4:“ ヒカリと、難しい規則”
高村はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
少し操作をしてから、その画面をヒカリに見せる。
とても綺麗で、おしとやかそうな女性の写真が映っていた。
「――彼女は幼馴染とでも言うのかな。付き合っていたわけじゃないんだけど、たまにデートの真似事くらいはしてたかな。良家の子でね。身持ちが硬いというか、お付き合いする相手は選びなさいって、厳しくしつけられているような子だったんだ」
昔を懐かしむような口調で話を始める。
「対して俺は、まあ普通の家に生まれて、片親で……頭も良くはなかった。彼女に対してずっと、引け目のようなものを感じていたのは確かなんだ。けど何とか頑張って、こうやって高校の先生になって、皆にしたわれるようになって……自分に自信もついてきた。だから遅まきながら勇気を出して……彼女に告白しようと決めたんだ」
良い大人が子供みたいだよね、と、笑う。
話を聴きながら、ヒカリは気付いていた。
先生は、その女性のことを「彼女」と言っているけれど、意識的に名前を呼ぶことを避けている。それは、彼女の名前を呼ぶことで、先生の中に何らかの感情が込みあげてしまうのを恐れているような――そんな感じだった。
「まあ、告白というか、年齢的にプロポーズかな……その結果、振られてしまったとしても仕方がない。けど、想いを告げるだけならバチは当たらないだろうと、そんな風な軽い気持ちだったんだ。そのときは、ね」
そこで息を吐く。重く辛い感情を表すように。
「ところで、さっきも少し言ったけど……俺、女子生徒に人気があるんだよ」
「え」
「自分で言うなってのは、その通りなんだけど。ほら、女子高に若い男がいるってだけで、不相応にモテるようになるっていうのは事実で……わかってくれるかな……?」
「あ、はい……そ、その、よく存じてましたっ……!」
妙に焦った様子のヒカリを見て、何かを察したように高村は苦笑する。
「それでさ、まあ好きになってくれる子がいるのは、もちろん嬉しいことなんだけど、その中に何というか……あまり『よくない』子がいてね。一体どうやって調べたのか、俺が想いを寄せる女性の存在を知って……彼女に送りつけたんだ。色々と誤解されるような写真をね」
「誤解されるような、写真?」
「その子が学校で俺の腕に抱きついている写真とか、休日に偶然会ったときに一緒に撮った写真とかね。これには俺にも覚えがあったんだけど……それと合わせて、その子が俺と一緒にベッドで横になってる写真があったんだ。ふたりとも裸の写真がさ」
「え……」
「もちろんそれは俺じゃない。恐らく俺と良く似た男と一緒に撮った写真を、パソコンで修正したんだろうけど……その執念には恐怖を覚えたよ。俺のことを好きだって気持ちが、どうしてそんな行動に繋がっちゃうんだろうって、さ」
ばかばかしいといった風に、首を横に振った。
「それが原因で彼女とケンカして……散々だったよ。まあ俺も良くなかったんだ。つい怒鳴っちゃったりしてね。その後は電話しても通じないし、家に行っても会ってくれない。警察まで呼ばれちゃってさ……」
ふうと息を吐いてから、窓の外、遠くの空を見るような目つきで。
「昨日、人づてに、聞いたんだ。彼女が、他の男と結婚するってことを」
そう吐き捨てた。
「先生……」
「失って初めて気付くというのは、こういうことなんだろうな。そう、彼女はまさに、俺の魂というべき存在だったんだよ。それに……ひょっとしたら彼女は長い間、俺が想いを告白するのを、ずっと待っていてくれたのかも知れない……そんな不毛な考えが、ずっと頭から離れないんだ……」
こらえきれないように、高村は両手で自分の顔をおおう。
いつの間にかヒカリの目は、涙でうるんでいた。
「だから、両想い……とは言わない。けどせめて、もう一度だけ顔を合わせて、きちんと想いを伝えるくらいは……」
嘆くようなその言葉に。
「――その願い事なら、叶えられるかも知れません」
ヒカリはそう告げた。
「え……」
「そう。魂のすべてを引き換えにしなくても――」
高村は顔をあげる。
ヒカリはハンカチで自分の目をぬぐった後、しっかりとした声で言った。
「先生がその女性と会って誤解を解く。そして先生の想いを伝える――これは、普通に、やろうと思えばできることですよね?」
「いや、でも……」
「できる、というのは人の手で実現可能かどうか、ということであって、先生の事情を踏まえた上で現実的に実行できるかどうか、ということではありません。ですが」
なんとかうまく立ち回れば、超常的な力を用いずとも解決できることではある。
その程度の願い事の場合、魂のすべてを代償としなくても……
「魂の一部を引き換えにした、そんな契約を結ぶこともできるんです」
「え……それは……」
高村は首を傾げる。
「魂の、一部……? 何となく『ヴェニスの商人』を思い出したんだけど……」
「心臓の肉を1ポンド、ですか? 近からず遠からずのような……あ、いえ、それはさておき……私、今まで、そんな契約は結んだことがなかったりするんですけど――」
実際、そんな契約どころか、どんな契約もまだ結んだことがないのだけど。
それは黙っておくとして……
お兄ちゃんが何回か、そんな契約をしていたことを思い出す。
そのとき、お兄ちゃんは。
魂の一部を代償にするということは、その後の人生に制約を受けることだ、と。
確かそんなことを言っていた。
さっき先生が言っていたように、魂とは人生そのものなのだと。
そう考えれば辻褄はあう。
その制約について、お兄ちゃんが言っていたことは、確か……
願い事は、人間でも解決可能な、永続的ではないことがらに限る。
それは最初の一度に限り必ず叶えられるが。
その後は、生涯を通じて、それを実現する一切の機会を失う。
と、いう感じだったはず。
つまり、1回目は必ずうまくいくけれど、2回目以降は失敗するどころか、そもそもそのチャンスに巡り合うことすらなくなる、と――そんな、制約。
その制約を相手に明示した上で契約を結ぶこと。
それが『魂の一部』を代償とした契約……なのだけど。
お兄ちゃんは、手間のわりに『旨み』がない契約だからやめておけと、そんなことを言っていた気もする……
けど、それは忘れよう。うん。
契約が美味しかったり、不味かったりするとどうなるのか、私にはわからないし。
ちゃんとわかりやすく教えてくれない、お兄ちゃんが悪いっ!
ということで、高村先生のケースを考える。
想いを寄せる女性と会って、誤解を解いた後、自分の想いを伝えたい。
このうち、誤解を解くことと、想いを伝えることは、先生自身の行動であるから。
その女性と会いたい、という部分が、願い事の肝となる部分だろう。
ということは、ええと……つまり。
「願いが叶った後、先生は二度と、その女性と会えなくなる……?」
言ってから、ヒカリは慌てて首を横に振った。
それは、会いにいかない、といった意思の問題ではなく。
何をどうやっても、ふたりは死ぬまで会うことができなくなるという……
悪魔の力による、そんな制約なのだから。
「ごめんなさい。やっぱりやめましょう……こんな制約を負うくらいなら、願いなんて叶えないほうが……」
「いや、そんな制約を負っても、願いが叶うというなら――契約するよ」
高村は抑揚のない声でそう言った。
「えっ……?」
「彼女と会えないのは、今でも同じことだしね。俺がそれこそ死ぬほど後悔しているのは、彼女に想いを告げられなかったことだけだから」
「で、でも……」
「それに……彼女はもう他の男と婚約してるんだ。残念だけど、彼女が幸せになるに越したことはないからさ……ええと、それでこの後はどうすればいいのかな」
急くような感じで、高村は訊く。
「あ、えっと……契約書が必要で……特に形式は決まってないんですけど……」
「なるほど、契約書か。丁度よかった」
まごつくヒカリを尻目に、高村は立ち上がる。そして教室の後ろに置かれていた小さな収納ケースから、紙と筆記用具を取り出して戻ってきた。
「明星さんとの話を書き留めておきたかったんだ。気持ちの整理にもなるし。折角だし、そのまま契約書になるような書き方をしてみようか。えっと、文面は俺が決めてもいいのかな?」
「あ、はい」
「親父の家が商売をやってたからさ。色んな契約書を見る機会も多かったんだよ」
言いながら、机の上に紙を置き、すらすらと鉛筆を走らせる。
そこに書かれる文章を、ヒカリは正面から、興味深く眺めていた。