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第二十九章:傲慢なる足

第二十九章:傲慢なるその足

      *

 インド神話体系局。

 出入り口が焼け焦げた厨房の中で、ずしりと重い音がした。

 咄嗟に膝を着いた音だった。その者は歯を食い縛り、しかし額からは尋常じゃないほどの脂汗が滲み出ている。その表情も苦しみに満ちていた。

 膝を着いて、激しい頭痛に手を宛がう少年は、荒い呼吸を整えようと肩でゆっくりと息をしている。

「……う」

「どうしたのだ和時よ。随分と辛そうではないか。そのようなザマでは次の戦場で散るぞ」

 少年に対して、傍に立つ男は嘲笑を浮かべていた。が、少年は苦虫を噛み潰したような顔をして言い返した。

「馬鹿を言え。領域から離れて何時間も神力を使っているんだ。流石に無理が来る」

「クク、何を言うかと思えば弱音か。貴様らしくないな。ならば休んでおれ。別に咎めはせぬぞ?」

 男はあくまで少年に嘲笑を向けていた。その意図を汲んでか否か、少年は小さく吐息して、

「会長こそ何を言う。まだやれるに決まってるだろう。取りあえず何か口にできるものを」

「良い。――なればこの肉なぞどうだ。よい脂がのっていると見えるが」

 二人の男、蒼衣と遠野は厨房の食料庫を漁っていた。

 遠野の要望に蒼衣は冷凍庫から霜降りの牛肉を手に取って彼に見せるものの、

「凍ってるぞ」

「では冷蔵庫に移動だな。――ほお、チーズとベーコンだな。こちらの卓にはナンだったか、まあ小麦を焼いたものが置たままになっておるぞ?」

 遠野は蒼衣に期待するのを止めて、自ら冷蔵庫の方へ歩いた。

 蒼衣が見ていたプロセスチーズとベーコン、それとソースや野菜を適当に取り、棚からはパンを数個見繕って、口の中に押し込んでいった。飲み水もなしに頬張る彼を見て、蒼衣は、

「随分と粗食だな。それで貴様動けるのか」

「構うな。元から胃は強い方だ。腹を殴打されない限り問題はない。それよりも会長、こちらから確認はしないのか?」

 インドへの支援について問われた蒼衣は、寸胴鍋に入ったドライカレーを鼻で嗅ぎつつ、

「準備が整えば考える。それまでに要請があれば、動ける者から送り込むだけだ」

 興味もないと言いたげな表情に、遠野はやや顔をしかめて言葉を返す。

「外交上仕方ない事とはいえ、そうも危機感もなく国家の危機を流すのはどうなんだ?」

「なぁに、所詮はヒト同士。どちらかが滅びるまで殺し合うのが世の常だ。未然に防げずに起きてしまったのが災難、焦ったところで意味もない。そうであろう? 和時」

 簡単に栄養を補給した遠野。その顔色はやはり優れない。

 そんな彼の顔を眺めて、蒼衣は、くつくつと笑いを漏らすだけだった。だが、ややあってから、ふと蒼衣は後ろに目をやった。厨房の出入口を見詰める。すると、

「お兄ちゃーん! 和時くーん! どこぉー?」

 たたた、と着替え終わった空が駆けて厨房に入ってきた。

 少女は周囲を見回して二人を探す。二、三度首を捻ってこちらを見付けた空は、ぱぁっと顔を明るくさせてこちらに駆け寄ってきた。が、

「――空よ。今すぐ翼を出して見せれるか?」

 蒼衣は前置きもなくそう問いかけた。

 うんいいよ、と空は訝りもせずに頷いて、ソレを出して見せた。

 空の背中。肩甲骨のやや内側から、鱗を持った翼が生えてきた。片翼だけでも少女の身長をゆうに超しており、両翼合わせても三メートル以上はある。

「会長、何がしたいんだ?」

「なに、間近で確かめてみたいと思っただけよ。どれ、後ろも見せてるがよい」

 ん、と空は翼を器用に縦に畳んで、くるりと半回転した。

 翼の根元、制服が綺麗な切り口で空いているのが分かる。どうやら意識的に出せると分かって、あらかじめハサミか何かで切ったのだろう。蒼衣は、服の切り口を捲り、皮膚と翼の接合部をしばらく触診と観察を行うと、

「空よ。お前は新たに神役を獲得していると思われる。どんなものか、感覚的に分かるか?」

「んー、よく分かんない。でも何か入ってきたのは分かるよ。お空の光も消せれたし」

「違和感がないという事は、やはり火と同系統のものか近似の属性かだな。おそらく天蓋の光が新たな神力のもたらしたものだろう。それについては何か分かるか? 感覚的で構わん」

 確認にしては妙にぼかした質問に、遠野は疑心する。が、空は真面目に答えていた。

「ごめん、全然分かんない。――あ、でも、全然疲れなかったよ。光がわぁーって来る感じで気持ちよかった!」

 遠野には空の言っている意味が全く分からなかった。が、それでも蒼衣には伝わったのか、

「成程。――詳しい事は神州に帰ってからじっくり調べるとしよう。お前の制服も新しく仕立てる必要がありそうだな」

「ん、ありがとう」

 兄妹は会話を終えた。頃合いを見計らって、遠野は口を挟んでみる。

「会長。何か分かったのか?」

「ああ。おそらく、コヤツの神力は力の分配……、いや魔力の供給と言った方がしっくり来るな。オレの〝月光柱げっこうちゅう〟のように太陽光から魔力の加護を頂き、それを周囲の者に与えるものだろう。先程まで、天蓋が光っていた時、魔力の流れが若干だが変わっていたからな」

「太陽の恵み、という奴か……」

 言い得て妙だな、と蒼衣は失笑した。

 ……二重継承は元の神役に対して、陰陽の属性が違う時がある。

 たとえば火と水、土と金、木と風などがそれだ。

 ……近い存在でも陰陽が違えばプライスマイナスが不安定になり、継承直後はまともなコントロールが取れなくなるらしい。会長の質問でそれがないという事は分かっている。つまり空の神役は陽である火と同じ属性であるという事だ。

 この世を形作るのは三つの属性に対して七つの大源。

 陽は火・木・土。陰は金・水・風。虚無が霊。陽の三つで光に関するものは火のみ。

 ……たとえ今が夜だとしても推察するのはそう難しくない。空の得た神役は間違いなく、

「……太陽光に類する神役」

 神州神話において、太陽の神は、八百万の神々に認められた神州の統治者を指す。

 大御神と呼ばれるほどの貴さを持ち、彼の三貴子の長女である女神。

 遠野は思った。

 とうとう揃ったのか、と。

 この場に、異国の地の厨房などという場所で揃ってしまった、と。

 神州を知らす三つの柱が揃った、と。

 月神ツクヨミ。地神スサノオ。日神アマテラス。三貴子全てが揃ったのだ。

      *

      *

 遠野は他の二人を見る。空は全く気付いていない。蒼衣は気付いている筈だが、空の翼の動きを見て腕を組みつつ思案に耽っている。

 ……二人はこの意味が分かっているのか? 揃ったんだぞ三人が。世界の先導者でありながら最高神の陰に隠れた月神が長年執政を行ってきた神州が、とうとう頂きに立つ神を得たんだぞ?

 遠野は眉根をしかめて二人を見る。が、ふと不意に、蒼衣がこちらを見やって口を開いた。

「そう焦るでない和時よ。上に立つ者として些か気張っておるようだが、それではお前の良さなど丸潰れだ。我々は神を名乗るが所詮はヒト。もっと自分の我を見せればいいだけの事だ」

 口端をあげて笑った蒼衣は、空の翼の観察を止め、独り厨房を出ていった。

「今しばらくは時間がある。それまでお前の好きなように動いてよい。最後に港に立っておれば問題はないぞ和時」

 厨房に残された遠野と空。空は兄の言葉の意味が分からず小首を傾げていたが、遠野は自分に向けられたものだと分かっていた。

 厨房の出入り口を見詰めて、彼は小さく心の中で肩を落とした。

 ……敵わないな、まだ。心を見透かされるとは武人としても恥だ。

 しかし、迷っていたのは確かで、蒼衣がそれを諭してくれたのも確かな事だ。

 自分はスサノオである事に若干のプレッシャーを感じていた。二か月前の闘争時には興奮で気にもしていなかったが、この二ヶ月で自分は理性でその重みを感じていた。

 この世界を根底から支える神役継承者。それも神州の頂上に一番近い場所にいる者の名を被り、神話機構の実質二番手である幕僚長の任を与えられた。

 重い。自分には重過ぎるモノだった。今まで無能者として生き、何も期待されず、何も得られず、何も与えられずにいた筈なのに、突然転がったように沢山の重みを課せられた。

 ……焦るな。まだ時間はある。己の我を持て、か。

 十年で業を煮やし、我を捨てて世界の未来を望んだ男の言葉とは思えない。

 だが、それだけ言葉の意味が大事である事を、遠野は理解していた。

「――和時君」

 唐突に、空が彼に話しかけてきた。少女は恥ずかしそうに両手の五指を胸の前で絡めて、

「あの、助けてくれてありがとう」

「……? 何の事だ?」

 身に覚えのないお礼に、遠野は眉をひそめた。

「わたしが火傷した時、和時君が治してくれたでしょ。だから、ありがと、って」

「ああ、あれか。あれは俺じゃない。この〝火君ひのきみ〟がやった事だ。俺が特別何かをした訳じゃない」

「でも、あの時に和時君がいてくれなかったらわたし、たぶん死んでたし……」

 おそらく本当に死にかけていただろう。遠野もそれは同意するが、本当に自分が何かをした訳ではない。謂れもない礼は受け取りたくなかった。だから、

「それはお前の運が強かったって事だ。自分を誇れ、それかこの刀に礼を言え」

 遠野の言葉に、でも、と引こうとしない空。

 彼は心の中で吐息すると、手に持っていたパンを少女の口の中に押し込んだ。

「……んご!?」

「ならもう負けないように、それでも食っておけ」

「ぅう、……分かった、ごめん」

 遠野は少女の横を通って、厨房を後にしようとした。が、少女はとことこと彼を追って、

「どこ行くの?」

「医務室だ。そこに、たぶん俺の両親がいる」

「え、何で分かるの? 三戦目から行方知れずだったのに」

「さっき念話で朝臣たちとも連絡をとった。その時に俺の親父がそこにいると言っていた。怪我の具合からすればまだ治療中の筈だ。だから行く」

 彼の顔を不安そうに見詰める少女だが、次の彼の言葉で安心したように頷いた。

「両親の嘘についてはもう知ってる。そのケリを着けるだけだ。――心配するな、仲違いはしねえよ」

 ただ、

「――腹を割って話すだけだ」

 二人のその足先を、医務室へと向けた。

      *

      *

 仄かにアルコールの匂いが漂う空間。

 電灯に照らされた部屋では、奇怪な攻防が繰り返されていた。

「ぐへへへへ、よいではないかよいではないかー」

「ちょ、ちょっと。止めなさいってば! アンタ怪我人なんだから静かにしてよ……!」

「そんな事言ったってよぉ嬢ちゃん。そんな肌を露わにしてちゃあ、オジちゃん我慢できないよお~」

 全身に包帯を巻かれた宿禰が、着替え中の朝臣を襲おうとしていたのだ。

 神話体系局の医務室、〝本〟を四方八方に展開する少年は、ベッドの上で素の上半身を必死に服で隠そうとする少女に迫っていた。ゆっくりと歩み寄る彼に、朝臣は顔を赤らめて服を押さえる手とは逆の手で彼を振り払おうとしている。

 医務室には二人だけだった。

 ……ぅ、どうしよ。このままじゃホントにマサトに襲われるわ。

 普段なら足蹴にして退治するところだが、相手は怪我人。それも自分を庇って負ったしまった怪我だ。その上、相手が宿禰である事が彼女の躊躇いの一因となっていた。

 宿禰もいつになく恥じらう朝臣の態度がツボに入ったのか、ベッドの前で両手を掲げて襲う振りをするだけで一向に襲おうとしていなかった。〝本〟には随時記録保存しているが。

「ぐへ、ヴへ、ぐへへへへへ」

「や、止めなさいって……」

 大根芝居な暴漢だが、朝臣にはそんな事に気付くほどの余裕はなかった。

 高鳴る心臓。荒れる息。彼に裸を見られそうな羞恥心で、彼女はすでにいっぱいいっぱいだったのだ。そうやって、二人でごっご遊びのような攻防を続けていると、ふと来客が現れた。

 扉を開けて入ってくるのは二人。一人は黒髪の少年、もう一人は濃紺の長髪を持った、

「あれ? ヘルネちゃんと真人君だけ? 和時君のお父さんとお母さんは?」

 やってきたのは遠野と空だった。

 朝臣は周囲を知覚する。自分たちのいるベッドは今カーテンに覆われて外から見えない。空の言葉は、おそらく扉の外に声が少し漏れていたからだろう。それはそれで心配だが、空たちの意識は遠野の両親が不在である事に向けられている。

 ……ならまだ誤魔化せるわ!

 そこからの朝臣の行動は速かった。自分に迫りくる宿禰の腹部を殴打して気絶させ、シャツを急いで着、何かしていた事をアピールしようと治療用の符を数枚持って、ベッドのカーテンを開けた。

「あ、あら二人とも、どうしたの急に。念話じゃ化け物退治に行くから作戦会議をするみたいな事を言ってたのに」

 朝臣は努めて平静に、自分の不自然さを、話題を逸らす事で誤魔化そうとする。

「ヘルネちゃん。わたしたち和時君のお父さんとお母さんを探しに来たんだ。ここにいるって言ってたのにどこにもいないんだ」

 空はまんまとこちらの奸計にかかった。が、

 ……やばいわ。伍長の目、完全にアタシを訝ってる。流石にシャツだけじゃ無理があったかしら。

でも伍長はヒトの弱みを吹聴するような人間じゃない、と自分に言い聞かせて、朝臣は空の疑問に答えた。せめてこの少女だけは誤魔化し切ろう。

「ああ……、あの二人ならさっき出ていったわよ。やる事ができたとか言って。たぶん化け物のとこに行ったんでしょ。てっきりあたしは除け者にされたと思ってたんだけど。あの二人もよくやるわね、もうほとんど死に体の状態なのに」

 脂汗をかき、視線を右往左往させながらも、彼女は必至に言葉を紡いだ。

 ……ここにいないって言ったし、さっさと二人を探しに出ていってくれないかしら……。

 しかし、朝臣の期待とは裏腹に、自分の言に食って掛かってきた人物がいた。

「お前はそれを分かってて、行かせたのか?」

 遠野の静かに威圧する問いかけに、一瞬朝臣は息を呑んだ。が、逆に彼女は、

「死にたがりなら止めたけど、生憎そうじゃないみたいだったから行かせたのよ。悪いけどあたしは衛生兵よ。戦えると判断したら戦場に送り返すのがあたしの仕事。分かった?」

彼の圧で、自分の焦りを一旦鎮める事が出来た。朝臣はそのやや切れ長の目で、遠野を見つめ返す。

「重傷者じゃなかったのか?」

「重傷なのは裏にいるマサトだけよ。残念だけど、貴方の父親は軽傷よ。ただ―――」

 ただ、

「――今は合わない首輪を無理やり着けているようなものだけど」

 遠野の視線にわずかな殺気が灯る。が、彼女はそれに怯む様子はない。

「ふ、二人とも喧嘩はよくないよぉ」

 急に始まった朝臣と遠野の言い合いに、空は着いていけず。涙目になりながらも少女は二人を止めようとしていた。が、ふと不意に、カーテンの奥から声が聞こえた。

「……おいおいヘルさん怪我人殴るなんてヒドイなぁ。それに大将さんよ、アンタの親が出てったのは本当についさっきだぜ。今行けばまだ戦闘するよか前に追いつけるんじゃあないのかい?」

 その声は、神に助言する神オモイカネを襲名する宿禰のものだった。

 彼の言葉のおかげか否か、場は一旦冷静さを取り戻した。すると遠野が、

「そうか。なら俺たちも港に向かおう。――朝臣、済まない。お前はお前の役割を果たしただけなのに非難してしまった」

「それはこっちもよ。あたしも衛生兵としての矜持はあるけど、親族である貴方に言うのは不謹慎ってものだもの。謝るわ」

 二人は和解し、遠野たちは港へ。朝臣たちは医務室に残った。

「行ってくるねヘルネちゃん。真人君もお大事に、だよ」

「ええ、ソラもあまり無茶したら駄目よ。終わったらその火傷の痕も治すから」

「ガンバだにょろだぞ~」

 遠野たちもいなくなり、再び二人だけになった。

「ぐへへへへ、ヘルさんオジちゃんと今夜イイ事しない?」

「――――」

「んん? 無反応なんて冷たいなぁお嬢ちゃん。もっとイイ声で鳴いてもらわないとお」

 懲りずに宿禰はゲスな声を挙げる。が、朝臣は急に、にこやかな笑みを浮かべた。

「あら、ならお医者さんごっこでも頼もうかしら。悪い菌は殺さないといけないから、消毒しないといけないのよ」

 女神のような微笑みを貼り付けて、朝臣は浣腸用の注射器を取り出してきた。

 一気に蒼ざめる宿禰。少女は手際よく殺菌用アルコールは注射器に注いでいく。

「へ、ヘルさん? それはちょっとハードというか生命に関わるというか、取りあえず俺まだ未成年だし?」

「ふふ……」

 顔は笑っているが、彼女の目は笑ってはいなかった。そして、

「――えい」

「カぁイカぁアアアアアアんンんン!!」

 医務室で卑猥な悲鳴が響いた。

      *

      *

 銀髪の少女に肩を借りながら、海瀬はゆっくりと歩いていた。

 片足を引き摺るように歩く中で、海瀬は心の隅で若干の悔いを感じていた。

 ……あの精霊の子には無理を言ってしまった。できれば、責任を感じないで欲しい。これは親としての、ボクのやり方なんだ。

 彼の横、彼の補助をする銀髪の少女は、海瀬に小さく尋ねた。

「ホントにいいのカイセ? 責任取るなんて私たちらしくないよ。高々高位精霊の一匹を怒らせただけなんだから」

「ああ、そうだね。だがそれだけじゃないよ。親として、ケジメは見せておかないと恰好つかないじゃないか」

「ふうん」

 彼の言葉に、詰まらなさそうに納得してみせるエリスだが、その表情は柔らかだった。

 二人は一歩ずつ。少しずつ進んでいた。岸辺までもうすぐだ。

 が、そろそろ着くかという所で、ふと物陰から、独りの老婆が出でた。

「……スパランツァーニ」

 海瀬が老婆の字を呼ぶ。と、老婆は口を開いた。

「どうもお久しぶりで御座います遠野・海瀬様。私をお恨みですか?」

「何の事か分からないが」

「貴女様の背に刻まれた紋韻の事で御座います。――貴方様の印を正した際、どのような事になるかは私には分かり切った事でした。しかしそれを言わずに、私はわざと戦いの邪魔になるようにした」

 老婆の物言いに、しかし海瀬は、

「妙な言い方をしないでくれ、スパランツァーニ。君のおかげでまだ生き永らえる事ができている。恨む必要はどこにもない筈だ」

 彼は澄んだ顔でそう告げた。

 すると、その台詞にアウヴィダは笑んで、そして話題を変えた。

「では私も気にせずにいましょう。それと先程、貴方様のご子息に会いました。貴方様に似て面には出さない激情家でありますね。会話をするだけで楽しいものでした。将来が楽しみでなりません」

 老婆の意味深な物言いに、海瀬は初めて表情を変えた。警戒の色だった。

「ほほ、貴方様の家柄は存じませんが、与えられたモノがあるのは見れば分かります。一体どれほどの永い時間、その役目を背負っているのでしょうか? 貴方様の血は」

「貴方の知るに値しない事だ。言いたい事はそれだけかい?」

 問いかけにアウヴィダは首を横に振った。

「そこの方にも少しよろしいですか?」

「エリスさんに何の用かな?」

 エリスはうそぶくような口調だが、その瞳は明らかに敵対の色が見えていた。

「用というほどのものではありません。ただの挨拶に御座います。彼の高名なツァペックドックス家、その最後の後継者なのですから、敬意は示さねばなりません。そうでありましょう? エリザベス・ネクロマンテイア・ツアペックドックス様」

「いやだなぁ、わたしはエリスさんだよ」

「〝死玩具シミテール〟、エリス・ネクロマン、〝リリス〟、そして今は遠野・エリス。そうでありましょう。別段隠すようなものでもないと思いますが」

 老婆の紡いだ幾つかの名は、全て銀髪の少女を指すものだった。が、

「違うよ。私は今、遠野の名を背負ってるの。魔術ネクロマンテイアでも家柄ツアペックスドックスでも、異名リリスでもなく、〝遠野・エリス(カズトキの母親)〟として私はここにいるの」

エリスの答えに一番驚いたのは海瀬だった。

 今までずっと明言してこなかった。たとえ言ったとしても冗談のような態度だったのに、

「……エリス」

 呟く名に、彼女はにこやかに頷いた。

「うん。でもね、前の名前たちも私の名前だよ。私は私の名を選んでいるの。カイセが望んだ事を叶えてあげるために、私は私の名前を選ぶ。ずっとそうだったし、ずっとそうでありたかった」

 だから、

「だから私の選択を邪魔する子は、痛くて気持ちいい事してあげるよ」

 艶めかしい視線と微笑で、エリスは老婆を見据えた。すると、

「……ふふ」

 アウヴィダは突然笑い始めた。

 笑い声は長い。実に楽しい、面白いと言いたげな笑いだった。しばらくすると、老婆は深呼吸をして笑いを鎮め、そこから一息ついてようやく口を開いた。二人に対して、

「貴方様たちは、本当に良き御関係に在られると、そう心から申し上げます」

 そうとだけ告げて、老婆は道を譲るように小脇に身を寄せた。

 アウヴィダの目的がいまいち掴めない二人だったが、警戒しつつも先を急いだ。

 海岸までもうすぐだ。

      *

      *

 数分後、海瀬とエリスは護岸手前で止まった。

 そこから、海にそそり立つ九つの柱を見据える。柱の近くでは幾度も爆発が起きており、近距離での戦闘が続いているのが分かる。

 柱は邪龍種の首。爆発はインド神軍の攻撃によるものだ。

「エリス―――」

 と、海瀬が隣にいる少女の名を呼ぼうとした途端。突然邪龍種の付近で他の爆発よりも数倍以上の規模を持つ爆発が起きた。

 まるで花火のような大きな爆発に、彼は一瞬驚いたように目を開ける。が、すぐその顔は陸側の上空に向けられた。

 小さくだが、紅白基調の服をヒト型がいるのが分かる。夜で分かりづらいが、背中からは鱗の持った翼が生えていた。あの姿は、

「……あれはあの子か?」

 確か名前は、空。竜王の妹だった筈だ。

「今のは炎の神力か。しかし何故生身で翼を?」

 彼の疑問には、すぐに答えが返ってきた、背後からの声で、

「日光の神役を得たせいだろう。具体的な理由は知らん」

 その言葉を聞いた瞬間、海瀬とエリスは同時に身体を強張らせた。

 知っている声だった。この十七年間、思い続けた愛する者の声だった。

「……和時」

「――カズトキ」

 二人の振り返った先、そこには自分の息子がいた。

「三日ぶりだな、親父」

「…………」

 彼は言葉が出なかった。

      *

      *

 空と共に、遠野は医務室から戦場へと赴こうとした。

 だが、その行く途中で、二人はある人物と鉢合わせした。

 白い布に身を包めた老女。常に笑みを絶やさぬ彼女の名を、遠野は呼んだ。

「アンジュ・アールス・カンジィ。どうしてここにいる。部隊の指揮はしないのか?」

「指揮に関してはほぼドルガーに一任しておりますので、そして神州の方々にもこの状況ですゆえご助力願いたいと申し上げます。竜王様にもすでに伝えておりますので、直に連絡があるでしょう」

「分かった。その事についてはいいだろう。――それだけか?」

 遠野はあくまで警戒の紐を解かなかった。背後に空を隠すように立ち、相手を見据える。

「少し、――もう少し貴方様と話をさせていただきたいと思いまして。よろしいですか?」

 この状況で何を悠長な、と思う彼だったが、

「分かった。――空、波坂を探して一緒に会長のところへ行け。俺はまだ用事がある」

「――ん」

 少し心配そうな顔をした空だったが、頷いて、アウヴィダにも会釈してからその場を走り去った。行く方向は、流れ弾処理から立ち位置を変えぬ波坂の許へ、だ。

 残ったのは遠野とアウヴィダのみ。

 老婆の笑みに、遠野は警戒の色しか持たなかった。どこかで苛立ちに似た感情を覚える。

「貴方様は、貴方様の御父上とは違い、あまり他人に対して素直ではないようです」

「嘘を吹聴するような真似、した覚えはないが?」

「そのようなところが、です。スサノオよ」

 神名で呼ばれた事で、彼の緊張の度合いが高まった。自然と腰の位置が下がる。

「何が言いたい」

「名にはそれぞれ意味があります。貴方様の遠野という氏にも、和時という名にも、そして私の名にも意味があります。貴方様なら遠き野。私のガンジィという氏には商人という意が元来あります」

「―――」

「そして、貴方様の持つ神の名にも同様に意味がある筈です。太古ゆえ定かではないでしょうが、スサノオならばスサが荒むや進む、オは男といったところでしょう」

「名は体を表すとでも言う気か? 俺の心が荒んでいると」

 いいえ、決してそのような事は。と、老婆は首を振ってみせた。が、

「しかし、名は体を表すと言いたいのは確かです。貴方様の遠野・和時という名には意味があり、多少なりともその人格に影響を及ぼす。魔術師であればなおさらです。貴方様の両親は魔術師だった。故にその名には貴方様の全てが詰め込まれている。――遠き野に和む時。果たしてどんな意味をそこに与えたかは、私には知る余地のないところです。ですが、意味があり、その意味を貴方様が体現しているのは確かな事です」

 そして、

「それと同様に、貴方様が新たに得たそのスサノオという名にも、貴方の体が隠れている筈なのです。それを忘れてはなりません。自己の意味を失っては、ただ闇雲にその生涯を走る事になります」

「――それが、俺が素直でない事とどう関係があるというんだ」

 遠野は静かに問う。その問いに、彼女もまた静かに答えた。

「貴方様は心の真を隠しているように思えます。たとえ嘘はついていなくとも、言葉の陰に本心を隠して核心を突かれるのを避けようとする。――逆に、貴方様のお父上は何事も包み隠さず言葉にする。故に何か隠す事に対して、心に病みを抱えてしまう」

 老婆の台詞に、彼は一瞬ぞわりとする悪寒を得た。

 知っているのか? という不安にも似た恐ろしさ。遠野は一層彼女に対して警戒を露わにするが、しかし、当の老婆はただ笑い、こちらにただ言葉を投げかけてくるだけだった。

「隠して逃れるか、隠して悩むか。小さな違いですが、それは大きく明確な違いでもある。心の在り様は千差万別。人それぞれにその人の在り様がある」

 老婆は笑みを濃くして、こう告げた。

「貴方様はお強い。しかし心は非常に弱い。そう私には見えます」

 彼は無言でその言葉を聞いた。怒りもせず、ただその言葉を呑み込む。

 ややあってから、遠野はわずかに口元を緩めた。そして、

「――弱い、か。そうだな、確かにそうだ。自分が弱い事なんてこの十年間、そして二ヶ月前にようく思い知ったさ。でも、こうやって誰かに面と向かって言われると、また違う諌めになるものだな」

「おや、お怒りにはなられないのですか?」

 ああ、と遠野は頷いた。

「そんな必要ない。弱い事はいい事だ。弱ければ誰かに頼れる。弱ければ何かに必死になる事ができる。弱ければ上を見る事ができる。弱ければ強くなろうと思える」

 弱ければ、

「強さが何であるか、考える時間ができる」

 自分は弱い。自分は無能者に過ぎない。弱い心で折れ、狂い、泣き叫ぶただの所有者だ。

 故に強くなる。強さの意味を知る。強くなるために強者を相手取る。強くなるために必死になる。強くなるために誰かと共に切磋琢磨する。

 弱い事は決していい事ばかりではないかもしれない。だが、その弱さを糧とする事は間違ってはいない。

「俺は武もなければ強くもなく、勇むものなど一つもない。ただあるのは無能、そして狂うほど弱い心に力は有しているに過ぎない」

 だから、

「だから弱いと言われれば頷かざるを得ない。幸い、周りに良い手本がいるから自分を見失わずに済んでいる。――話はそれだけか?」

「ええ、こちらはもう満足しましたゆえ、先をお急ぎになって下さい」

 くすりと笑んだ老婆は遠野にそう告げて、遠野もそれに応じて駆け始めた。

「……岸に行けばよろしいでしょう。

 アウヴィダに従う訳ではないが、彼女の言う通り遠野の進路は岸へと向かっていた。

 彼が去った後、独り残ったアウヴィダは、細く小さな吐息を漏らした。

「私は貴方様に問いましょう。同じく、言葉の裏に真を隠す者として、彼が至る境地はどこにあるのか。――実に面白いものになるでしょう。私も未だ思い悩む一人ですもの」

 老婆は海を見る。邪龍種は怒りに身を任せてムンバイを滅ぼうとしている。だが、アウヴィダに恐れる感情はない。

「私も弱い者ですゆえ、皆に頼ってもよろしいのですのね?」

 ほほほ、と老婆は笑って局へと戻っていった。

      *

      *

 ドルガーは蒼衣からの一方的な支援確定の連絡に若干の安堵を得た。

 ……これで多少なりとも攻撃力が期待できます。あとはどこまで押せるか。いえ、彼を鎮めるにたる力を出せるかにあります!

 上空で指揮を執る彼は、次に腕を振って全体に伝えた。

「前衛に通達! 一時後方に下がりなさい、攻撃の手は休めてはなりません。――神州の皆様方、存分に媚びを売り私たちを下した力をいかんなく発揮して下さいませ!!」

 彼の叫びに応じたのは、まず光だった。

 先程もあった天から降る異常な月光。日中を思わすその光は、温かくムンバイ一体を包み込んだ。不思議と、ドルガーは光から漲るような力を感じた。が、ややあってから、

「――行くよぉ、伊沙紀ちゃん!!」

「分かっていますわよ蒼衣・空!」

 下がる途中、彼らの更に上空を二つの陰が通った。

 一人は翼を広げる少女、もう一人はその者にぶら下がる少女。彼女らは邪龍種にある程度近付いた時点で、行動を起こした。翼を持った少女が、ぶら下がっていた少女を投げたのだ。

 投げられた少女。彼女は水色の髪を振り乱して態勢を整え、邪龍種を一直線に睨んだ。

 眼前。魔力を一斉に口で咥え込む邪龍種がいる。しかし次の間に、邪龍種の顎は何かに挟まれたように動きを止めた。

 ……魔力の壁? 第一戦で見せた空間系の神力ですか!

 思う先、天を舞う少女の方も動いた。翼を横に広げて安定を持たせ、その上で身体を仰け反らせて喉奥に魔力を溜める。

 数秒後。少女の口から炎の玉が吐き出された。直径十メートルに渡る火球。

 しかし、火球は一発だけではなかった。同様の挙動で続けて更に三発。計四発の火球が邪龍種目掛けて放たれた。

 轟、と大気を押しのけて飛ぶ先、顎を動かそうと足掻く邪龍種がいる。縛された空間も邪龍種の怪力を前にしては脆く、あと何秒かで崩れるだろう。

 が、あと何秒かあれば火の玉は直撃する。した。

 寸分の狂いもなく、火の玉四つは見事に命中し、空中に花火を咲き誇らせた。

「見事な連携。成程、八百万の神とはよく言ったものです。それだけいても彼女たちの動きは乱れないのですね。一枚岩、共にある事を是とするのですか」

 ドルガーは、邪龍種との距離を更に詰めていく水色と濃紺の後姿に小さく笑んだ。そしてその上で、

「さあ皆さん、彼らが時間を稼いでいる間に私たちも態勢を立て直すのです。負傷者でも動ける者は救助班に回ってくれますか?」

      *

      *

 神力で大気を束縛して足場を造りつつ、波坂は空に言い放つ。

「蒼衣・空。貴女の新しい神力があるとはいえ、その援助でもあの巨体に見合う空間捕縛はそう何度もできませんわ。まずは小手調べ、相手の硬度を確かめない事には始まりませんの」

 翼をはためかせて波坂の近くを飛ぶ空も頷いて、

「分かった。でもそんな暇があるか、正直分からないとこだよ」

「あら、随分と弱気ですのね……?」

 嫌味を言ってみる彼女だが、その声にはやはりどこか怯むような印象がある。

 眼前、天上へと立つ九つの首は、未だ傷一つなく健在。自分たちの攻撃も含め、あのインド神軍の攻撃を食らっても傷を負わないとは、化け物としかいいようがない。

 と、不意に邪龍種の二つの首が顎を開けた。見えるのは青白い魔力の光。押し出されるのは魔力の奔流だ。射線は空と波坂のいる宙。直後、

『――!』

『――!』

 二本の光の槍が奔った。

 咄嗟の出来事に波坂は反応するのが一瞬遅れた。

 ……しまっ――――。

 このままでは魔力の奔流に肉体もろとも蒸発される。恐怖に身が竦みそうになるが押し殺して、逃げようと波坂は腰を上げた。その数瞬の間で、不意に彼女は浮遊感を得た。

 いや、もっと正確に言えば上方へといきよいよく引き上げられる感覚。それと背後からか細い腕に胸をホールドされて滅茶苦茶痛いというか今まで体験した事のない刺激が。

「伊沙紀ちゃん大丈夫!?」

 波坂は眼下に光の槍が過ぎ去るのをみとめた。

 自分神力で縛った空間が流れる感覚が脳に来、慌てて束縛を解いて彼女はそこでようやく状況を呑み込んだ。

「え、ええ蒼衣・空、ありがとうございますわ」

 同属として邪龍種の行動を予知したのだろう。空はいち早く反応して、波坂を抱えて一気に射線上から退避した。しかし、この胸の空に揉まれる快感はどうにも、

 理性が保てませんわ! と心の中で沈痛を露わに、波坂は空に告げた。

「でもその、胸が、痛いですわ」

「ご、ごごごごごめんごめんご!」

 慌てていたせいなのかパニックになったせいなのか、空は波坂を放すまで三秒ほどのタイムラグがあった。


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