走り下って、修斗の前に華麗に降り立った。
その場に居合わせた全員が息を飲んだ。
銀髪のくせっ毛を後ろで束ねた小柄な少女。切れ目の瞳に光る赤い瞳孔。不敵な笑みを浮かべた口からは八重歯が覗いている。
茨木礼華。この学校の誰もが知る、そして鎮守府にも顔が広い、色んな意味での「大物」。
いつもの事ながら、静まり返る2階廊下。その中で
「おう!礼華!今日も元気だねえ!」
秋葉がすっとぼけた声を出して少女に駆け寄った。
礼華はふと顔を上げる。険しい表情が途端に和らぐ。
「おう!我が親友よ!」
「我が親友よぅ!」
まるで古い知己と再会したように、がしっと廊下の真中で抱擁する女子二人。周りも修斗も、色々突っ込みたいところだが・・・
「御取込み中悪いわねぇ。取り敢えず、続きは後でやってね」
その怒りが混じった声色に、周りも礼華もびくっとする。
殺意を隠せない、横眉怒目の藤堂教官が横に降り立つ。眉間に皺が寄っている。
いつもの事ながら、空気が張り詰める。
「やっべ!また今度な!」
階段へと駆け出した礼華の背後で
「来たれ来たれ来たれ。汝は我が僕也。我は汝が主也。来たれ来たれ来たれ。我は汝を召喚う」
突然の詠唱。
式神を召喚するとは、相当ご立腹の様子。しかし、何というか。この人はいつも大人げない。
藤堂教官の前に、白い大蛇が現れる。
体長は2メートル程であろうか。鎌首を持ち上げ、主の下知を待つ。
「あれを、捕らえよ」
少し怒声が混じった、短く端的な命令が飛ぶと、それは廊下を滑るようにして、今まさに階段へ向かおうとしている少女を追いかけた。獲物を捕らえる為に。
今日はいつも以上に疲れる日になりそうだな。
修斗はため息をついた。
通常運転、じゃない。
次回の冒頭から鬼についての解説を始めます。