表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

3:“ ヒカリと、優しい先生”

 ただ呆然とするしかなかった。

 昨日の夕方、少女に見せつけられた光景。

 とても現実とは思えず、正直、今の今まで夢うつつのような状態だった。

 少女の言動を思い出すたび、ある存在を表す言葉が頭をよぎり。

 そして、今、目の前で、少女はその言葉を口にした。


 悪魔という言葉を。


 高村は大きく息を吐く。

 黒い髪、幼い顔つきの可愛らしい女子生徒。

 もし昨日の光景を見ていなければ。


 私は悪魔です。あなたの願いを叶えますよ。


 ――などと、そんなことを言われたところで。

 何を子供じみた馬鹿げたことを、と、鼻で笑っていたに違いない。

 なるほど、この子の外見であれば、初手はアレが最適だったのだろうと。

 変なところに感心してしまっていた。

「ええと、明星さん」

 緊張感もなく平坦な声で、高村は訊く。

 ふたりきりの教室。午後の陽光は再び明るさを増してきている。

 先程、わずかに感じた恐怖心は当然のように払拭されていた。

 それほどに、この少女は――明星ヒカリは、穏やかで、弱々しく。

 言うなれば、つい守ってあげたくなる、そんな気持ちを感じさせる子だった。

「人間の魂を奪い取るということは、つまり願い事が叶った時点で、その人が死んじゃうということなのかな? それは流石に意味がないと思うけど」

「はい、違います。願いの代償となるのはその人の、死後の魂ですから」

「死後の、魂……?」

「ええ、ですから、その人が生きている間には何も起きません。寿命が縮むとか、私がその人を殺そうとするとか、そういうこともないんです」

 慣れていないのか、ヒカリは少し機械的な口調で説明する。

「じゃあ……その人間が死んだ後、魂を奪われると……何がどうなるんだい?」

「わかりません」

「……え?」

「私はその人間と契約を結ぶだけ。その後どうなるか、私にはわからないんです」

 それは嘘ではなく、ヒカリは本当に知らなかった。

「え……じゃ、じゃあ、君は……一体、何を目的として、そんなことを……」

 ヒカリは、その質問には答えられませんとばかりに、首を横に振った。

 

 裕福になりすぎた時代。一方で不幸な生活を送る人間もあふれている。

 そんな世界において、人間たちの欲望のバランスを取ること。

 それが――俺の役目だと。

 初めて出会ったとき、お兄ちゃんはそんなことを言っていた。

 実際には、もっと色々なことを聞いてはいるのだけれど。

 どれも抽象的すぎてよくわからないというのが、本当のところだったりする。

 ただ、それがお兄ちゃんの役目であるなら――妹である私の役目でもあるのだと。

 そんな責任感のような気持ちは、自分の中で当然のように受け入れていた。

 でも、やっぱり、今回だけは――

 

「ええと……高村先生」

 わずかに困り顔を浮かべていたヒカリは、真面目な表情を作って言う。

「死後の魂を奪い取られるということが、どういうことなのか。憶測でよければお答えします」

 高村は小さく頷いた。

「死後の世界。そんなものが存在するかどうかは、私にもわかりません。けれど、宗教や昔話の関係か、特に日本人であれば誰もが、少なからず死後の世界というもののイメージを持っていると思います」

「うん。天国には天使がいて、地獄には閻魔様がいる……なんかごちゃ混ぜのイメージだけど、俺ならそんなことを思い浮かべるかな」

「そうですね。善行を積めば天国に、悪行を行えば地獄に。死んだ後に天国へ行きたいと神に祈る人もいる。そして些細な罪を犯しても、神に祈れば救われる――」

 ヒカリは高村の目を見つめながら、しっかりと言葉を紡いだ。

「死後の魂を奪われるということは、すなわち、自分の死後にそのような救いが一切ないと、そう宣言されるのと同じなんだと思います」

「救いが、ない……」

 神への冒涜、という言葉が思い浮かんだ。

 神を称えれば天国に、冒涜すれば地獄に。

 神など信じぬ者も、困ったときは神頼みくらいするだろう。

 ――そういった単なる宗教観と異なるのは。

 現実として、その人間の願い事が叶えられてしまっているということ。

 それも神に敵対するといわれている、悪魔の手によって。


 その人間は、願いが叶って、十分に人生を楽しんだ後、一体何を思うのか……


 高村は口元に手を当て、ヒカリの言葉について考えをめぐらせている様子だった。

 その姿を見てヒカリは、ひとり満足げにうなずく。


 そう、ここまで説明すれば大半の人は――少なくとも賢い人は、考える。

 その結果、魂と引き換えに願いを叶えてもらおうなどとは、思わなくなるだろう。

 私は今まで、何度も――お兄ちゃんが人間と契約するところを見ているけれど。

 お兄ちゃんは、今、私がしたような「死後の魂」の説明をほとんどしなかった。

 それは恐らく意図的なことだと思う。


 借金に追われ、切羽つまっていた者。

 叶わぬ相手に恋い焦がれ、自死まで思いつめていた者。

 学問に悩む者、職を失った者、あるいは単に己の欲望を満たしたいと願う者。

 そういった人たちを、お兄ちゃんはまさに言葉巧みにそそのかし。

 契約を、結んだ。

 結果、彼らは困難を回避し、あるいは想いを遂げ、快楽を味わった。


 そして――悩んだ。


 自分の死後、魂を奪われるというのは、一体どういうことなのだろうと。

 それこそ長い歴史の中、神について考えた者たちと、同じくらい真摯な気持ちで。

 けれど、その問いに答えてくれる相手は、どこにもいない。

 死後の世界なんて存在するわけがないと強がっても、不安が心を埋めつくす。

 その感情は死に近づくほど、限りなく増長し、やがて恐怖に変わる。

 お兄ちゃんと契約を結んでしまった人たちは、きっと今でも生きながらにして……


 だからこれで良かったのだと、ヒカリは、ほっとしていた。

 高村先生はちゃんと考えてくれている。

 もしこの後、私の代わりにお兄ちゃんがやってきたとしても、魂と引き換えの契約なんて結ぶことはしないだろう。

 けどそれはお兄ちゃんの、そして私の役目が果たせないことを意味する。

 でもやっぱり、身近な人が苦しむことになるのはイヤだから――

 自分勝手ではあるけど、今回だけはお兄ちゃんに謝って許してもらおう、うん。

 

「なるほど、魂とは、まさに人生そのものを意味するのか……」

 高村は呟くように言う。

「人間が人間であることを享受して、精一杯生きること……それが契約によって失われる……そういうことなのかな」

「解釈はお任せします。まあ……私自身、わからないことなので」

 ヒカリは軽く笑いながら、そんな言葉を返した。

 うんうん。終わりよければ何とやら。

 昨日から、作戦なしでノープラン、その場しのぎで頑張ってきたけど。

 何とかうまくできたじゃんっ……! 

 などと、できることなら美佳に自慢したいくらい。

 珍しく自信にあふれた気持ちになっていた。

「それで、明星さん。本題なのだけど」

 高村は言う。


「俺と契約を結んで、願い事を叶えてくれないかな」


 一瞬。

 何を言われたのか理解できなかった。

 ほんのりと温かくなっていた胸が、すうっとハッカ油でも吸いこんだように冷たくなる。ただ口を丸く開け、ぼんやりと見つめるしかなかった。

 少女が返す言葉を失っていることに気付きながらも、高村は続ける。


「ある女性と両想いになりたい。そんな願い事を叶えてもらうことはできるのかな」


 ヒカリは目を閉じる。

 唇を噛みしめ、浮かれていた自分に猛省する。

 とにかく冷静に、心の感情を消し去るようにしてから――目を開いた。

「可能です。自分の想いを遂げるために、他人の気持ちをねじ曲げるなど、実に些末なことです。何といっても、己の魂を代償にするのですから」

 明らかに毒のあるその言い回しに、ヒカリ自身が驚いていた。

「けれど、先生に罪悪感という感情があるのであれば、お勧めは、しません」

 そんなことを言うべき立場でないことは、わかっているはずなのに。

「そうだよね……」

 ひどく落胆したその声に、ヒカリは、はっと我に返る。

「あ、そ、その……ごめんなさい、わ、私……」

「ねえ、明星さん、ひとつ確認なのだけど」

 急に軽い口調で。

「一般的に契約というものは、内容についてお互いが認め合わない限り、成立しないものだけど……俺の願い事を、明星さんが認めない、ということもあり得るのかな」

「…………」

 答えられなかった。

 高村は両腕をぶらりと落とし天井を見上げると、ははっと、自嘲気味に笑った。

 己の欲望を、まさか悪魔に(いまし)められるなんて、何と哀れな話だろうと。

 そんな表情を浮かべながら。

「先生、その……すいません」

 再び謝るヒカリに対して、高村は優しい表情を見せた。

 窓の外で歓声のような声が響く。

 運動部への応援だろうか。ここが学校であることを改めて意識させた。

「いや……そうだね。まあ、言い訳をするわけじゃないんだけどさ」

 高村は椅子の上で足を組み直す。

 そして少しうつむき加減で、ヒカリの顔を上目遣いで見つめながら、言った。

「ただ一方的に、好きな女性を振り向かせたいというわけじゃない。理由があるんだよ。すごくやるせない理由が、さ……」

 ふう、と、重い息を吐く。

「まあ生徒に話すことじゃないとは思うけど……これも何かの因果だろうし、明星さん、俺の話を聞いてくれないかな。こんなこと愚痴れる相手もいなくてさ……」


 思い出したのは、山奥でひとり、たたずんでいた高村の姿。

 ヒカリは戸惑いを覚えながらも、こくんと小さくうなずいていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ