第1章------(3)
(昼間のあの人は――何だったんだろう……)
その夜、イーマが普段よりいっそうぼんやりとし、誰かに話しかけられても物思いに沈みがちだったのは、仕方のないことだったのかもしれない。
バッハル神殿からメンハペル城へ戻り、再び、長く暗い廊下を歩いて、居住区に定められている一角に連れ戻されてから数時間――
イーマは何度目かの溜息をついた。
夕食の間も上の空で、見かねたメンハペル伯に注意された程である。イーマはせっかく用意された食事のほとんどに手をつけず、早々に自室に引きこもってしまった。もっともそういうことは別にイーマには珍しくはなかったので、メンハペル伯もその家族も不審に思ったふうではなかった。
(オデオン……)
イーマはあてがわれた部屋の奥で膝をかかえながら思っていた。
(能力種で騎士のオデオン)
オデオンはイーマを知っていたようだが、イーマはオデオンを知らない。たった今戦場から立ち戻ったばかりといった鬼気迫るものをほとばらせていたオデオンだったが、イーマは不思議におそろしさは感じなかった。むしろ時間が経つにつれ、懐かしさと慕わしさがこみあげてきた。
(あの人は味方だ)
だがオデオンはイーマの現状を知らないに違いない。イーマはオデオンが指示した場所に気軽に出かけてゆくことができないのだ。
それにさしものぼんやりしたイーマでも、自分が破壊王の子孫であるとか、何者かに命を狙われているなどと言われて、すんなり受け入れられるはずはなかった。また実の父が既に死んでいるのだと言われても実感はない。イーマは首をひねり続けた。
だがそれから半月ほど経った頃、イーマはあるぞっとする視線を感じるようになった。
はじめは気のせいだと思った。
けれども相手は徐々に自分を存在を知らせてきた。月が変わり、バッハルにいよいよ春が到来しはじめた頃からは、いっそう奇妙なことが起こりはじめた。あるべきものが失われていたり、ないはずのものが置かれていたり、背後をひたひたつける不気味な音があったりした。
(まさか)
イーマはバッハル神殿で出会ったオデオンのことを思い出した。
「お願い、バッハルに行かせてください」
イーマは何度も侍女に願い出た。侍女はいつになく必死なイーマに何かを感じとったようだったが、イーマの監視をきつく命じられていたので、
「まあ、困りましたこと。神殿には先月行かれたばかりではないですか」
とたしなめた。
イーマはかなしそうに唇を噛んだ。
「神殿じゃないんだ、そうじゃなくて……――」
「そうじゃなくて?」
侍女はやさしく聞いた。しかしイーマは全てを打ち明けることはできなかった。イーマの直感がそれを告げることは危険であると警告していた。
なぜならメンハペル城の人々はイーマに三年以前のことを教えない。彼らがイーマにかれの過去を知らせるのを好まないのだとすれば、その過去に関わるオデオンは彼らにとって邪魔な存在であるに違いない。
また人々はイーマに親切だったが、イーマはそれがメンハペル伯の命令であるからということを知っていた。時として、彼らは驚くほど残酷になる。騎士たちは主君に命じられれば、顔色も変えずオデオンを抹殺するだろう。そんなことになれば、イーマはせっかくつかみかけた過去への手がかりを失うことになる。
イーマは口をつぐみ、少し考えて、それから現実的な危険の部分だけ伝えた。
「視線を感じるんだ。僕は誰かに命を狙われているんだよ」
けれども、メンハペル城の人々はあまり本気にとりあってくれなかった。
と言うのも、敵は異変をイーマにしか見せなかったのだ。イーマが見たもの、感じたものの他に証拠はなかった。そうである以上、人々は、これはイーマの記憶を失った神経過敏ゆえのものであると納得するしかない。
「いい加減にしてください。狙われている、狙われているって、いったい誰に狙われているのですか。あなたがあんまり仰るから、伯爵様が護衛の数を増やされ、またお城に出入りする者たちを調べなおしたばかりなのですよ。それなのにまた――この前は蛇で、今度は猫ですか!」
ある日の夜、たまりかねた侍女のひとりがヒステリックに言った。その口調の激しさに、イーマは身を縮める。かれはたった今、自分のベッドの上に猫の死骸が捨てられているのを発見したばかりだった。その死骸の重さで目が覚め、無造作にそれに触れ、血だらけになった自分の手を見、イーマは悲鳴をあげたのだが、
「ごめんなさい」
うなだれるしかなかった。
侍女や衛兵が駆けつけてみれば、ベッドには猫の死骸など影も形もなかったのである。人々の目には、イーマが幻覚を見たのか、それともイーマが嘘をついているようにしか見えない。
「気のせいです……」
イーマが力なく呟くと、かれを奇異の目で見つめていた侍女たちはやっとほっとした顔になった。それからイーマが記憶を失った気の毒な少年であることを思い出し、青ざめたイーマの汗をやさしくぬぐい、いたわりながらベッドに寝かせた。
「あなたの発作や悪夢を責めているわけではないのです。ただそれが、いつもの悪夢であるとあなた自身がわかってらっしゃるのなら良いのです。このお城に怖いものはありません。さあ、冷たい水でもお運びしましょう」
「どうもすみません……」
イーマは、この人たちにもう何を言っても信じてもらえないのだという寂しさとあきらめを感じながら、頭をさげる。その可憐な仕種に善良な侍女たちはほだされた。
「いいのです、大丈夫ですよ、若さま。さ、気持ちを落ちつけて眠りましょう。寝付かれるまでついておりますから」
「はい」
侍女の手は暖かかった。そして侍女たちはイーマが本当にぼんやりとした、もしかしたら知恵がいくらか遅れている少年なのかもしれないと、思ったのだった。と同時に、「このか弱いイーマを守るのは自分たちなのだ」という母性のような使命感が彼女たちの胸にこみあげてきた。
しかしこの時の侍女たちには想像もつかなかったが、イーマはものを考える力が劣っていたわけでも、現実と幻覚をはきちがえているわけでもなかったのだ。
確かにイーマは沈みがちな少年だった。記憶がないということ、また動植物の気持ちがわかるというささやかな能力種の力のせいで、人々から孤立した、何を考えているのかわかりにくい存在だった。が、実のところ頭のよい、現実的な気質をそなえた少年でもあった。そうでなければ侍女たちの心の動きを察して、口を閉ざしはしなかったろう。
(記憶をなくしているうえに正気までなくしていると思われたら、僕はおしまいだ。この先、本当にどこにも行けなくなってしまう……)
イーマは侍女に礼を言うと、瞼をぎゅっとつぶった。かれは、たった今触れたばかりの猫の死骸のぐんにゃりとした感触をはっきり覚えていることについて、そして布団の下におさめられたほっそりした手にねばつく血液が残されていることなどについて、もう何も言わなかった。
そして、バッハル神殿でイーマがオデオンの忠告を受けてから、ほぼ二ヶ月が経った午後のことだった。
「よう」
イーマをつけ狙っていた視線のぬしは、これまでの無言ののたうちあいに終止符を打ち込むように、ついに、囁いたのだった。体調がすぐれず寝入ったところを起こされたイーマは、すくみあがった。
男は隻眼だった。
多分、切り傷なのだろうが、顔半分がえぐれたようにひっつれており、それは右側の上唇まで続いていた。だがイーマをぞっとさせたのはそんな傷ではなく、男の濁った、暗い眼差しだった。その目は粘りつくようで、憑かれたような狂気を発していた。男は自分が相手に与えた影響を味わうように頷くと、にやりとし、底知れぬ残虐さをのぞかせて言った。
「遊びは終わりにしようや」
「ア……」
イーマはうわずった声をあげた。そして、間髪を入れずに浮かびあがった事実にうちのめされた。
「あなたは……お前は――」
はじめて見る顔だし、名も知らない。
だが知っていた。
かれの失われた記憶が知っていたのだ。男はニヤリとした。
「ニケットだよ」
「!」
刹那、イーマの脳に火花が走った。
「助けてッ」
叫ぶと同時に、イーマはベッドから跳ね起きた。が、押し戻され、鳩尾に鋭い痛みを感じた。
その後、どのような方法を用いたのか、ニケットは監視だらけの部屋からイーマを担ぎ出し、イーマを野菜屑を回収する荷馬車の底に押し込んだ。そして午後の遅いひとときの、一日の仕事がひと段落ついて人々の気持ちがもっともゆるんだ頃合を狙いすまし、まったく堂々とメンハペル城のおもて門を出て行ったのである。
ニケットの大きな誤算は、今日、イーマが寝込んでいたのは、ニケットが仕込んだ花瓶の花のしびれ薬が効いたからではなく、単なる体調不良で寝ていただけであったということだろう。それとも日頃のイーマのぼうっとした状態を観察して、この相手には手足を縛るだけの必要もないと見下したのか。イーマの手足の自由は奪われていなかった。
また幸いにして、イーマはほどなく意識を取り戻した。かれは恐怖で萎えてしまいそうな手足に必死に力を入れ、御者席のニケットに気付かれないようにしながら、腐った野菜の臭いのする荷台からころがり落ちた。
そしてイーマはその隻眼の男ニケットこそが、二ヶ月前、オデオンが告げた危険であるのだと理解したのだった。