1:“ ヒカリと、怖いお兄ちゃん”
新宿区、超高層タワーマンション。
夜の遅い時間、煌々と照らされる1階エントランスに少女がひとり。
やがてやってきた高層階行きエレベータに乗り込んだ。
「はあ……」
エレベータの中、深く溜息をつくのは、白いワンピースを着た明星ヒカリ。
落ち込んでいるのは、彼女が手にしている安っぽいスーパーマーケットの袋が、豪華絢爛なこのマンションの内装と不釣り合いだと感じているから、ではない。
自分のことを知っている人を、契約の相手として選ばないよう、わざわざ遠出したにもかかわらず。
まさか、あんな山の中で、自分の通っている高校の先生と遭遇するとは……
「う、うううぅ……」
エレベータを降りたところで、耐えきれなくなり、頭を抱えてうずくまる。
言われてみれば確かに学校で見た覚えのある顔だった。普段着姿だったから、その印象が結びつかなかっただけで、ちゃんと観察しておけば気付けたことだろう。
それに……
「う、うあああ……」
先生の前で自分がしてしまったことを思い出すと、顔が急激に熱くなる。
それこそ火でも噴き出してしまいそうなほどに。
普段は弱気で、内気で、人見知りであるくせに。
ちょっとしたことで、ついムキになってしまったり、調子に乗ったりしやすい性格なのは、自覚してるのだけど……
「あー、もう! 私のばか、ばかばかばかっ!」
エレベータの前、ヒカリはぺたりと座り込んで、大声を張り上げる。
そのまま子供のように、両手をぱたぱたと振り回し続けた。
ちなみに、この奇行をマンションの他の住人に見られることはない。
最上階であるこのフロアには、部屋が1つしかなく。
それが、ヒカリの住む部屋だからである。
わめき疲れ、少しは気が晴れたところで。
袋に冷凍食品が入っていたことを思い出し、慌てて立ちあがった。
ドアノブに手をかける。カギはかけられていなかった。
「ただいま……」
玄関を抜ける間もなく、そこは1つの広い部屋になっている。
コンクリート打ちっぱなしの壁、黒色で揃えられた家具、一面のガラス窓。
隠れ家的でいかにもカッコよさげなのだけれど、いまいちその良さがわからない。
けれど、ベランダから一望できる、色鮮やかな光が舞う夜の景色は大好きだった。
部屋の一角、備え付けられたキッチンにヒカリは足を向ける。
大きな冷蔵庫を開けようとした間際、手にしたビニール袋を奪われた。
「あ」
ヒカリよりだいぶ背が高い、鋭い目付きの男。
ビニール袋に手を突っ込み、中に入った食材をあさり始める。
「えっと、今日は牛肉とキノコの炒め物を作るつもりなんだけど……」
「このままで良い。腹が減っている」
男は袋から切り落としの牛肉が入った容器を取り出すと、ヒカリのそばを離れる。
薄暗い部屋、大型テレビの前にあるソファーに向かいながら、ビニールのラップを剥がし、肉の1枚を指でつまんだ。
その指の周りがわずかに赤く染まったかと思うと。
じゅうっ――と、香ばしい匂いが広がった。
男はソファーに身体を投げ出し、どすんと、深く腰をかけると、綺麗に焼き色のついたその牛肉を口に放り込んだ。
くちゃくちゃと頬張り、無表情でテレビを見ながら、近くの酒瓶を手にとる。
直接口をつけ、酒を喉に流し込むと、逆の手で牛肉をつまみあげた。
刹那の間で焼きあがった肉を頬張り、そして再び酒を飲む――
その繰り返しをしばらくぼんやりと、眺めていたヒカリ。
突然、はっと何かに気付いたように。
「ええと、いつも言ってることだけど……」
なぜか恥ずかしそうに頬を染め、わずかに目をそらしながら。
「家にいるときでも、パンツくらい、はきなさい――お兄ちゃん」
そう言った。
「あ?」
不満そうな声をあげる、ヒカリの兄。
それでもヒカリが目を戻すまでのわずかな間で、シャツとハーフパンツというラフな服を身にまとっていた。ソファーに座ったまま、その姿勢を一切変えることなく。
「――それで、だ。ヒカリ」
日本の古い映画が映し出されたテレビから、目を逸らさずに訊く。
「どうして逃げ帰ってきた。契約の話すらせず――裸を見られたくらいで」
「見られたくらいって……」
ヒカリはむすっと頬を膨らませながら、買ってきたものを冷蔵庫にしまい始める。
「男の人に裸を見られるなんて、乙女の一大事なんだからね。少しくらい心配してくれたって良いじゃない」
「はっ」
何を馬鹿なことを、といった予想通りの反応が返ってくる。
「そもそも、その男に脱がされたわけでもない。お前が勝手に力の加減に失敗して、勝手に裸を見せつけたんだろう。その男だって思ったはずだ。ここはお前の家じゃねえんだから、パンツぐらいはきやがれって、な」
「う……」
返す言葉がなかった。
ヒカリはキッチンに立ったまま、兄の方に向かって。
「大体、逃げてきちゃったのは、裸を見られたからじゃなくて」
言い訳でもするかのように言う。
「その男の人が……私のことを知ってる人だったから」
「ん? ああ、お前のあの言葉は、やはりそういう意味だったんだな」
「うん……」
つい数時間前のことを思い出し、再び恥ずかしさが込みあげてくる。
あのとき、お兄ちゃんは、あの場所にいたわけではない。
この部屋にいたまま、遠くにいる私の声を聞き、私に話しかけていただけ。
それはまるで電話のように。
だからお兄ちゃんは、先生が私の名前を呼んだことまでは、知らなかったのだ。
けどその後、先生に裸を見られたことを知っていたのは……
脱げた、見られた、失敗した――と。
私がそんなことを泣きわめいていたからで……
「――なるほど、偶然にも、お前の学校の教師だったと」
ヒカリは、まだ報告していなかったことを伝えた。
「まあ、お前のことを知っている相手だったなら、別の方法をとるべきだったな。お前みたいな弱々しい態度と顔つきじゃ、初対面の奴には馬鹿にされるだろうからこそ、力を以って威厳を示せと、そう指示したんだが」
「弱々しい態度と……顔つき」
ヒカリは近くにあった小さな鏡に自分を映す。
子供の頃からあまり変わらないその顔には、確かに威厳など欠片も見られない。
だからこそ、お兄ちゃんの指示通り、あんな風に炎を巻きあげ、強そうな服をまとってみたわけで。
ちなみにイメージしたのは、昔アニメで見て憧れた悪役の女性が着ていた衣装。
ただ何やら結果的に、悪役というより、痴女というか、軽犯罪者というか……
「ともかく、相手の素性がわかっているなら話は早い」
酒瓶の酒をごくりと飲みほして、ヒカリの兄は言う。
「明日にでも、学校でそいつをとっつかまえて、何とか契約を結んでこい。それでようやく、お前にとって初めての契約が完了だ」
「ねえ、お兄ちゃん。ええと……先生じゃなくて、別の人を探しちゃダメかな……」
「あん?」
不満をあらわにした声とともに、少女を睨みつける。
機械を思わせるようなその冷たい目に、ヒカリは寒気を覚えていた。
「ヒカリ」
テレビに目を戻し、重さを感じさせないような灰色の声で。
「深い欲をもった人間を探し出し、俺の代わりに、その人間と契約を結ぶ。お前自身が言い始めたことだ。気長に待ってやってはいるが――」
「うん、わかってる……けど」
「別に良いんだぜ。俺がその教師と契約を結びに行っても」
「それは……だめ……」
絞り出すように言って、深くため息をついた。
そんなことをしたら……あの先生の人生はめちゃくちゃになる。
ヒカリは、そう確信していた。
実際、兄と契約を結んだ人間が、結果として破滅を迎えたのを何度も見ている。
ただしそれは、その人間が望んだこと。
人間の力では到底実現できない願い事を叶え――
自ら結んだ契約通りに、その代償を支払ったにすぎない。
自業自得といえば、それまでである。けど……
「お兄ちゃんは、人間に対して、少し厳しすぎるんだよ……」
ヒカリは無意識のうちに、憐れみの目を向けていた。
お父さんとお母さんが死んで、ここでお兄ちゃんと一緒に暮らし始めてから、それなりに時間が経っている。最初と比べれば慣れてきたし、何となく性格もわかってきた。
けど、それでも、ときどき――恐ろしさを感じてしまうことがある。
自分の内にそんな感情が湧いてしまう理由も、よくわかっている。
曲がりなりにも人間として育てられてきた私と違って、お兄ちゃんは……
「――ところで、ヒカリ」
急に軽い口調で。
「メシを早く準備しろ」
そんなことを言った。
「……む。今、お肉、食べたじゃない」
「こんなものは酒のツマミだ。全然足らん」
「お肉なくなっちゃったから、キノコ炒めしかできないよ」
「構わん、早くしろ」
「はいはい……」
呆れたように返事をすると、ヒカリは手を洗い、エプロンを身につけた。
家事を手伝うこともなく、ただ一方的にご飯を要求する。
そんな態度については、不快感も、もちろん恐ろしさも感じないのは。
やっぱり血の繋がった家族だからなのかなあ、と。
そんなことを思いながら、冷蔵庫を開ける。
そして残り物で何かもう1品作れないものかと考え始めていた。