3:“ ヒカリと、優しい先生”
ただ呆然とするしかなかった。
昨日の夕方、少女に見せつけられた光景。
とても現実とは思えず、正直、今の今まで夢うつつのような状態だった。
少女の言動を思い出すたび、ある存在を表す言葉が頭をよぎり。
そして、今、目の前で、少女はその言葉を口にした。
悪魔という言葉を。
高村は大きく息を吐く。
黒い髪、幼い顔つきの可愛らしい女子生徒。
もし昨日の光景を見ていなければ。
私は悪魔です。あなたの願いを叶えますよ。
――などと、そんなことを言われたところで。
何を子供じみた馬鹿げたことを、と、鼻で笑っていたに違いない。
なるほど、この子の外見であれば、初手はアレが最適だったのだろうと。
変なところに感心してしまっていた。
「ええと、明星さん」
緊張感もなく平坦な声で、高村は訊く。
ふたりきりの教室。午後の陽光は再び明るさを増してきている。
先程、わずかに感じた恐怖心は当然のように払拭されていた。
それほどに、この少女は――明星ヒカリは、穏やかで、弱々しく。
言うなれば、つい守ってあげたくなる、そんな気持ちを感じさせる子だった。
「人間の魂を奪い取るということは、つまり願い事が叶った時点で、その人が死んじゃうということなのかな? それは流石に意味がないと思うけど」
「はい、違います。願いの代償となるのはその人の、死後の魂ですから」
「死後の、魂……?」
「ええ、ですから、その人が生きている間には何も起きません。寿命が縮むとか、私がその人を殺そうとするとか、そういうこともないんです」
慣れていないのか、ヒカリは少し機械的な口調で説明する。
「じゃあ……その人間が死んだ後、魂を奪われると……何がどうなるんだい?」
「わかりません」
「……え?」
「私はその人間と契約を結ぶだけ。その後どうなるか、私にはわからないんです」
それは嘘ではなく、ヒカリは本当に知らなかった。
「え……じゃ、じゃあ、君は……一体、何を目的として、そんなことを……」
ヒカリは、その質問には答えられませんとばかりに、首を横に振った。
裕福になりすぎた時代。一方で不幸な生活を送る人間もあふれている。
そんな世界において、人間たちの欲望のバランスを取ること。
それが――俺の役目だと。
初めて出会ったとき、お兄ちゃんはそんなことを言っていた。
実際には、もっと色々なことを聞いてはいるのだけれど。
どれも抽象的すぎてよくわからないというのが、本当のところだったりする。
ただ、それがお兄ちゃんの役目であるなら――妹である私の役目でもあるのだと。
そんな責任感のような気持ちは、自分の中で当然のように受け入れていた。
でも、やっぱり、今回だけは――
「ええと……高村先生」
わずかに困り顔を浮かべていたヒカリは、真面目な表情を作って言う。
「死後の魂を奪い取られるということが、どういうことなのか。憶測でよければお答えします」
高村は小さく頷いた。
「死後の世界。そんなものが存在するかどうかは、私にもわかりません。けれど、宗教や昔話の関係か、特に日本人であれば誰もが、少なからず死後の世界というもののイメージを持っていると思います」
「うん。天国には天使がいて、地獄には閻魔様がいる……なんかごちゃ混ぜのイメージだけど、俺ならそんなことを思い浮かべるかな」
「そうですね。善行を積めば天国に、悪行を行えば地獄に。死んだ後に天国へ行きたいと神に祈る人もいる。そして些細な罪を犯しても、神に祈れば救われる――」
ヒカリは高村の目を見つめながら、しっかりと言葉を紡いだ。
「死後の魂を奪われるということは、すなわち、自分の死後にそのような救いが一切ないと、そう宣言されるのと同じなんだと思います」
「救いが、ない……」
神への冒涜、という言葉が思い浮かんだ。
神を称えれば天国に、冒涜すれば地獄に。
神など信じぬ者も、困ったときは神頼みくらいするだろう。
――そういった単なる宗教観と異なるのは。
現実として、その人間の願い事が叶えられてしまっているということ。
それも神に敵対するといわれている、悪魔の手によって。
その人間は、願いが叶って、十分に人生を楽しんだ後、一体何を思うのか……
高村は口元に手を当て、ヒカリの言葉について考えをめぐらせている様子だった。
その姿を見てヒカリは、ひとり満足げにうなずく。
そう、ここまで説明すれば大半の人は――少なくとも賢い人は、考える。
その結果、魂と引き換えに願いを叶えてもらおうなどとは、思わなくなるだろう。
私は今まで、何度も――お兄ちゃんが人間と契約するところを見ているけれど。
お兄ちゃんは、今、私がしたような「死後の魂」の説明をほとんどしなかった。
それは恐らく意図的なことだと思う。
借金に追われ、切羽つまっていた者。
叶わぬ相手に恋い焦がれ、自死まで思いつめていた者。
学問に悩む者、職を失った者、あるいは単に己の欲望を満たしたいと願う者。
そういった人たちを、お兄ちゃんはまさに言葉巧みにそそのかし。
契約を、結んだ。
結果、彼らは困難を回避し、あるいは想いを遂げ、快楽を味わった。
そして――悩んだ。
自分の死後、魂を奪われるというのは、一体どういうことなのだろうと。
それこそ長い歴史の中、神について考えた者たちと、同じくらい真摯な気持ちで。
けれど、その問いに答えてくれる相手は、どこにもいない。
死後の世界なんて存在するわけがないと強がっても、不安が心を埋めつくす。
その感情は死に近づくほど、限りなく増長し、やがて恐怖に変わる。
お兄ちゃんと契約を結んでしまった人たちは、きっと今でも生きながらにして……
だからこれで良かったのだと、ヒカリは、ほっとしていた。
高村先生はちゃんと考えてくれている。
もしこの後、私の代わりにお兄ちゃんがやってきたとしても、魂と引き換えの契約なんて結ぶことはしないだろう。
けどそれはお兄ちゃんの、そして私の役目が果たせないことを意味する。
でもやっぱり、身近な人が苦しむことになるのはイヤだから――
自分勝手ではあるけど、今回だけはお兄ちゃんに謝って許してもらおう、うん。
「なるほど、魂とは、まさに人生そのものを意味するのか……」
高村は呟くように言う。
「人間が人間であることを享受して、精一杯生きること……それが契約によって失われる……そういうことなのかな」
「解釈はお任せします。まあ……私自身、わからないことなので」
ヒカリは軽く笑いながら、そんな言葉を返した。
うんうん。終わりよければ何とやら。
昨日から、作戦なしでノープラン、その場しのぎで頑張ってきたけど。
何とかうまくできたじゃんっ……!
などと、できることなら美佳に自慢したいくらい。
珍しく自信にあふれた気持ちになっていた。
「それで、明星さん。本題なのだけど」
高村は言う。
「俺と契約を結んで、願い事を叶えてくれないかな」
一瞬。
何を言われたのか理解できなかった。
ほんのりと温かくなっていた胸が、すうっとハッカ油でも吸いこんだように冷たくなる。ただ口を丸く開け、ぼんやりと見つめるしかなかった。
少女が返す言葉を失っていることに気付きながらも、高村は続ける。
「ある女性と両想いになりたい。そんな願い事を叶えてもらうことはできるのかな」
ヒカリは目を閉じる。
唇を噛みしめ、浮かれていた自分に猛省する。
とにかく冷静に、心の感情を消し去るようにしてから――目を開いた。
「可能です。自分の想いを遂げるために、他人の気持ちをねじ曲げるなど、実に些末なことです。何といっても、己の魂を代償にするのですから」
明らかに毒のあるその言い回しに、ヒカリ自身が驚いていた。
「けれど、先生に罪悪感という感情があるのであれば、お勧めは、しません」
そんなことを言うべき立場でないことは、わかっているはずなのに。
「そうだよね……」
ひどく落胆したその声に、ヒカリは、はっと我に返る。
「あ、そ、その……ごめんなさい、わ、私……」
「ねえ、明星さん、ひとつ確認なのだけど」
急に軽い口調で。
「一般的に契約というものは、内容についてお互いが認め合わない限り、成立しないものだけど……俺の願い事を、明星さんが認めない、ということもあり得るのかな」
「…………」
答えられなかった。
高村は両腕をぶらりと落とし天井を見上げると、ははっと、自嘲気味に笑った。
己の欲望を、まさか悪魔に戒められるなんて、何と哀れな話だろうと。
そんな表情を浮かべながら。
「先生、その……すいません」
再び謝るヒカリに対して、高村は優しい表情を見せた。
窓の外で歓声のような声が響く。
運動部への応援だろうか。ここが学校であることを改めて意識させた。
「いや……そうだね。まあ、言い訳をするわけじゃないんだけどさ」
高村は椅子の上で足を組み直す。
そして少しうつむき加減で、ヒカリの顔を上目遣いで見つめながら、言った。
「ただ一方的に、好きな女性を振り向かせたいというわけじゃない。理由があるんだよ。すごくやるせない理由が、さ……」
ふう、と、重い息を吐く。
「まあ生徒に話すことじゃないとは思うけど……これも何かの因果だろうし、明星さん、俺の話を聞いてくれないかな。こんなこと愚痴れる相手もいなくてさ……」
思い出したのは、山奥でひとり、たたずんでいた高村の姿。
ヒカリは戸惑いを覚えながらも、こくんと小さくうなずいていた。