7:“ ヒカリと、悪魔のロジック”
ヒカリはゆっくりと目を開く。
ぼんやりと灰色の地面が広がっていて。
自分がベッドの上にいないことは、すぐにわかった。
夢……?
でも、お腹が、すごく痛い……
ええと、ここは、どこだろう……
「明星ヒカリさん――」
名前を呼ばれた。
横たわったまま、見上げると、男の人の顔。
優しく微笑んでいるような感じだけど、目がうるんでいて、よく見えない。
袖口で顔をぬぐおうとするも、なぜか手が動かなかった。
「あれっ……?」
ぐ、ぐ、と、引っぱるも、背中に張りつけられてしまったように動かせない。
「明星さん」
再び、男の声。
すっと手が伸びてきて、ハンカチで優しく、目元をぬぐってくれた。
そしてヒカリの肩を抱え上げ、床の上に座らせる。
「俺のこと、誰かわかる?」
「……? ええと」
ぼんやりした頭。お腹の痛みに耐えながら。
ヒカリは必死で、目の前にいる男の名前を思い出そうとする。
「ご、ごめんなさい……わからないです」
そう答えた。
「ぷっ」
こらえきれないように、吹き出した後。
あ、あははははっ――!
下劣な笑い声。
「悲しいよ、明星さん。俺のことを忘れてしまうなんて……」
さげすんだ目で見下ろされ、困惑するヒカリ。
「あ、その……ごめんなさい……」
「いや、君が謝ることじゃない。よく思いついたものだと、我ながら感心してるくらいなんだ。しかも本当に成功するとはね……すばらしいよ」
「え、え……?」
「さて、明星さん。実は、君にお願いがあるんだけど――いや、その前に、ひとつ試しておこうか」
男は立ち上がり、近くに置いてあったカバンから、1枚の紙を取り出した。
それを自分の前で広げてから、独り言のように言う。
「第2条の第2項。これには『一度に限り』という条件はないんだよ。第1条とは違ってね。さらに『乙が伝えた想い』については、第1条で書かれた『想い』と同じである必要はない。そんなこと――どこにも書かれていないからね」
「あ、あの……何を言って……?」
ほくそ笑む男の前、ヒカリはさらに混乱する。
異常なことが起きているのは間違いない。
けれど――何も、思い出せない。
手は動かせないし、お腹の痛みも酷くなってくる。
気付けば、ほっぺたもチリチリと熱く、痛む。
その痛みが、不安と恐怖に変わり始めた頃。
「俺の名前は、高村だ。高村修一郎。覚えたかな?」
男はそう名乗った。
「え、あ……はい……」
高村さん……?
ええと、どこかで……会ったような……
「明星さん。君はね、悪いヒトに捕まっているんだよ」
混濁とした頭の中、誘拐犯、という言葉が思い浮かぶ。
「それでね。捕まっている君を、俺が助けに来てあげたんだよ」
「は、はあ……」
状況からすれば、あり得なくもない。
しかし、素直に受け入れられるようなことでもなかった。
「疑っているようだね。けど――」
男はヒカリの背に回り込み、手首にかけられたヒモをほどいた。
「あっ……」
手が動かせるようになる。
安堵の息。
それでも痛みは変わらず、思わずお腹を押さえてうずくまった。
「う……う……」
額に脂汗が流れる。
「大丈夫かな。明星さん」
ゆっくりと背中を撫でてくれる、温かい手。
「信頼してくれとは言わない。けど、少しだけでいい、俺のことを信じて欲しい。それが俺の想いだよ。明星さん」
ニコッと、男は目を細める。
悪いことなんて絶対にできなそうな、そんな笑顔だった。
それを見て、ヒカリは思わず。
「はい……わかりました」
そんな言葉を返していた――
はっと、目が覚めた。
どこか体育館のような広い場所。
灰色の床。窓の外は暗い。
ぺたりと座り込んだ自分を見つめる、見知らぬ男。
「え、あ……あれ? あの、ここはどこですか……? あ……つっ」
お腹がすごく熱くて……痛い……
「う……ううっ……」
気が付けば、冷たい床の上に倒れ込んでいた。
何が起きているか、わからない。
怖い、痛い、怖い……怖い。
明星さん。君は――悪魔なんだろう?
声が聞こえる。
俺の魂と引き換えで構わない。叶えて欲しい願い事があるんだ――
どうしてこの人は……そんなことを知っているんだろう……
痛くて、頭がまどろんで、よくわからない……
大丈夫――俺は、君とは赤の他人で、悪人だ。
迷うことはない、俺と契約を結んでくれ――
……知らないヒト……悪いヒト。
うん……それなら、私でも喜んで契約を結べるだろう。
そんなヒトは、願い事と引き換えに、不幸になってもかまわない……
……のかな……
「おーい、聞こえてるかい。明星さん……って、気を失ってしまったか……」
高村は呆れたように両手を上げた。
少女は目を閉じたまま、苦しそうに呼吸をするも、反応を示さない。
やはり、記憶をなくすというのは、脳に何らかの影響が――
いや、それはないのかな。
高村は『ヴェニスの商人』の話を思い出す。
「契約書に書かれてない傷を負わせてはならない。とすると……」
俺が原因か、と、強く蹴りすぎてしまったことを反省する。
高村は床の上に座りこみ、手にした契約書の内容を読み返した。
「第1条、乙は、乙の想い人――丙に対して、一度に限り、乙に関する誤解を解いたのち、その想いを伝える機会を得る……この文では『想い人』が誰とは明記していない。これは契約において致命的なミスだよ。明星さん」
気を失っている少女に向かって、笑う。
「しかしまさか、こんなにも上手くいくとはね……ま、一部とはいえ、俺の魂を代償とした契約なんだ。俺が思った通りに解釈されるのは、当然といえば当然か」
高村は満足げに頷くと、契約書に目を戻す。
「第1条が実現された場合、乙は代償として魂の一部を甲に支払う。魂の一部とは――乙がその生涯において、丙と出会う機会を永久に失うこと……か」
高村は悲しそうな表情で、ヒカリの横顔を見つめる。
俺が――この子のことをずっと好きだったのは、紛れもない事実。
彼女が人間だろうが、そうでなかろうが、その想いは変わらない。
「残念だよ。もう君と出会うことができなくなってしまうなんて……けど」
出会う、というのは。
離れた場所にいるふたりが、同じ場所に集まることを意味する。だから――
「俺が、明星さんから離れた場所に移動しない限りは、こうやって一緒にいられるはずなんだ。ま、君が目覚めるまで、ここでゆっくりと待つことにするよ」
そして、今度こそ――俺が本当に望む願い事を叶えてもらう。
そう、この子は、悪魔にしては優しすぎるというか。
人間としての道徳心が強すぎるのだ。
悪魔がどういう風に『仕事』をしてるかは知らないが、昨日今日の言動から察するに――この子は今まで、悪魔としての仕事を、ろくにしたことがないに違いない。
だから人間として、人間のモラルに従って、契約内容を判断している。
もし今日の放課後、あの教室で。
俺が本当に望む願い事を、この子に伝えたとしても。
彼女は俺のことを批難し、契約を結んでくれることはなかっただろう。
いきなりそれを伝えなくてよかったと、改めて思う。
しかし問題はこの後だ。
契約のルールは何となく理解できた。
だから俺のことを忘れさせることで、関係をリセットし。
改めて、本当の願い事について、契約を結んでもらう。
それが狙いだった。
さらに俺は悪人なのだと認識させることで。
魂を代償とする契約を結ぶことの罪悪感を、彼女から払拭させる。
最悪、暴力で脅して、無理矢理に血判をさせることもできるだろうが……
それで契約が成立するかどうかは、分からない。
必要なのは、彼女を納得させるための話術だろう。
「ふむ……」
高村は、あごに手を当てて思案する。
「う……う……」
ヒカリがうめき声をあげながら、苦しそうに寝返りを打つ。
意識は取り戻していないようだった。
制服のスカートがわずかにめくれ、白い太ももが露わになる。
高村は唾を呑み込んだ。
思い出したのは、夕日の下、一糸まとわぬ少女の姿。
忘れて欲しいと、涙ながらに言われたが……
胸は小さく、線は細めだったけれど、とても綺麗で――
あれほど美しいものを記憶から消すのは不可能だった。
しかし、幸いと言うべきか、明星さん自身はそんなことがあったことすら、忘れてしまっているのだろう。
いずれにしろ、裸を見られたくらいであそこまで取り乱さなくても……
まあ、そんな性格の子だ。間違いなく。
――ああ、なるほど、そうか。
意識せず発せられたのは、獣のような声。
高村の全身を、ぞわっとした快楽が包み込んでいた。
倒れている少女の全身を、舐めるように観察する。
「俺が、何をしたとしても――忘れてもらうことができるんだった」
それは一度でなく、二度も、三度も――
何度も、何度も、彼女の純潔を奪うことが――
「なるほど……これこそ、悪魔に願うべきことだったのか……」
高村は心底、彼女との出会いに感謝した。
もしこの後、契約に失敗し、願い事が叶えられなかった場合。
俺の人生は――間もなく破滅する。
ならば、最後になるかも知れない、人生の思い出として……
「思う存分、楽しませてもらうよ。明星さん」
高村は、少女の足元にひざをつき、スカートを捲りあげた。
あらわになった可愛らしい下着を凝視し、唾を呑み込む。
自分の鼓動が高まるのを十分に味わいながら、ゆっくりと手を伸ばし――
少女の下着に、手をかけた。
――自分で勝手に脱いだってのと、脱がされたってのは、違うんだぜ。
声が響いた。
建物全体を震わせるほどの、低く――おぞましい、声。
背後から襲うのは威圧感。指先ひとつ動かせないほどの――恐怖。
呼吸を忘れ、息苦しくなる――
はっ、と、強く息を吐くのと同時に、高村は全力で振り返った。
だらだらと汗が流れ落ちる。
広い建物の中、誰もいなかった。
風の音、壁沿いに見上げると――異変が起きていた。
夜空を透かすガラス窓に、大きな穴。
ふちの部分が高熱で溶け落ちたかのように、赤く染まっていた。
正面から衣ずれの音。高村は視線を戻す。
「うぁっ!!」
思わず尻餅をついていた。
横たわるヒカリを見下ろすように、知らない男が立っていた。
ラフな格好をした、若く――狼のような目をした男。
高村のことを気に留める様子もなく、ヒカリの身体を注視する。
アザになりかけている頬、辛そうに押さえている腹部。
とん、とん、と。
男は立ったまま腰を曲げ、その箇所を指で突いた。
すうっと――ヒカリの表情から苦しみが抜けていく。
頬は薄紅色に戻り、呼吸は落ちついて、穏やかな寝息のようになった。
その変化を見守ることもせず、男は無表情のまま、横を向く。
男の視線は、高村のすぐ横、落ちていた契約書の紙にあった。
カッ、カッ。
歩み寄り、契約書を拾い上げる。
片手で持ち、目を通し始めたその男は、一切の予備動作を見せることなく。
ズゴン、と。
高村の脇腹を蹴り上げていた。
「うぐぉっあ!!」
奇声をあげ、宙に舞う高村。
やがて離れた場所にどすんと落ち、苦痛にのたうちまわる。
鋭い目の男は、契約書から一切、目を離さない。
高村は腹を押さえ、床の上、潰されたカエルのような声をあげ続ける。
興味なさげに足を進め、高村の襟首をひょいとつかむと。
その頬を、硬い拳で殴りつけた。
はじけ飛ぶ高村。
音を立てて壁にぶち当たり、ずるずると落ちた。
顔の輪郭は歪み、鼻からどろりと血が流れ落ちる。
壁を背にした状態で、痛みに耐えきれず、絶叫――
しかしそれは、すぐに止んだ。
口を閉ざした高村が、恐怖の眼差しで見つめるのは、左腕を掲げた男の姿。
男に表情はなく――周囲の空気がチリチリと、音を立て始める。
その感覚には覚えがあった。
脳裏に浮かんだのは、焼き焦げた、自分の姿。
「ま、ま……まて……」
死への焦りが、震える高村の喉から、なんとか声を絞り出させた。
「お前も悪魔なんだろう……お、俺のことを、殺すつもりなのかっ……!」
男は何も、答えない。
高村は震えながらも、寝息を立てるヒカリを指差して、必死の形相で叫んだ。
「その子は言っていたぞ! 契約書は絶対的なものだと! お、お前も悪魔だと言うなら、契約もなしに俺を殺すのは、ルール違反だろう!」
無理やりな命乞いだと、理解はしていた。
「――ほう」
しかし男は、納得したかのように腕をおろした。
張り詰めていた空気が、元に戻るのを感じる。
……助かったのか?
わずかに安堵する高村に向かって。
「いいぜ。契約の内容は――これで良いんだな?」
手にした契約書を逆手でパンと叩いて、男はそう言った。
「……何?」
「この契約書通りに、お前と契約を結んでやると、そう言ったんだ」
「な、何を言っている……?」
「契約さえ結べば、お前のことを殺しても良い――今、お前が言った言葉を、そう解釈したんだが?」
「そ、そんな意味で言ったわけじゃっ……!」
ない、とは――言えなかった。
言葉の解釈について論議し始めてしまったら、事態は確実に悪い方へと向かう。
自分がそれを悪用し、明星ヒカリを騙したことを糾弾されることだろう。
何とか言葉巧みに、自分が助かる方へと話を誘導できないものか……
全身の痛みに耐えながら、まさに死ぬような思いで考える高村。
その浅ましい思考など、すべて見透かしているような表情で。
「ふん、興醒めした」
男は前髪をかき上げながら、言い捨てた。
それこそ悪人の捨て台詞のような言い回しに高村は、男がこのまま立ち去ってくれるのではと、そんな淡い期待を抱いた。
わずかな沈黙。
「しかし――だ」
低く、鋭い声で、男は再び口を開く。
「契約が人間の言語によって行われる以上、解釈の相違は起こりえる。その場合は、魂を支払う者――つまりは人間の考えたロジックが優先される。それがルールだ。そのことを見抜いた上で、俺と契約を結び、都合よく俺のことを利用しやがった人間は、過去にも存在した。まあ小ざかしい奴だと、笑って看過してきたんだがな」
横たわる少女の姿を一瞥してから、男は言い放った。
「――今回は、例外だ。俺たちのロジックを優先させる」
男は自分の親指を噛み、鋭く引き抜いた。
ぴっ、と、指先から赤い血が弾け飛ぶ。
契約書を反対の手で掲げると、よどみない動作で。
血のついた指を、ヒカリと高村の血判の上に押し当てた。
ぞわっ、と――すべてを呑み込むような闇。
刹那に広がり消え去った。
ぱらり。
契約書が高村の近くに落ちた。
先程までとは異なり、血判の周りが、どす黒く染まっている。
「ひっ……」
不吉なものを覚え、高村は身震いした。
見れば、男の手にも同じ紙が存在している。
それはヒカリのときと同様、契約が成立したことを意味していた。
「な……何をしたんだ、お前は……」
怯える高村の問いにすぐには答えず、男は契約書の一部分を読み上げた。
「――乙は、乙の想い人に対し、一度に限り、乙に関する誤解を解いたのち、その想いを伝える機会を得る」
横目で睨むように高村を見ながら、言葉を続ける。
「お前とヒカリが、どんな話をした上で契約を結んだかは知らねえが、少なくともお前は『想い人』とはヒカリのことだと、そう解釈した。しかし――もちろん、別の『想い人』が、実際には存在しているわけだ」
男は高村の方に足を向ける。
契約書を掲げ、鋭い目で見下ろしながら、告げた。
「俺が何をしたか? はっ、どうということはない。この契約書通りに、改めてお前の願いを叶えてやっただけだ。ただし――ヒカリが信じていただろう解釈によってな」
「な、何だと……?」
「その『想い人』とやらに会わせてやる。今すぐ、この場所で、だ」
そこで会話は止まり、静寂。
しかし高村の耳には、確かに聞こえていた。
建物の外、暗闇の中を、遠くから。
ぼとっ、ぼとっ――と。
泥の塊を落とすような音が、何度も、何度も。
それは徐々に、徐々に、大きくなっているような……
高村は目を見開いた。
怯えるように、否定するかのように、声を張り上げる。
「嘘だっ! まず最初に確認したんだっ! 悪魔の力でもそれは不可能だと……っ!」
そう。
高村が、本当の、本当に、叶えたかった願い事。
それはできない、叶えられないことだと、明星ヒカリはそう言った。
だからこそ、それは諦めて。
その事実を、誰にも知られないこと。
そんな願い事を叶えてもらおうと。
少女との会話の中、虚実とりまぜ、必死で考えながら。
自分に都合の良い契約を結んでもらうよう、少女を誘導したのだ。
それなのに……
「ふん、やはりそうか」
男は高村を見下し、鼻で笑う。
思っていた通りだったかと、そんな表情を見せるも、そこに勝ち誇ったような雰囲気は一切なかった。
「ヒカリの奴がどう言ったかは知らねえが、絶対に不可能というわけでもない。しかしまあ、魂の一部しか代償としていないのであれば、それは」
不完全な形で、叶えられるかも知れねえな、と。
男の言葉に、高村の心臓は、激しく音を立て始めた。
背筋が冷たくなり、手足がガタガタと震えはじめる。
身体の痛みなど、とうに忘れている。
しかし、その痛みとは違った――別の痛みが高村に襲いかかっていた。
男は高村に背を向けて、パチンと指を鳴らした。
建物の反対側、閉ざされていた鉄扉が、ギギギィと、音を立てて開かれる。
外は闇。
――そこには、女性の影が映し出されていた。
長い髪。
両手をだらんと落とし、その表情をうかがうことはできない。
「ひ、ひ……ひぃ……」
高村が声にならない声をあげる中。
バチバチと、天井の灯りが音を立て始め――すっと、消えた。
建物の中は、闇に落ちる。
何も、見えない。
ぽた、ぽた……
液体がしたたり落ちる音。
「あ、あ……っ」
高村は闇の中、必死で立ち上がり、逃げようとした。
しかし足がもつれ、冷たい床の上、どすんと腹から倒れこむ。
苦痛にうめくも、足蹴にされ、力なく仰向けに転がった。
「――てめえの想い人だろう。てめえが優しく、迎えてやりな」
闇に響く、声。
その声の主が、去って行くのと入れ違いで。
ぺた、ぺた――
何かが、近づいてくるのがわかる。
はっ、はっ……と、絶望したような呼吸を続けながら、思わず目を強く閉じる。
嘘だ、嘘だ……あり得ない……
何度も首を振り、その光景を頭から消そうとした。
昨日――本当に偶然だった。
幼いころ、ふたりでよく遊んだ河原で、彼女と出会ったのは。
けれど彼女は、俺の言葉など聞いてくれる素振りも見せず。
あなたじゃない別の人と結婚する。
もう二度と会いたくない。
あなたのことなんて、忘れたい――と。
冷たく言い捨てた。
だから俺は、思わず――
音が止まった。
泥と、草と、彼女の匂い。
ぞわっとした感情。目を開かずにはいられなかった。
倒れた自分の顔を、闇の中、覗き込むように。
昔から、本当に大好きだった、その美しい顔に、表情はなく。
恨みと、悲しみのこもった声で。
ズット、マッテタンダヨ……
細い両腕が、自分の首元に伸びてくるのがわかった――
やがて。
言葉をなくした高村の上、倒れ込むように――
静寂。
暗がりの中、男は床に落ちていた紙を拾い上げた。
それはすぐに燃えあがる。
二枚の紙が炭となり、散っていった。
「――帰るぞ。ヒカリ」
少女の頬を軽く叩くも、目を覚ます様子はなかった。
「ったく……世話を焼かせる」
男は少女を抱きかかえる。
そのまま、ゆっくりと歩き、建物の外に出た。
ばさぁっ――と。
男の背に、コウモリのような大きな翼が広がる。
助走も付けず、そのまま飛び上がった。
高く、高く、夜風を切り、高速で空を舞う。
涼しい風を顔に浴びたせいか、少女は目を覚ました。
「はれ……お兄ちゃん……おはよう?」
寝ぼけ眼のまま、男の腕の中、夜空を見上げる。
「……お星さま、綺麗だね」
手を伸ばそうとする少女に、顔も向けず。
「馬鹿、落ちるぞ」
男は言った。
「え……」
顔を横に向ける。街の灯りが遥か下に見えていた。
「なるほど、夢か……寝よう」
すやすやと寝息を立て始めた少女に、男は呆れたように息を吐いた。
やがて見えてきたのは、華やかなネオンが瞬く都会の街。
高いビルが並ぶ場所、そのひとつ、少女たちが住む建物に。
悪魔の形をした影は、少女を抱えて、舞い降りていった。
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