プロローグ
ぐしゃ。ぐしゃ。
新宿歌舞伎町。ラブホテルの裏路地に響く咀嚼の音。
灰色の壁にはペンキのように飛び散った血。地面は一面、真っ赤な絨毯のような血だまり。彼女はその中心に、生気が抜けたようにしゃがみこんでいた。
さっきまで自分をホテルに連れ込もうと息巻いていた男は、噴水のような血を飛び散らせて動かなくなった。本当に人間と言う物は脆い。頸動脈を切り裂いただけで、痙攣し動かなくなる。
肉はまだマズイが、血はどうだろうか。
月明かりに照らされた血だまりに、彼女は指を滑らせる。指にまとわりつく感覚が、快い。そっと、指を舐める。
頭の芯がじんとする。体中がぞくぞくするけれども、なんとも言えない快感が全身を包む。
嗚呼、とても美味しい。
「私は、狂ってしまったのね」
呟く。でも、あの方の為なら、私は狂う。そう決めた。
「そんな悲しい顔をしないでおくれ」
愛おしいその声に、彼女は振り返る。
「アルフレード様・・・」
月明かりの下に一人の青年が立っていた。白く細やかな肌に青い瞳孔。その美しい貌は妖艶に輝く。アルフレード・ベレンセ伯爵。
彼はゆっくり近づくと、血だまりに座っている彼女に合わせるようにしゃがみこんだ。純白のマントに朱が染みこんでいく。
「君が悲しい顔をしていると僕まで悲しくなる。笑っておくれ」
優しく囁く聲。
「でも、私。自分の名前を忘れてしまいました。自分が何者で、どこから来て、何故ここに居るのかも」
「それは悲しいよね。でもね、それで今までの君の罪はすべて消えた。だから、これから積み上げていけば良い」
不安そうに見あげる彼女の頭をなでる。
「マレフィ。君はこれから、そう名乗ると良い」
「マレフィ・・・」
息が詰まりそうな幸福感に包まれながら、彼女は呟く。
「さ、マレフィ。ハイエナたちに荒らされる前に、食事を済ませよう。」
「ハイエナとは、聞き捨てならんがな」
路地の入口、通りの光が僅かに指す中、銀髪の女がゆっくり近づいて来る。黒いフードをかぶっている為、顔は見えない。口の端に煙草を咥えている。
「すでに遅かったようだね。ちょっと離れてておくれ、マレフィ」
アルフレードは口元こそ笑っているが、目はその女から離さない。
「君は・・・陰の炎の使い手か・・・」
「ほう。わての隠を見抜くとは、あんたもなかなかやるのう。伯爵はん」
女は血だまりの手前。
「私も純血と相対することができるとは光栄です。まさか、その首をくれるとは」
「あんた、えろう勘違いしてますな」
女は、嗤った。
「わしらも舐められたもんやな」
五指を、小指から順に折りたたむ。
「狩られるのはあんた等の方やで」
その刹那、「空」から湧いた炎を掴みだす。それは、二つに分かれ、小刀になる。左右に持った小刀を下段に構える。
「ほな、ボチボチ始めようや」
不敵な笑みを浮かべた。口元から捨てられた煙草が血だまりに落ちて音を立てた。