第5章------(2)
一月前にかわされた、それらの会話をイーマが聞いていたとしたら、どんな顔をしただろう。イーマは到底、自分にそうした人々の関心をひく理由があるとは思えなかっただろう。
イーマにわかっていることは、かれ自身に三年以前の記憶がないことだけだ。頭のある部分が空白であるということ、その部分に意識を向けようとするとピシッと閉ざされてしまうということ――イーマはもうそういう感覚に慣れきっていて、それを不自由とも不自然とも感じなくなっていたが、それでも時々、無意識に、その閉ざされたものを探ろうとはしていたのだ。
が、探さなければならないことは無限であり、イーマは途方にくれていた。かれはちょうど、出口のない迷宮にさまよい込んだ人のようなものだった。歩き続けてようやくひとつの記憶の扉を探しあてるのだが、それを開いてみると、思ってもみなかった場所に出る。おまけにそこには別の、新たな三つも四つもの扉があらわれている。かれはすっかり混乱し、気がつけば悪夢に落とされ、悲鳴をあげている。
それでも希に、イーマは素敵な夢を見ることがあった。
そこには光が溢れていた。森、やわらかくかさねられた新緑の隙間からこぼれる光の屑を、イーマは眩しそうに仰いだ。
森は息づいていた。
あたりの空気は澄んでいて、木々の幹はやんわりとあたたかく、木の根がはりだした黒土はしっとり濡れていた。
イーマは幸せな気持ちになって森を散策し、膝をおっては、草花を観察した。糸のような茎の先にちょこんとついた可憐な花々は、それだけでよくできた芸術品のようだった。花たちはどれも一寸の間違いもなく、同じ形の、白やうす水色の衣をかさねている。その隣りでは、紅色のやや鋭い輪郭の花があって、花弁に朝露をふくませていた。イーマはその紅花に見惚れ、またその先にあったシダ類のおどろくべき繊細さに溜息をついた。
その世界では、イーマをとりまく全てのものが友達だった。草花はしたしくイーマに語りかけ、イーマの二本の足を支える大地さえも嬉しそうに揺れた。
イーマは唐突に、これまで自分がひとりでなかったことを思い出した。記憶を失い、天涯孤独のような身の上であっても、イーマはけして孤独ではなかったのだ。
かれのまわりにはいつも草木や花々、小鳥や動物がいた。虫や蜥蜴といったものまでがイーマをかまいに来てくれた。彼らは皆、イーマの友達であり、イーマはかれらによって本当に慰められていたのだ。そしてそうしたことは、記憶を失う以前から、イーマにとってはごく当たり前のことだった。
(ここはどこだろう……)
イーマは歩き、やがて、黄緑色の草がしきつめられた丘に辿りついた。すると背後の森は一瞬にして消え、季節が夏になった。
(ここは――……僕は……)
懐かしい気持ちがした。かれの意識はメンハペル城のベッドのなかからはじまっていたが、かれはこの不思議な夢の場所をかつて、確かに、知っていたのだ。イーマは目を閉じて、大きく息を吸った。そして震える指を空にかざし、何かをつかみあげるようにした。その時だった。
世界が反転した。
橙色のものが、かれとかれの一族にとっては親しみ深かった松明の炎が、闇色になってしまった視界を覆うようにして、眼前に現れた。イーマはその暖かで複雑な色合いが大好きだった。が、その松明の炎はめらめらと燃え広がった。
「逃げろッ」
だれかが、とても懐かしい誰かが、すさまじい声で怒鳴っていた。
「キャアアア!」
「殺さないで、お願い、殺さないで」
「やめろ、やめてくれ」
「逃げろ、早く、ここは俺が止める、お前は母さんと妹といっしょに……――」
黒い柱がくずれ、炎が迫ってくる。人々は部屋の隅に身を寄せあって、泣き、わめき、怯えていた。
「出てこい、破壊王の子孫よ」
「赤髪のジャクソン!」
「うるせえ、今、出ていってやらあ。この化け物野郎」
勢いよく叫ぶ声がし、泣きじゃくるイーマの頭に大きな手が置かれた。ごつごつした暖かい手だった。イーマはびっくりして見上げようとして、突然、さしこんできた光の眩しさに目を細めた。
(お父……さん――?)
相手の姿はかき消えた。と同時に、わああ、わああ、という潮騒のようなざわめきが流れ――
ようやく、イーマは、ゆり起こされて目を開けた。
「イーマ!」
そこは、モルス街道沿いの隊商宿の粗末な小屋の中だった。エルダがイーマをのぞきこむようにして、必死に叫んでいた。
「生きてる? どうしたの、ちょっと、イーマ」
「エルダ……」
イーマは自分が束の間、意識を失っていたことを感じとった。しかしその直前のことは覚えていた。
タウの村の若者と思われる者たちに小屋に閉じこめられ、火をかけられたのだ。エルダはもちろん声をあげて引き戸を叩いた。それでびくともしないとわかると、彼女は壁の上のほうにある小窓に突進した。だが、採光用の窓の僅かな隙間から彼女の体が出せるわけもない。そうするうちに火の手は小屋全体にまわった。その迫り来る炎を凝視しているうちに、イーマは意識を失ったのだ。
(ああ――この炎は……)
どこかで見たことがある、という思いがすりぬけたが、思いはすぐに霧散していった。イーマはすっかり変わってしまったあたりを眺めた。
炎はかなりまわっていた。薄暗かった小屋のなかはそのおかげで、かなり明るくなっていたけれども、それは息苦しさと、皮膚にくいこむ熱をともなっていた。柱や梁だったものが、炎の向こうで黒っぽく揺れている。
狭い窓からは、オデオンの怪鳥が見え隠れした。怪鳥は、炎につつまれた小屋のなかに人が残されていることを他の人々に知らせるように、けたたましい声をあげている。騒ぎをききつけて集まってきた人々の声も聞こえた。
「ごめん、エルダ。僕のせいで……」
エルダは、緊張した笑みを浮かべながら首を横に振った。
「違うの。あたしたち助かるかもしれない。だから気をしっかり持って。もうすぐの辛抱だから」
「え――」
壁をぶち割る音がし、炎の向こうで、手斧をもった男たちの影がゆらいだ。
「生きているか」
新鮮な空気が流れ込み、頼もしい声が聞こえてきた。その声を聞きながら、イーマはまた失神した。




