6:“ ヒカリと、人間”
新宿駅から郊外へと向かう路線。
家には戻らず、制服のまま電車に乗り込んだヒカリは、いつになく気を張っていた。
慣れない夕方のラッシュに揉まれながら、意識を集中し続ける。
少し離れたところにいる男。その背中を決して見失わないように。
都心から離れるにつれて、車内から人が減る。
日は既に落ちていて、窓の外は真っ暗だった。
見つからないよう、ヒカリは隣の車両から様子をうかがい続ける。
やがて男が電車から降りる。そこは静かな駅。
近くにコンビニの灯りが見えるだけで、特徴的なものは見当たらない。
改札を出て、街灯の少ない暗い道を進んでいく男を、遠くから追いかける。
この道をずっと行くと、自然に囲まれた川があることを、ヒカリは知っていた。
なぜなら、ヒカリは昨日も、この場所に来ているから――
ほどなくして、男はその道から外れ、細い横道へと足を向けた。
雑木林に囲まれた、暗く、何もない道。
やがてたどり着いたのは、石と雑草でおおわれた広い空間だった。
月明りの下、目を凝らすと、向こうに体育館のような大きな建物が見える。
人の気配は一切なく、まるで廃墟のようなその建物の方へと、男は消えていった。
無我夢中で男を追っていたヒカリは、ここにきてようやく冷静になる。
「えっと、ここは……何か工場の跡地なのかな……?」
ヒカリは首を傾げる。
あの人は――高村先生は、どうしてこんな場所にやって来たのだろう。
てっきり家に帰るか、もしくは……想い人の女性の家にでも向かうのかと。
そう思っていたのに。
学校からずっと先生の後をつけてきたのは、妙な不安を感じたからで……
果たして本当に、先生の願い事が叶えられるのかどうか。
覗き見のようで悪いけれど、その場面はしっかりと見守らないといけない、と。
そんな気持ちをどうしても抑えることができなかった。
灯りが点けられたのか、建物は明るくなり、その輪郭を浮かばせた。
ギギィ――と、錆びついた音が響く。
ドアが開けられたのだろう。長方形の形に光が漏れる。
その中に人影。
「――入っておいで! 明星さんっ!」
そんな声が響いた。
「え……?」
思ってもなかったことに、ヒカリは息を呑む。
しばらく戸惑っていたものの、やがて覚悟を決めたように足を踏み出した。
開かれたままの大きな鉄扉の合間から、おそるおそる中に入る。
何もない広い空間。
床は一面のコンクリート。四方の高い場所には窓ガラスがつけられていて、壁際のあちこちに段ボール箱が積まれていた。
「――ここは親父がやってた会社の、工場だった建物でね」
建物の中央、入口から離れた場所で、高村が懐かしそうに周囲を見回していた。
「まあ、ご覧の通り、今はもう使われてなくて、倉庫みたいになってるけど」
ヒカリは入口付近に立ったまま、おどおどと、返す言葉に困っていた。
「悪魔は尾行が下手なんだね」
高村は言う。わざとらしく、笑いながら。
「学校からずっと、明星さんが俺の後をつけていたのはわかってたよ」
「先生……あの……」
「いいんだよ。俺のことが――というか、契約のことが気になったんだろ?」
「あ、はい……その、ごめんなさい……」
頭を下げた後、ヒカリは慌てた様子で建物の中を見回し始めた。
もしかしたら、例の女性がいるのではないかと、そう思ったから。
しかし建物の中に、高村以外の人がいる様子はなかった。
そんなヒカリの様子を眺めていた高村は。
「明星さん。俺さ、君にずっと言いたいことがあったんだ」
急に真面目な表情を作って。
「俺はずっと、君のことが好きだった」
そう言った。
「……え?」
何を言われたのか分からず、ぽかんと高村を見つめる。
「入学式のときに見かけて、可愛い子だなと思った。君のクラスの担当教員になれると良いなって、そんなことを思ったりもしたよ。まるで思春期の子供みたいにさ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
ようやく意味を理解し、ヒカリは慌てて声をあげた。
「そ……そんなこと……冗談はやめてください……」
「冗談じゃないさ。事実だよ。明星さん、おかしいとは思わなかったのかい? 君は俺の顔すら知らなかったのに、俺は君のことをフルネームで知っていたことをさ」
「……そういえば」
学校内で面識もなく、特に目立つ生徒というわけでもない。
河原で出会った時点で、そんな生徒の氏名を言い当てたのは、言われてみれば妙なことではあった。
「だから昨日、君が俺の前に現れたときは本当に驚いたよ。正直、運命なんて言葉を思い浮かべるくらいにはね。まあ、普通の人間じゃないと知ったときは、もっと驚いたけど……」
高村は優しい笑顔を見せる。
「そんなことはどうでもいいと思えるほど、君は良い子だった。俺の話をちゃんと聞いてくれて、悲しいことには泣いてくれて……俺なんかのために必死に悩み、考えてくれた――本当に可愛らしくて、魅力的な子だなって、俺は本気でそう思ってるよ」
「……っ」
恥ずかしさで声が出ない。
顔全体が炎で焼かれたかのように熱くなっている。
男の人にそんなことを言われたのは……生まれて初めてだった。
「だから明星さん――俺と、付き合ってくれないか?」
高村は真面目な顔でそう言った。
「……ま、待ってください」
緊張で震える喉から、何とか声を絞り出す。
「だ、だって、先生には、そ、その……想いを寄せた女性が……」
「さっき言っただろう。彼女のことはすっぱりと諦めるって」
「で、でも……」
「はっきりと返事をしてくれないかな、明星さん」
強く言う高村。
ほとんど間を空けず、ヒカリは無言のまま、首を横に振った。
「どうして? 今、彼氏がいるわけでもないんだろう?」
相変わらずの優しい笑顔を見せながら、高村は訊く。
「……か、彼氏なんていないですし、せ、先生のことが嫌いというわけじゃないんです。けど」
ヒカリは少しだけ目を閉じて、気持ちを整えてから言う。
「先生のことが好きな子はたくさんいます。それこそファンクラブがあるくらいに……それに例の女性だって、誤解さえなければ、きっと先生のことが好きだったはずです。だから、私である必要がないと……そう、思うんです」
言葉足らずなのは理解していたが、それは本心だった。
「そっか……ま、明星さんならそんな風に答えるだろうとは思ってたよ」
高村は表情を崩さない。落胆した様子もなかった。
「先生、その……ごめんなさい……」
「いや、気にしないで欲しい。でも、もう一つ、君に伝えたいことがあるんだ。今の返事をもらったからこそ、安心して言えることなんだけど。明星さん。実はね」
淡々と流れるように言う。
「――俺は『優しいヒト』なんかじゃない」
「……え?」
言葉の意味がわからず、ヒカリは困惑する。
「言い換えれば善人じゃないんだよ、俺はさ。だから明星さん。もし君が本気で俺のことをそんな風な人間だと思っているなら、それは間違いで――ただの誤解なんだよ」
「待ってください、先生……いったい、何の話を……」
「ああ、具体的な例を言わないとわからないよね。そうだね、例えば、ほら、さっき話をしただろ? 俺が女子生徒とベッドで横になってる写真があったって。写っているのは俺じゃないって、さっきはそう言ったんだけど、ごめん、それ嘘なんだ」
「……え」
「間違いなく俺が、その女子生徒と一緒にホテルに行ったときの写真だよ。まあ、それを彼女に送りつけられたのは、誤算だったけどね……ああそうだ、写真、見てみるかい? ここにあるんだけど」
言いながらスマートフォンを取り出す高村。
「い、いえ、結構です……! そんなもの見たくありませんっ!」
静寂。虫の音だけが響いてくる。
混乱する中、何とか冷静に話を整理しようとするも、動悸が止まらない。
黒色と灰色の塗料を水で溶かしたような漠然とした気持ちが、頭の中で渦を巻く。
拳をぎゅうっと握りしめながら、苦しそうな声でヒカリは訊く。
「どうして……先生はあれだけ強く、あの女性のことを想っていたのに……ひょっとして、さっきの話は……ぜんぶ嘘だったんですか……?」
「いやいや、写真以外のことは真実だよ。俺が幼い頃から、彼女に想いを寄せていたことも含めてね」
悪びれる様子もなく、高村は言う。
「けど、そう……俺は、恋というものについて、一途じゃないだけなんだよ。でもこの写真の女子生徒とは身体だけの関係とでもいうのかな。恋愛感情は一切ない。俺が心から愛していたのは、彼女と……明星さん、君だけだよ」
「そんな……」
膝から崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。
嘘をつかれて、裏切られて、怒っているのか、悲しいのか。
そういった気持ちすら色を失い、心が空っぽになってしまったような。
そんな感じだった。
うつむき加減の少女を見ながら、高村は優しい笑顔を見せる。
やがて、少女の方に向かって、ゆっくりと足を進めた。
たたたっ――と、一瞬のことだった。
ヒカリの右肩を軽く押さえたかと思うと、彼女の細い腕をつかみあげ、背に回す。
「えっ……」
何が起きたのか理解する間もなく、ヒカリの両腕は後ろ手に縛りあげられていた。
「わっ……わっ……」
右手も左手も、背中に張りつけられてしまったように、動かせない。
ヒカリは取り乱しながら、何度も身体をひねり、自分の背中を確認しようとする。
ギギギィ――ッ。
ヒカリの背後、入口の大きな鉄扉が閉められた。
はっと、振り返ってそちらを見る。
扉を閉めたのは高村。
響いていた虫の音は小さくなり、外からの空気の流れが止まる。
周囲に何もない建物の中。
男女、二人きりだと――ヒカリは今更ながら強く意識した。
突然、つかつかと早足で歩いてきた高村に、ひじの辺りを強く握られる。
「痛っ! あ、ちょ、ちょっと……先生……っ!」
そのまま高村は歩みを止めず、ヒカリは腕を握られたまま、無理やり歩かされる。
建物の中、反対側の壁近くまで移動したところで、高村は手を離した。
バランスを崩したヒカリは、その場に尻餅をついてしまう。
「な、何をするんですかっ! せん……」
男の顔を見上げ、言葉が止まる。
その表情に血の気が引いた。
「一応、確認しておくよ。明星さん」
男は言う。
「俺はずっと君のことが好きだった。一途な恋じゃなかったとしても、それは事実だ。だから君が、俺の想い人と呼べる相手であることは、紛れもない事実なんだよ」
「あ……う……」
背筋が一気に冷たくなる。
怖い、怖い……今すぐ逃げないと、何をされるかわからない――
立ち上がりたくても、手が自由に動かせない。
手首の感触から察するに、恐らくヒモのようなもので縛られているのだろう。
普通の力じゃほどけない、なら……
ヒカリは座ったまま、息を吐く。
目を閉じ、集中して。
手首に巻きついたものが燃え上がるのをイメージして……
「おっと、それはダメだよ」
高村がヒカリの肩を軽く小突いた。
「わ、わっ……」
急な衝撃にヒカリはよろめき、後ろ向きに倒れてしまう。
背中が冷たい地面に触れる。
直後、高村は。
ドスッ――!
ボールでも蹴るかのように、ヒカリの脇腹を強く蹴りあげた。
ヒカリは大きく目を見開く。
「――あ」
時間が止まったかのような感覚の後、激痛が襲いかかる。
うあ、あっ……と、言葉にならない苦悶の声と、胃液が口から溢れ出ていた。
身体を小刻みに震わせ、悶絶する少女を見下ろしながら。
「俺のことを燃やそうとしたのかい? そんなことしちゃダメだよ。危ないなあ」
暴力を振るったことなど、気に留めない様子でそう言った。
ヒカリは痛みに耐えきれず、コンクリートの上で転げまわる。
「さて、明星さん。最後に――」
穏やかな表情のまま。
「俺の想いを伝えたいんだけど、聞いてくれるかな?」
制服の胸リボンをつかみあげた。
虚ろな目。はあ、はあ、と呼吸を荒くする少女の頬を、ぱん、と叩いた。
痛みと恐怖で動けなくなるヒカリ。
「俺はこれ以上、明星さんに暴力を振るいたくない。それが――俺の想いだよ。もちろん、信じてくれるよね?」
優しい笑い顔を作りながら、高村は言う。
静寂。虫の音すら聞こえない。
「明星さん――返事は?」
低い声。感情のない冷たい瞳。
ヒカリは、涙をぽろぽろと流しながら。
反射的に。
はい……
そう答えていた。
刹那、頭の神経が、ぷちっと、音を立てて切れてしまったかのように。
「あ、あ……っ!」
ぐわんぐわんと、視界が揺れる。
端から端まで、火花が舞っている。
音が飛び、色が散り、すべてが白黒に染まったかと思うと。
ぱんっ――と。
弾けたような音を立てて、何かが消え去った――