第4章------(1)
二十一歳になった頃、ニケットは再びめぐってきたくだんの私有神殿の推薦試験を翌年に控えていた。ニケットは以前と同じように念入りな準備をし、今度こそ彼自身が推挙されることにかけていた。だがそれは、双子の兄オデオンの勝手な出奔によってもみ消された。
と言うのも、オデオンを放逐処分に処した神殿側から、今後一切、ニケットの村よりの推薦者は受けつけないと通告してきたのである。
ニケットは荒れた。村の人々からもニケットと両親はひどく恨まれた。
出世の機会を失ったニケットには、その才能を生かす、もうひとつの道があった。有望な能力種だったニケットやオデオンには、能力種協会よりの術師勧誘の話があったのだ。が、二十一歳という年齢を迎えたニケットが、そこへ飛び込めるはずはなかった。
術師には、大きくわけて、魔道師と魔法使いと呼ばれる人々がいる。彼らは、ただでさえ少ない能力種たちの中からさらに選ばれた精鋭だった。ただ術師になるための専門教育はごく若いうちからはじめられ、そうして修行をしたとしても、大部分の者は脱落してゆく――つまり修行の辛さに耐えかねて、死んでゆくのである。
勿論、ニケットも能力種のひとりとして、能力種の技を磨き、使うことは知っている。能力種の師について修行もした。けれども、その技は術師たちの技に比べれば、子供だましにすぎない。術師たちというのは、同胞である能力種たち自身からも異様視されるような、体の構造それ自体が人間から遠く離れた存在なのだ。
ともあれ今更、ニケットが術師を目指すのは不可能だったし、である以上、一介の能力種のひとりとして、素性を隠しながら生きてゆかなければならないのは明らかだった。が、村の人々はニケットの挫折を知っている。いたたまれなくなったニケットは逃げ出すようにして、あるいは何かに焦がれるようにして、故郷の村を飛びだした。
だが、各地を転々としながら、ニケットは世間というものがけして彼にとってやさしくないのだという事実を知った。
(なんだ、今度の新入りは)
(随分、背が低い男だな。子供か?)
(とっくに大人だよ。だけど成長が途中で止まっているのさ。可哀想にねえ)
ひそやかな人々の噂。
ニケットの異形はどこへ行っても人目をひいた。そして好奇心と憐れみをこめた目で見られた。それは故郷の村でも同じことだったが、故郷と違ったのは、行きがかりの人々の好奇心が簡単に悪意にかわり、暴力にかわったことだった。
(おれは能力種なんだ。お前たち、くだらん人間とは違うんだ)
その矜持があったから、ニケットは生きてこれたといってもいい。
と言っても、能力種の技は、能力種でない人々の前で用いることは許されない。またニケットが能力種であることを知られてしまえば、人々は逆上し、さらにニケットに危害を加えただろう。
しかしやがて、ニケットは能力種協会の規律を破った。能力種の力でもって人々に報復し、盗みを働き、生きるようになったのだ。当然ながら、ニケットは能力種協会の牢獄へ放り込まれた。
だが――
ニケットはその牢獄の、囚人である能力種たちのなかでさえ孤立した。仲間たちは、ニケットが思ったとおりの言葉を口にすると、ひどく怒り出した。ニケットは自分のなかにもともと人とうちとけない、異質なものがあるのではないかと困惑した。そしてそのたびに自分とオデオンを比べてみるのだった。
(同じ親から生まれた双子なのに)
ふたりは全く異なる。
オデオンは人々の気持ちを掌握するのに長けていた。それに場を明るくする存在感もあった。
(おれが嫌われるのは、この体のせいか?)
確かにそれもあっただろう。
ニケットのちぐはぐな外見はある種の人々の残虐性を呼び起こす。だが、ニケットは彼自身の陰鬱な気質がそれ以上に人々を苛つかせ、滅入らせていたということには気付かなかった。そして、ニケットが収監された半年後の冬のある日、それが起こったのだった。
雪深い牢獄の、閉鎖された空間に耐えかねた囚人と看守が結託し、ニケットをリンチにかけたのである。
能力種専用のその牢獄では、能力種の力を抑制するための、特種な磁力を発する石で作られたブレスレットをはめられる。ニケットは優秀な能力種だったが、そうされてしまえば、全く無防備だった。
多勢に無勢で襲われたニケットは半死半生となり、凍てつく夜に牢獄の外へ捨てられた。その瀕死のニケットを拾ったのが、付近の私有神殿の下男だった。
「可哀想に」
下男は言った。
その言葉にニケットは泣いた。そしてそのまま下男の仕える私有神殿ではたらくようになった。だがニケットはそこで神官と巫女、彼らに仕える下男、下女たちの暮らしの歴然とした違いをつぶさに見たのだ。
神官の暮らしは優雅だった。彼らは労働の一切を下男らにまかせ、自分たちは居心地のよい部屋で、読書とお喋り、ゲームなどに興じるばかりだった。彼らのまとうローブはニケットがさわったこともないようななめらかな布地で出来ており、下着や普段着、シーツなどの洗濯も神官と他の者たちのものでは違った仕上げをしなければならなかった。
食事も脱俗した聖職者のものとは思えぬ豪勢なものだった。神官たちはその食事のうちのほんの少しだけを食べると、残りは床に投げ捨てて、犬にやってしまう。ニケットは犬が食う残飯のほうが、自分たち下男の夕食よりずっと豪華であるのを幾度も目撃したものだった。そのうえ、しょっちゅう、神官、巫女たちのもとには生家から手紙が来、人が尋ねて来、彼ら自身も彼らがもともと属する華やかな世界へと帰ってゆく。
一方、下働きたちは昼も夜もなく劣悪な環境で働かされた。病気になってもろくな手当さえ受けられない。
(オデオンは――……)
ニケットはうら若い神官たちを見るにつけ、かつての兄オデオンの、神官見習いのローブをまとったかがやかしい姿を思い出した。その地位をなげうったオデオンは、実際にニケットの目前を通りすぎる、貴族出身の、軽薄で優美な神官らよりずっと許せぬ存在に思えた。
もっとも、平民のオデオンは貴族出身の神官見習いたちの間でニケットの知らぬ苦労をしなければならなかっただろう。けれどもニケットの目には、それらのことを差し引いてもあまりある恵みがあるように見えた。
(何てことを……オデオンは、これをおれから奪って、捨てたのか――)
オデオンへの憎悪が、はらわたがよじれるほどのくやしさがニケットの胸にこみ上げてきた。が、同時にニケットはわかっていた。神官の地位はオデオンには与えられても、ニケットにはけして与えられないものなのだと。
(この世は所詮、不公平なところだ)
人間の、それぞれの人生において受けるべき恩寵が、神によってあらかじめ定められているのだとしたら、その神は間違いなく不公平なのだ。
オデオンは生まれながらにして、ニケットが羨む全てのものを備えていた。そう、能力種であるという、普通なら人々に忌み嫌われる才能までもが、オデオンにかかれば出世を助ける道具になるし、魅力のひとつにもなるだろう。ニケットは絶望的なまでにオデオンにかなわない。それを噛みしめた刹那だった。
悪魔のようにすべりこんできた閃きがあった。
(いや――違う)
ニケットは電撃に打たれたように硬直した。
(方法はあるんだ……)
彼はガタガタ震えた。カッと見開かれた両眼が、熱病にうかされたようにぼうっとかすむ。
(この世界には、出生も環境も、才能も、覆すことができる、たったひとつの方法が――この俺でさえもしかしたら手にすることができるかもしれない絶対権力があるじゃないか)
聖王位。
(なぜ気がつかなかったのだろう)
ニケットはおのれの迂闊をのろった。
勿論、そうした奇跡が存在することは知っていた。だが、あまりに世に知られた方法であったため、また無謀ともいえる方法であったため、これまでおのれの身に引き合わせて考えたことがなかったのだ。
(俺が……おれが、このおれが聖王再臨者なったとしたら、どうなる……)
(神の奇跡を――大地や空を動かすことのできる力を……能力種どものちっぽけな力じゃなく、術師たち――魔道師や魔法使いだってかなわない、神の力を手に入れたら……そうすればおれも……こんな俺でも、オデオンをひれ伏せさせることができる。そうだ――これまでおれを馬鹿にした奴らを、踏みにじった奴等を、今度は反対におれが踏みつけることができる)
ニケットはそれまでの半生において、彼が人々から受けてきた苦痛、彼のうちに凝り固まっていた不満をほとばしらせた。
(俺は、俺はッ、いつも虐げられてきたんだッ)
勿論、そうではない、本当に親切な人々というのも彼のまわりにいたのだが、一旦、ねじれてしまったニケットの心はもとへは戻らなかった。
ニケットは咽喉をかきむしるように苦悶した。そうしながら声にならぬ笑いをあげた。彼は飢えていた。何に飢えているのか、ニケットはついにわからなかったが、誰かを憎まなければ、自分が惨めでどうしようもなかったのは確かだった。
数年後、ニケットは過激派神殿グループ〈フォルテ〉に入会した。
(1)
少女の唄声が聞こえる。
「世界の創世、天地が裂けて、栄光のメダリオンをたまわった。ひとりの男とひとりの女が、ふたつの大陸のあるじとなる。しかしこれがとんだ災い」
境界線のクジュの少女エルダが、朗々と声をはりあげながら、朝食の後始末をしていた。彼女は旅の間、男物の服を着ているので、少年のように見える。長い金髪を肩のところでゆったり束ね、砂埃をかばうマスクにも早変わりするバンダナを額に巻いたエルダは、日に焼けた逞しい腕で鍋を持ち上げた。
「メダリオンの奇跡を求めて、善男善女が、あらあら、盗賊まがいの極悪人に早変わり、ハイホー」
これはメダリオンの戯れ唄といって、〈創世の神話〉に節をつけたものの替え歌である。
創世の神話は大神アルガが、朝と夜の両大陸を創造し、あらゆる動植物を創造し、最後に人間を創造してこの大陸に住ませた、といった世界創造にまつわる神話である。
神話によれば、アルガ大神によって創造された最もはじめの男性を初代聖王と呼ぶが、その初代聖王と妻であった女性が、アルガ大神より与えられた約束事を破ってしまった。大神はそのことを非常に悲しみ、初代聖王と妻を大神の目の届かぬ場所へ追放したという。
だが彼らが大神によって与えられた、栄光のメダリオンと女王のメダルの奇跡の力は消滅せず、以後、ふたつのメダルを重ね合わせた者のうちでごく限られた人々が、聖王再臨者としてアルガ大神の奇跡の力を行使するようになった。
戯れ唄は、その奇跡の力を求める人々の闘争を面白おかしく歌うものだが、千二百年前、女王のメダルが紛失されてからは、女王のメダルの行方を探る内容が多く歌われるようになっていった。勿論、歌詞は地方によってどんどん変化する。が、どの地方の歌詞も最終節は決まって、
「お宝は、そう、深い深い亀裂のなか。暗黒の沈む場所。黄金の生まれる土地。はるか忘れられた緑高原にて、次なるあるじをまちわびる」
となる。
ともあれエルダの唄はうまかったし、なかなか聴かせもした。
これがメダリオンの戯れ唄でなければアガンも文句は言わなかったろう。しかし成りゆきとはいえ、女王のメダルを欲する悪漢のせいで逃亡生活を余儀なくされたアガンにすれば、少女が好んで唄うその唄は勘にさわる。アガンは馬にかけた荷の整理をしながら、その朝何回めかの文句をつけた。
「そこのバカ女、いい加減、厳粛な唄で遊ぶな」
エルダはびくともしない。彼女は鍋を裏返して、慣れた手つきで馬の尻にくくりつけた。十五歳の彼女は、イーマよりひとつ年下だが、とても世慣れていた。
「はん、こっちはこれが商売なんだ。こいつを冒険者たちに唄ってやれば、チップが倍になるのさ。あーあーあー、声はいつも出してないとね、勘がにぶるんだよ。朝の練習の邪魔すんじゃないよ」
「その唄を大神からの授かり物だと崇めてるバッハル神殿の神官どもに殺されろ」とアガン。
「意地悪。あんたなんて嫌い。もっと元気に唄ってやる」
「なんて女だ」
しかしアガンがその唄を嫌うのは、ニケットというメダリオンの奇跡の妄執者に狙われるイーマに気を遣ってのことだった。
エルダは細かな事情は知らないが、メンハペルの丘での出来事は見ていたので、だいたいの察しはつけているようだった。ただ彼女にすれば、アガン・ライフがイーマに気を遣いすぎるのが気にくわないのだ。それでアガンがイーマを守ろうとすればするほど、彼女はイーマの嫌がることをする。
「あんたの食事だけ、水神ウィンディーネの怒り、汚れた水にひたしてやる」
エルダは、いーっ、という顔をした。アガンははねかえすように言い返した。
「生憎、俺が気にするのは風向きだけだ。水神なんて怖くもない。お前のちゃちな呪いなんぞ、パラルダ神がうち破ってくれるさ」
「風向き、風向きってバッカじゃないの? 風が北から吹いたって、誰も死にゃしないわよ。だけど水が悪かったら、お腹をこわすことも知らないの」
「俺は水神を嫌ったことはこれまでなかったが、これからはちょっと考え直さなくちゃいけないようだな。お前は育ちが悪すぎる、境界線のエルダ。お前みたいのがそばにいたら、イーマに悪影響を及ぼす」
「過保護」
「なんだとう」
そのエルダとアガンの口喧嘩といおうか、じゃれあいを聞きながら、イーマは少し離れた立木にもたれていた。
地面に投げ出されたイーマの膝の上には、バッハル街道を南下しながら採取してきた木の果がある。この木の果には強い香りがあり、香辛料として使われる。同時に衣類などの染め粉にもなり、イーマは時々、これを彼の赤髪を茶色に染めるために用いていた。
イーマは立木のぬくもりを背中に感じながら、ほうっと息をついた。この立木は老木で、あまり人と話をしたがらないタチのようだったが、つたわってくる立木の気持ちはおだやかなものだった。
イーマは傍らの赤土にも触れてみる。乾いた土はさらさらとイーマの細い指のあいだからすべり落ちたが、表面の土をどけてみると、何本かのか細い草が生えていた。バッハル街道をずっと南下したところの、このあたりの街道は荒れ地にあり、まともな草木のひとつもないように見えたが、隠れたところでは、ちゃんと若い命が息づいている。
イーマは土をそっともとに戻して、その下のちいさな草たちに心を通わせてみた。微弱な反応があった。その可愛らしい声にイーマは顔をほころばせる。
メンハペル城にいた頃も、こうして植物たちと会話したものだった。とくに城の奥庭の一角はお気に入りで、イーマはすべての植物たちと顔見知りだった。
イーマの関心事であった、しずかな日常の、些細な事柄が次から次へと頭に浮かんでくる。養父メンハペル伯爵との決別を果たしてから数日が過ぎていたが、イーマの心をしめているのは、これから先に待ち受けている冒険への期待ではなく、メンハペル城での暮らしを懐かしむ気持ちばかりだったのだ。
(今頃――城はどんな様子だろう)
それでもニケットより与えられた恐怖が生々しく残っていた、旅のはじめの数日は緊張していた。だが、いったんバッハルへ戻り、馬をそろえ、旅支度を整え、バッハルを街道を南下する間もニケットは気配さえ見せなかった。やがてニケットの生死すらわからぬままに、ひたすら街道をゆくだけの日々になると、イーマの緊張感は急激に萎えていった。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう。僕はもしかしたら、とんでもない間違えをしでかしてしまったんじゃないだろうか)
あれほど知りたがっていた自分の素性についても、もう、どうでもいい気がした。記憶がないのは不自由だが、イーマはあまりにもそうした状態に慣れきってしまっていた。記憶をなくしていても、普通に暮らしてゆくぶんには差し支えはないのだ。
それに何より、愛する養父を捨てて来てしまったことが悔やまれた。
(父上)
ニケットさえ現れなければ、多少のストレスを感じはしても、イーマはいつまでもあの城にいただろう。それが成りゆきで飛び出して来てしまったものだから、高ぶりがひいてゆくほど、落ちつかない気分になってゆく。メンハペル城から実際に離れるにつれ、イーマは身を引き剥がされる喪失感と不安を感じていた。
つまり、こういうことだったのかもしれない。
記憶を失うことにより、それまでかれをかれとして存在させていたあらゆる要因が崩壊してしまっているイーマは、白紙の状態になってしまった自分を受け入れてくれる環境を欲していた。同時に、不安定な心情を保護し、守ってくれる相手も必要とした。この、自分を守ってくれる相手、自分にやさしくしてくれる相手に無条件にすがりたいというのは、イーマ自身にもどうしようもない欲求で、極端な話、それさえあれば落ちつけるのだ。
メンハペル城にはそのどちらもが揃っていた。しかしオデオンという、新たに頼るべき人物と出会ったイーマは、あまり考えもなく、引きずられるままに流れてしまった。そして気がついた時には、居心地のよいメンハペル城を失っていた、ということなのかもしれなかった。
イーマはひそかな溜息をついた。
そうしながら、イーマは細い糸のようなくしゃくしゃの蔦に絡まる木の果をはずして、丁寧に小袋に入れてゆく。そこへ上空から羽音がした。怪鳥だった。
(オハヨウ)
イーマは挨拶したが、怪鳥はこたえない。
怪鳥は、翼を広げるとちょうど大人が両手を広げたほどの大きさになる漆黒の猛禽である。体つきはすんなりしていて、すっと伸びた首が上品な印象を与えた。また赤や緑、黄といった鮮やかな色彩がいりまじったつややかで長い尾は素晴らしく、観賞用にも適している。
(食事ハ、スンダノカイ)
怪鳥はやはりイーマの呼びかけなど聞こえぬように、空を旋回している。イーマの〈声〉が聞こえていないわけではないのだ。怪鳥がイーマの言葉を理解していることは、短い旅のうちでイーマにはすっかりわかっていた。それどころかこの鳥は、時々、イーマに強い好奇心を抱いているような目をくれる。面白がっているのだ。
だが、オデオンの怪鳥は気位が高い。もともとこの種の鳥は主人以外の人間に懐かないものだが、オデオンの怪鳥は自分たちのその性質をことさら誇りに思っているところがある。
(でも、この鳥は、なんだか僕を守ってくれているみたいだな)
まるでオデオンがそのように命じていってくれたようだ、とイーマは思っていた。実際、怪鳥は下バッハルでニケットと悪漢どもから助けてくれた。
けれどもオデオンはバッハルにいなかった。
その事実は、少なからず、イーマに裏切られたという感覚を与えた。イーマは下バッハルの、オデオンに言われた場所にさえ行けば、オデオンがイーマの知りたいことを全て教えてくれるし、ニケットの脅威からも守ってくれるのだと、いつしか信じきっていたのだ。
イーマは手をとめた。
顔をあげ、木立ちの枝の向こうの澄んだ空を見上げる。
(境界線。ゴアの町――破壊王の墓のある場所。そこでオデオンはどうしようというのだろう)
名を呼ばれ、イーマはよりわけた木の果を抱えて立ち上がった。
「イーマ、聞いてるの?」
街道を出発してしばらく経った頃、エルダが怒ったように言った。アガンはすかさずエルダとイーマの間に馬を割り込ませてきた。
「またこいつを苛めようとしているな」
「何いってんのよ。これからのこととか、大事な話しているのに、この子がぼさっとしてるから、注意してあげたんじゃない」
イーマはびっくりしたように真紅の瞳をあげた。エルダは下唇を突き出してさらに文句を言おうとしたが、そのエルダの横顔にアガンが素早く鞘をめりこませた。アガンは抗議の叫びをあげるエルダを無視し、イーマに向き直った。
「そろそろモルスに入る。イヤな思いをするかもしれないが、我慢してくれ」
モルスはユネスの隣国で、朝の大陸南部に位置する。アルガ大神の四大性質のうちの火の性質を、「炎の神」サラマンダ神を守護神に抱く国家である。四季のうちで夏が最も長いモルスは、現在、春のただなかにあるユネスに対して、初夏の兆しがある。
イーマは、爽やかだったあたりの空気が、だんだん熱気をおびた埃っぽいものにうつりかわりつつあることに気がついていた。かれは深くかぶったフードを引き寄せた。
「わかってるよ、アガン。僕の髪でしょう」
「まあな」
「そうよね」
エルダも横から口をはさんだ。今度はアガンに攻撃されない位置にさりげなく馬をすすませている。
「その不吉な赤髪は隠しておいたほうがいいわよね。とにかくモルスは破壊王のおかげで、さんざんな目に遭ってるから」
モルスには破壊王によって手ひどい仕打ちをうけた経験がある。何しろ千二百年も昔のことだから、そういう事態が引き起こされた前後関係というのは明らかではないが、とにかくモルスは破壊王を敵にまわし、報復を受けたのだ。
破壊王はモルスを徹底的に破壊した。その後、モルスの肥沃だった大地は泥流を押し流した後のような不毛地帯となってしまった。そして今もなお、その痛手から立ち直れずにいる。それゆえ、モルスの人々にとって破壊王とは、厄災の権化のような存在だった。
「でも染めれば、そんなに目立たないと思うんだけど」
イーマが言うと、エルダは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「いくら染めたって、そんな木の果の染め粉じゃ、すぐ落ちちゃうわ。その染め粉は万が一の時のためにとっておいて、普段はなるべく髪を隠すようにするのね。でなかったら、髪を剃るか」
「やめてくれ。そいつは本当に最後の手段だ。あんなにきれいなものを剃ることはないだろう、モルスなんかすぐに抜けるんだ」
エルダは驚いたようにアガンを見、それから「はーん」と呟き、アガンとイーマに意味ありげな視線を向けてきた。アガンはますますむきになってわめいた。それへエルダが何事か言い返した時だった。
イーマはふと視線をあげた。
(視線……?)
しかしそれは本当に微かな気配だったので、気のせいだったのかもしれない。イーマは不思議そうに小首を傾げた。
そして旅の日々が流れていった。
エルダがしめした、境界線までのいくつかのルートからアガンが選んだのは、バッハルから南下してモルスへ入り、いったん無国境地帯を抜けて、モルスの隣国ポルルスの山岳地帯から境界線へ入る路程だった。
大陸には各地を結ぶ街道が敷かれていて、それらを辿ってゆけば大抵の場所へ着けるようになっていたが、街道は諸国の事情によってまったく様子が異なる。ルートのなかには、本当はもっと早く境界線に到着できるものがあるのだが、それを選ぶと狂暴な盗賊団が出没する道を通らなければならないとか、道の整備がとどこおっていて、先へ進めないといった出来事が起こる。
アガンが選んだルートは、そういう情報をふまえたうえで、もっとも確実かつ安全と思われるものだった。が、それでさえ最低三ヶ月はかかるし、都度の状況によっては変更を余儀なくされる。
モルスへ入国した三人は二回ほど足止めをくったが、おおむね順調に旅を続けていた。その二回というのも、ニケットという能力種がイーマを狙っていることに比べれば、実に些細なものだった。足止めのひとつはモルスの水が合わなくて、アガンが腹をくだして寝込んだため、もうひとつは街道沿いの宿屋の娘が、イーマの寝所に忍んでいって騒ぎを起こしたためである。
幸い、娘はイーマの赤髪には気付かなかった。イーマは娘の大胆な夜這いにびっくりして、どうしたものかと途方にくれた。そうしたら暗がりからアガンの手がひょいとのびてきて、そのおいしい役目をかわってくれた。途中で入れ替わりに気付いた娘が騒ぎだしたのである。
その顛末は、宿屋の同じ部屋で寝ていたエルダを相当にげっそりさせるものだった。エルダはそれから二日間、アガンと口をきかなかった。
しかしアガンはアガンなりに、真面目にこの旅にとりくんでいるようだった。彼はとてもニケットの追跡を気にしていた。ニケットはなおも姿を現さなかったが、もしニケットが襲ってきたら、その能力種である相手と戦うのは自分であると殊勝らしく決めているようだった。
エルダははじめこの仕事が気に入らなかったが、結局、割りきったようだった。彼女にとってイーマという少年が苛立たしい存在なのは、これはもう、どうしようもないことで、旅の間に少しばかり親しくなったところで変えられない。だが、それがイーマの責任でないこともわかっている。だからイーマの世話は一切、アガンにまかせ、彼女はガイドとしての仕事に徹していた。
イーマの体調は驚くほど良好だった。夜、悪夢にうなされるのは相変わらずだったが、発作も起こさず、不慣れであろう旅によく耐えていた。その華奢で可憐なおもてからは、メンハペル城への郷愁もこの先に待ち受けている出来事への不安も読みとれなかった。
モルス街道は平穏だった。月がかわり、モルスのさらに奥深いところへ進んでゆくと、あたりはいよいよ荒涼としてゆき、その砂漠地方特有のむっとした暑さは旅人たちの体力を奪った。
だがその頃には、旅人たちは――外の世界が珍しいイーマさえも――モルスの風土に慣れつつあったし、旅はやはり上手くいっていたのである。問題が起きたのはそのまもなく後のことだった。




