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第2章------(2)



 バッハル市壁に寄り添うようにひしめきあった家々から、灯がもれていた。まだ夜の早い時間のことで、目抜き通りの居酒屋や宿屋からは陽気な人々の声がきこえる。その通りには深い轍が何本も刻まれ、家々の窓枠のかたちをしたあかりが落ちていた。


 が、今夜の春の北風――ユネスの人々が言うところの〈悪風〉はどんどん酷くなる気配だったので、普段に比べて人出はぐっと減っていたし、馬鹿騒ぎをしようする連中も少なかった。


 そこは、バッハル市内の人々が軽蔑の意味をこめて、「外の町」とか「下バッハル」と呼ぶ盛り場である。


 もともとここは大都市バッハルの繁栄にあずかろうとやってきたならず者たちの集落にすぎなかった。そこへ次第に人が集まるようになり、ひとつの繁華街のようになってしまった。それゆえ下バッハルは公には存在しない町であり、市内の自警団に守られることもない。


 それだから下バッハルは相当に物騒であり、身を守るすべを持たぬ者がそこへ行くことは自らもめごとを起こしてくれと宣伝して歩いているようなものなのだった。しかしそうでない連中にとっては、このうえなく面白い町である。


 ここはバッハル市内とその近隣に住む若者たちの冒険の場所でもあった。下バッハルにはバッハル市内で考えられない猥雑な店があったり、趣向をこらした賭場があったり、ショーがあったりする。闇取引もさかんで、下バッハルのマーケットで手に入らぬものはないともいう。若者たちは――たとえそれが良家の子息であり、家族からこの町へ来ることを禁じられていたとしても、こぞってここへ来ようとする。そうすることで仲間うちでハクがつくのだ。


 しかし下バッハルが物騒であるのは先に述べたとおりで、暴行を受けた、売り飛ばされた、刃傷沙汰に巻き込まれたといった事件は頻繁である。住民たちも少しばかりの喧騒には慣れきっている。


 だから、今、イーマたちの行手をふさぐように、いきなり手前の家のドアから、下帯いちまいの男が蹴りとばされて出てきても、道に居合わせた人々は、ちょっと目をやっただけだった。


 下帯の男ははげしく罵っている。どうやら賭博に負けて身ぐるみはがされたらしいのだが、男はそれがいかさまであるとわめいているのだった。が、家の中から強面の男が飼葉桶を持ち出し、異臭のする中身をぶちまけようとすると、すっとんで逃げた。


 イーマは馬上で目を丸くした。


 かれは先程、街道でアガンと口論をしてしまったので、しばらく悲しそうに黙っていたのだが、下バッハルの賑わいに入るにつれ、生き返ったようにそわそわしはじめた。当然ながら、イーマは下バッハルへ足を踏み入れたのははじめてである。


 アガンはイーマを乗せた愛馬の手綱を引きながら歩いていた。むっとした表情なのは、イーマをメンハペル城へ連れ戻そうとしたら、思いがけず、イーマの強い拒否にあったからだ。と同時に、フード付きのマントで身を隠しているとはいえ、見るからに弱々しく、姿のよい少年であるイーマを悪漢どもから守るため、周囲に目を光らせているのだ。


 見るもの、聞くもの珍しく、イーマはアガンに質問した。アガンははじめむっつりしてたが、もともと世話好きの彼のほうもそうやって頼られるのはまんざらでなく、面倒くさそうにしながらも、イーマの質問にこたえてやっている。


 その後ろから仏頂面で着いて来るのは、アガンの同僚のマナシュだった。マナシュは非番であったところをイーマ捜索にかり出されていたので、とても機嫌が悪い。


 イーマが、たった今通りすぎたばかりの屋台の串焼き肉を食べたいと言うと、アガンはためらわずに戻ろうとした。するとマナシュは馬首をめぐらせて、行手に立ちはだかった。


「そんな暇ないはずだろ。さっさと前へ進め、アガン」


「堅いこと言うなよ」


「ヘンなもの食わせて、イーマの腹でもこわしたらどうするんだ。この町の食べ物はお世辞にも衛生的とはいえないぞ。だいたいお前はこれからどうするつもりなんだ、アガン。オレが何をしたっていうんだ。なんでこんな悪事の片棒をかつぐ真似をしなくちゃいけないんだ」


「悪事って、お前ね」とアガン。


「オレはバッハル街道の、言われた場所に立っていただけだ。そうしたら丘から急にお前たちがあらわれて、オレが隊長に合図しようとしたらいっしょに来いと拉致されて――」


「誰がお前なんか拉致するか」


 アガンはイヤそうに言ったが、マナシュは「剣を突きつけて、脅したじゃないか」と反論した。


「だいたい若さま、あなたは何を考えているのですか。皆にどれだけ心配をかけていると思っているんですか。なのに、あなたは城へは帰らず、他の皆に連絡もさせないで、どうしても下バッハルに行かなくてはならないと言う。こんな皆を騙すような真似をして!」


「まあまあ。その件では俺も同意見だ。わかった、串焼きはあきらめる。とにかく話のできる場所へ行こう」


 アガンはマナシュをなだめ、市門通りから少しはずれた路地を曲がったところの居酒屋へ連れていった。その居酒屋は下バッハルにしてはこぎれいな店で、アガンの行きつけであるらしかった。アガンは勝手を知った様子で二階の小部屋にイーマとマナシュをあがらせると、自分は女将のところへ降りていって、イーマのための着替えとサンダルを用意してくれるよう頼んだ。


「どんな具合だ」


 戻ってくると、アガンはイーマの額にひょいと手をあてた。


「熱は――なさそうだな。顔色もいいし。なんだ、具合悪いって聞いてたわりには、元気そうじゃないか。ちいさな怪我はしているみたいだけど」


「う、うん」


 イーマはアガンがかぶせてくれた、アガンのマントを脱いで、手足の擦り傷の手当をしながら、ぎくっとした顔になった。しかし能力種に治療をされたとはさすがに言い出せず、曖昧な笑みを浮かべる。


「ふーん」


 アガンは胡乱そうな顔をしたが、もうそれには触れず、小部屋の入り口から顔だけ出して、女将に「人払いを頼む」と言った。


「大丈夫。ここの連中は口が堅い」


 アガンは給仕の少女がいれてくれたばかりの茶をすすった。そしてドアをあけて廊下に人がいないことをもう一度、確かめてから、イーマに向き直った。


「何にしても無事でよかった。心配したんだぞ」


「ごめん」


 イーマはうなだれだ。アガンは少し笑って首を振った。


「なに――いいさ。それより、やっぱりくせ者がいたんだな」


「うん」


「誰に狙われた」


 アガンは静かに、切り込むように聞いた。イーマは口ごもった。


「それは――」


「それは、誰だ」


「……」


 イーマは困ったように目線をさまよわせた。先程の驚くべき出来事をどのように説明していいのかがわからないのだ。


 アガンは何事につけ、イーマを気にしてくれる。普段、ぼうっとしたイーマに呆れたり、馬鹿にしたり、皆の言いなりのイーマに文句を言ったりもするが、アガンの心根は善良だ。

イーマのほうもアガンには心を許している。と言うか、メンハペル城の人々は総じてイーマに親切だったが、それはどれもどこか上辺だけの、表面的なやさしさで、本当にイーマを案じ、イーマを大切にするものではなかったのかもしれない。


 アガンはイーマが記憶を失っているということを気にもしてないようだった。破壊王を彷彿とさせる不吉な赤髪や、いわくありげな素性についても、イーマという少年のアクセサリーのひとつのようにしか感じていないところがある。そしてそれは、そういう背景にあるもののおかげで好奇の目で見られ続けてきたイーマにとって、好ましいものだった。


 と言っても、イーマの性格では、誰にでもわかるように好意や友情を現すことはない。が、その分、静かに、深く、アガンを信頼している。


 けれどもアガンにせよ、イーマが話す真実を額面通りには受け入れられないだろう。能力種というのはそれだけ世の中の影の存在であり、異質なのだ。無論、イーマ自身も能力種の端くれであるということをアガンは知らない。


「あの、だから……こんなこと、僕だってとても信じられないのだけど……気がついたら、部屋から連れ出されていて……」


 イーマはそれでも必死で言葉を探した。アガンの友情にこたえたい、アガンにだけは真実を知ってもらいたいという思いがこみ上げてくる。が、それ以上に、アガンにまで自分を誤解されてしまったらどうしよう、という恐れがイーマの口を重くしていた。


「すまない」


 アガンが突然、深々と頭をさげた。


「お前が普段あんまりぼうっとしているから、お前の話を真に受けなかった。俺が悪い、すまん」


「アガン」


 イーマはびっくりして言った。


「お願いだよ。頭をあげて」


「すまなかった」


「わかったから、もういいってば。こっちこそごめんなさい……本当に」


 アガンはやっと身を起こした。それからイーマを見つめ、ずいっと膝をつめる。


「でもどうして下バッハルなんだ。俺はお前に頼まれたとおり、メンハペルの騎士の誰にも告げず、下バッハルまで連れてきた。それはお前に対して悪かったと思ったからだ。くせ者に狙われて、拐かされて、怖い目にあったんだろう? それなのに城には絶対、帰らないって言い張る。何があったんだ」


「……」


「隊長たちは――イーマが誰かに誘拐されたのだとしたら、もうとっくにバッハル近辺から出てしまっていると踏んでいた。だから探索の手を広げにかかってた。だけど俺は、お前がバッハルへとても行きたがってたのを思い出して……もしかしたら、まだこのあたりにいるかと思って、隊から離れて、バッハル周辺の街道を行き来していたんだ。そうしたらお前がいた」


 アガンの背後からマナシュもとがった目を向ける。イーマはいたたまれないようにうつむいた。アガンはその可憐な仕種にほだされないぞ、と言うように、ちょっときつい口調で言った。


「それともまさか、お前、自力でメンハペル城から脱走したのか」


「まさか」


 イーマは驚いて叫ぶ。アガンは肩をすくめた。


「だよな。それだけは信じるよ。だが、説明しろ。無論、話によっちゃ、殴り倒してでも城へ連れて帰る。今度こそ、パラルダ神に誓って真面目に聞くから、こら、目をそむけるな」


「それは……」


 イーマの目が、たちまち涙ぐむ。


「つきあっていられん」


 マナシュが立ち上がった。


「勝手にやっていてくれ。オレは下で酒でも飲んでくる」


 そのままどすどすと階段を降りてゆく。アガンは肩をすくめた。


「気にするな。ヤツなりに気を利かせたのさ。それより聞かせてもらおうか。それともまだ俺の忍耐力を試すつもりか」


 イーマは観念したように首を横に振った。


 しかし案の定、イーマが語尾を濁しながら――かれ自身も能力種であるということだけは省いて――話しだすと、アガンはまずはじめにかくんと口をあけ、それから信じがたいものを見るような目つきでイーマを見、最後に非常に複雑そうな顔をした。事情をすっかり聞き終わったアガンは、気を取り直したように言った。


「まあ――うん……そうだ、あれだな。とにかく、そのニケットってのがタチの悪い奴だってことだけはわかった。おまえが破壊王の子孫かもしれないっていうのは、俺には判断できない」


 言葉を切って、腕を組む。


「破壊王の赤髪は有名だったし、何人かの子孫たちも見事な赤髪だったと言われてる。だけどそれだけで、大陸中の全ての赤髪の人間が破壊王の子孫だなんて誰が信じるか。しかし女王のメダルねえ。そいつが能力種だってのも、厄介だなあ」


 この世界には時々、聖王再臨者と呼ばれる特別な人々が現れる。聖王再臨者とは創造神アルガ大神の奇跡の力を継承した人々のことだが、もともとはただの人だった。その彼らが聖王再臨者としての驚くべき力を身につけたのは、「栄光のメダリオン」と「女王のメダル」と呼ばれるふたつのメダルを重ね合わせ、創造神アルガ大神の審判を受けたからである。


 もっとも多くの場合、メダルを重ね合わせても審判は起こらない。しかし、歴史上、ごくわずかな選ばれた人間たちは、その瞬間、アルガ大神の審判を受けるという。そしてその審判の試練に耐え抜いた者だけが、聖王再臨者として立つことができるのだ。


 アガンは溜息をついた。


「聖王再臨者は何でもできるって事だからなあ。アルガ神の奇跡の力を、四大性質の火や土、水、風の力を自在に操れるんだろ? 雨や地震を起こしたり、大地を動かしたり……――まあ、実際にそいつを見たことのある奴はもうこの世には生きちゃないから、本当にそんな魔法みたいなことができるのかは知らないが――だけど能力種たち、アイツらが歴代の再臨者の子孫で、その血統のためにああいう変な、薄気味悪い力が使えるっていうんだから、やっぱり聖王再臨者ってのはとんでもないんだろう。聖王再臨者こそが両大陸の絶対支配者だとか言われるくらいだから」


 しかしふたつのメダルが揃わなければ、審判は起こらない。女王のメダルが紛失されたのは、およそ千二百年前だという。ちょうど破壊王失脚時に重なり、それゆえ人々は、次代の聖王再臨者が出されることを恐れた破壊王が、女王のメダルを両大陸のどこかに隠したのだと噂しあうようになった。


「だから破壊王の子孫は狙われる。千二百年もの間、敬虔なアルガ教徒だの、神殿グループだのが探しに探して見つからなかった女王のメダルだ。大陸のどこかで隠れ暮らしている破壊王の子孫たちが在処を知っていると思われたって、不思議はない。それに破壊王には隠し財宝がある」


「ああ」


 イーマは低く呟いた。


「境界線の破壊王の墓にあるっているアレでしょう」


「そうだ。それもあるから、そのニケットがはいってるフォルテみたいな連中は破壊王の子孫を狙うんだよ。子孫なら、当然、先祖が残した莫大な財宝の在処を知ってるだろうからな」


 あまり興味なさそうにイーマは頷いた。アガンは話を切り上げるように腰を浮かした。


「まあ、いいや。とにかくそのニケットって奴だって、自分がまさか聖王再臨者になるつもりでもあるまい。何しろ、数百年にひとりの割合でしか、聖王再臨者は出ないんだし、万が一、メダルをそろえたところで、聖王再臨者に選ばれるかどうかなんていうのは、まさに神のみぞ知る、なんだからな。そんな神の気紛れにつきあってはいられんだろうよ。さて、着替えは用意できたかな。身支度したら帰るぞ」


「どこへ」


「メンハペル城に決まっているだろ」


 するとイーマは即座に言った。


「イヤだ」


 アガンはこのあまりにはっきりとした主張に、一瞬、絶句したようだった。


「僕はここに残る。城へはあなたひとりが戻ればいい」


「おい、ふざけてるのか」


 イーマは青ざめて、今にも泣き出しそうだったが、強情そうに首を横に振った。


「心配してくれているのはわかる。それについてはお礼を言うよ。有り難う、アガン。だけど僕はオデオンに会いに行かなくちゃいけないんだ。チャンスは多分、今夜だけだから……」


「明日でいいだろ」


「それじゃ駄目だ。アガンだって知っているでしょう。城に戻ったら最後、僕はきっと軟禁される」


「軟禁て、お前ね。意味わかって言ってるのか」


 アガンは呆れた。それからメンハペル城の人々がどれだけイーマの身を案じ、仕事をほうり出して寒空のなか探し回っているのかをもう一度、話してやる。イーマは申し訳なさそうに聞いていたが、「わかったな。じゃあ、戻るぞ」とうながされると、弱々しく首を振った。ついにアガンの堪忍袋の緒が切れた。


「おい、いい加減にしろ! 何様だと思ってるんだ。我侭もいい加減にしねえか。自分が何をしてるか、わかってるのか」


 イーマもだんだん興奮してきたのか、今までためこんでいたものを、わっと吐き出すように言った。


「わかっているとも。皆はいつだって僕を過保護にし、僕を城の奥へ閉じこめておきたいんだ。僕には自由がないんだから。記憶がないとか、発作が起こるとか――……それはその通りで、僕は皆に迷惑をかけ通しだから反論はできないけど、それにしたって、ああ、もう、うんざりなんだ。それに今日のことだって、皆はきっと信じてくれない。僕の頭がおかしくなったって思われるだけだ。破壊王の子孫だって? 能力種のニケットに襲われて、能力種に助けられて……そんなの、僕にだって信じられないのに信じられるわけがない。第一、アガン。あなただって信じてないでしょうっ」


 アガンはびっくりした。


「し、信じる。お前は嘘をついていない」


「嘘つきッ」


 イーマは激しく言うと、そっぽを向いた。


 アガンは仰天してイーマを見た。これまで――この三年間の、メンハペル城における大人しやかなイーマの言葉や態度のみを、本来のイーマの気質であると見ていた者なら、まず、何が起こったか理解できなかったろう。先程、街道でイーマを連れ戻そうとした時もアガンはイーマに拒否されて、内心、かなり焦っていたのだが、それはここまで強い拒否ではなかった。


「こいつぁ……」


 アガンは鼻白んだように黙り込んだ。それから少し考え、慎重に言う。


「お前、何か思い出したのか、イーマ」


「何も」


 イーマは悲しげに睫毛を伏せた。


「ただ、僕はニケットを知っていた。ニケットも僕の過去を知っているようだった。そしてニケットは、僕の本当の父さんを殺したのは自分だって……言った」


 イーマはもう、普段のかれに戻っていた。取り乱してしまった自分を恥じるようにうつむき、ひっそり続けた。


「アガン。あなたがどういう立場で、何をしなくちゃならないかっていうのはわかっているつもりだ。……僕の我侭を聞かせてしまって申し訳ないと思っている。でもあなただから言うけど、僕は――自分の過去が知りたい……それだけなんだ。ねえ、なぜメンハペル城の人々は僕に三年より前のことを教えてくれないの?」


 あどけないといってもよい声で聞かれ、アガンは胸をつかれる。イーマはすがりつくようにアガンを見つめていたが、やがて抑え込むように目線をさげた。


「ごめん。答えられないことを質問したね。さっきの話も信じられなかったら、信じなくてもいいよ。それでも僕たちの友情は変わりはしない。だけど……僕はオデオンに会いにゆきたい。アガン、お願いだよ、これだけは、どうか。行かせてほしい。僕にあなたを憎ませないでほしいんだ」


「お前」


 沈黙の後、アガンは呻くように言った。


「俺を脅す気か」


「脅す?」


 イーマは心底、意外そうに小首を傾げる。アガンはいきなり我慢できなくなったように頭髪をかきむしった。


「ああ、わかったよ、わかったよ、畜生」


 彼は浅黒い、端整な顔をゆがませた。


「オーケー。わかった、ついてってやるよ。そんな脅され方して、力尽くで連れ戻せるわけないだろう。それにお前はここが下バッハルだってことを忘れてる。まだ市門が開いてる時間とはいえ、夜の下バッハルだぞ。表通りから外れれば物騒になる。お前みたいに頼りない奴ひとりで行かせられるか。まあ、確かにそれだけ元気なら、能力種に治療してもらったってのは本当なんだろうさ。だけどな、イーマ、そのオデオンていう男を見つけて話をしたら、とにかく一度城へ戻る。これは約束だ」


 イーマの顔がぱっと輝く。アガンは舌打ちした。


「この確信犯め。マナシュを呼ぶから、ここで待ってろ」


 彼は階下に同僚を探しにいった。が、すぐに緊張した面持ちで戻ってきた。アガンは着替えとサンダルをイーマに渡しながら、厳しい声で言った。


「マナシュがいない。馬もなくなっていた。あいつ、裏切りやがった。メンハペルの騎士たちがここへ押し寄せてくるかもしれん。裏口から逃げるぞ」






 ところが、オデオンに指定された、下バッハルのあるうす汚れた通りの一軒家を探し当ててみると、その家の少女は、オデオンなどという男は知らないと言い切ったのだった。


「知らないっていったら、知らないよ」


 だいたい見知らぬ家を訪ねてよい時間ではない。命が惜しかったら無事でいるうちに戻れ。少女はそんなような文句を並べたてると、ピシャリと二階の小窓を閉めた。とりつく島もなかった。


「場所、違うんじゃないのか」


 アガンがそわそわして言う。そこは道の両側に古い家々が並ぶ、不気味に静まり返った場所だった。月の明るい晩だったので、足元がおぼつかなくなることはなかったけれども、建物の影にはいってしまえばたちまち真っ暗闇になる。冷たい強風に、カンテラの灯が心許なげに揺れていた。


「おい、もう行こう。この界隈は危険だ」


 小路の入り口に身を寄せてうずくまっていた浮浪者たちの、悪辣そうな顔つきを思い出して、アガンは身をぶるっとさせた。また時々、道の影になった部分からこちらを物色するような殺気が感じられる。


 それゆえアガンは気が気でなく、しきりにイーマをせかすのだが、イーマは強情に首を振った。


「ここのはずなんだ。オデオンは確かにあの時――」


「よしよし、わかった。明日、明るくなってから来よう」


「イヤだ」


「お前、いつからそんなに強情になったんだ」


「アガン、お願い」


「もう、騙されんっ」


 こうなったら腕づくでもイーマを連れ戻すしかないとアガンが判断した矢先だった。


「何かお困りかな」


 見ると、親切とは程遠い、凶悪そうな面構えが並んでいる。アガンはイーマを後ろに隠したが遅かった。男たちはイヤな笑いを浮かべた。


「こんな場所でふたりきりの散歩かい、あんたたち度胸があるな。ところで俺たちはある人に頼まれて、ひとりの子供を探していたのさ。そいつは赤毛でな、赤い目をしてるのさ。坊や、頭の色、見せてみな」


「最悪だ」


 アガンは予備の剣をイーマに押しつけた。


「逃げるぞ」


「う、うん」


 今度はさすがにイーマも頷く。しかし全ては遅すぎた。悪漢どもの間からゆらりとあらわれたのは、隻眼の小男だった。


「さっきはとんだ邪魔がはいったからなあ」


 ニケットは凄惨な笑みをうかべた。


「ほらよ。土産だ」


 どさりと丸いものが落ちる。イーマの目が驚愕に見開かれた。


「アッ……」


 それは先程、バッハルの丘でイーマに治療を施してくれた、丸い顔をした、能力種の男の頭部だった。




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