第二十七章:天照らし
第二十七章:天照らし
*
上から下へと尾を引く赤い光。
急加速し続けるその光からは、一人の少女の叫び声が発せられていた。
「うぉ、を、おおォオエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」
少女は空だ。
暴れ馬と化した炭刀を必死に抑え付ける少女。だが、刀は言う事を聞くどころか更に推力を生み出していた。このままでは姿勢制御もままならずに海に落ちてしまう。
……どどど、どうしよおお止まらないよォオオオ! 羽、羽、羽出さないとでも獣化したら剣落としちゃうできないよおおおおおお!!
「――落ちるー!!」
海まであと八十メートルもない。
空はもう駄目だと覚悟を決めて、は、と息を吸い身体を丸めて目を瞑った。
しかし、少女はふと自分の異変に気付いた。
内側に灯る温かい感覚。それはまるで春のお日様のように穏やかで静かな優しさ。思わず浮き足立ち、羽でも生えたかのような高揚感に身が包まれる。
バサ。
不意に耳に届いた、何かが広がり風を受ける音。背からは、空気の圧力を受けて痛む一対の膜の感覚。 それはまるで自分が翼を宙で無闇に広げた時のような痛みで、
「……は、羽が!?」
訝しり一瞬だけ目を開け、肩越しに背を見れば、そこには蒼い鱗を持った竜の翼があった。
己が獣化した時に、己の腕がなるべきモノが背中から現れていた。それも、少女の体躯に合わせた大きさで、だ。
落下する中で、空は慣れない感触に戸惑いながらも頭の中でそれを動かしてみる。すると、
……う、動かせる!
しなやかな動きで、竜翼は大きく一振りされた。
あり得ない事が起こっている。その衝撃的な感動が空の胸をときめかせる。
だが、無造作に圧縮された魔力が、その一振りによって放出、少女の落下を押した。
「しまったァア―――――――!!」
速度は上がる一方。もはや何千メートルから落ちてきたのかと問える速さだった。
涙目になりながら空は慌てて、生えた翼を駆使して頭を下から上に持っていく。今度こそ、と少女は思い切り翼を振るった。
海面すれすれの高さ。巨大な物体を落としたかのような激音が海面の凹みと共に聞こえてくる。翼から放たれた強力なエネルギーは、空の落下速度を一瞬で相殺してみせたのだ。
少女は思った。死ぬかと思った、と。
数度呼吸を繰り返した空は、再度よく自分の背中を見た。首を命一杯捻って、肩甲骨の辺りに視線をやると、
「凄い、獣化した時と同じ。わたしの羽だよ! 場所は違うけど感覚も似てる―――って、和時君の服に穴空いてる!? ど、どうしよ怒られる……!」
あたふたして言い訳を考えようとした少女だったが、ふと不意に戦闘中だという事を思い出して、あっと口を開けた。
「あ、マーリーさんとの戦いで破ったって言おう。――よし、それなら!」
と、得意げな笑みを浮かべた空。
背中の翼に魔力を溜めて加圧、爆発的な魔力放射で少女はわずか数秒でマーリーの眼前に舞い戻った。ヒト型のまま思い通りに動く翼は実に心地いい気分だ。
だが、目の前の火竜は気に食わないといった表情でこちらを睨む。怒気を孕んだ声で、
『アンタ、何よそれ……?』
「ごめん、わたしにも分かんないの」
正直に答える空だったが、マーリーはそんな事お構いなしに発狂した。
『あり得ないわ! 霊体と肉体のすり替えである獣化を部分的にするなんて! 一体どこの馬鹿が〝分からない〟の一言で納得しろっていうの!?
――それに上のアレ、アレもアンタの力なの!?』
上のアレ、と言われて少女は一瞬意味が分からなかった。
無論、部分獣化の件は自分も聞いた事もないし実証性もゼロ。言わんとしている事は十二分に分かる。だが、上のアレとは一体なんなのだろうか。
罠かとも思ったが、空は取りあえず上だけ確認しようと一瞬だけ天上に目を向けた。
「……おっ?」
眩しいほどの光源。
雲の隙間から差し込む光は、まさに陽の光と見紛うほどの光量。太陽と化した月の光が、ムンバイを中心に天から降り注いでいたのだ。
口を開けて目を見開いて固まる空。それを見たマーリーは眉根をしかめて、
『アンタ、まさか気付いてなかったの!? 馬鹿なんじゃない……』
呆れの言葉を発する彼女だが、少女は天を照らす光に見蕩れて聞く素振りもなかった。
……す、凄い。お兄ちゃんの神力みたいに光ってる!
空は内側に灯る温かい高揚感に似た充足を、感動と勘違いしていた。
*
*
高層ビルの屋上で、男の引きつった笑い声が高らかに響いた。
「く、クハハ、ハハハハハ――――――!」
蒼衣は嗤いが止まらなかった。
……良い、良いぞ空。お前は実にオレの予想を裏切ってくるから捨て置けぬわ!
時刻は真夜中だというのに夜明け前、いや日中といっても騙せるほどの明るさ。
天は光り輝いていた。その中心で翼をはためかせて空を浮遊する少女の姿は正しく、天の支配者に相応しい威光だった。
「(会長、あれはやはり前の―――)」
「だろうな。ここで継承を果たしたのならば、あやつの保護領域は北半球の半分は飲み込んでおろうな」
念の相手は遠野。遠野は声色を若干低くした、どこか怒気のある口調で、
「(空が再起不能になりかけても放任したのは、これが目的だったのか?)」
「ぬかせ。さしものオレでもあれは躊躇したぞ、和時? 撃ち落とされ、空が燃え出した時は敗北を覚悟した。だがお前が空を止めなかった。故に問題なしと判断したまでだ」
二人の間に、沈黙が生まれる。
ひさびさに遠野の怒りを買った事に肩を竦める蒼衣だが、そこにふと別の念が入ってきた。念話の主は神州の死神である、
「(ワタクシですけど会長。あれは一体なんなのですの!)」
会計か、と蒼衣は思い、一々相手するのも面倒なので遠野との念話の経路に、波坂の経路を混ぜた。そしてそのまま、
「和時よ。お前には、あれがどういう経緯を辿っているか憶えておるか?」
「(あら、遠野・和時も念話を繋いでますの?)」
「(そっちは波坂か。成程、俺に波坂に説明しろと、そういう事か?)」
ああそうだ、と蒼衣は肯定。ややあってから、遠野は怒気をわずかに孕んだ口調のまま、
「(空は二か月前、俺と会長が死闘を演じている際に神役を継承しかけた。が、俺たちが異空間へ転移されたために継承は失敗した。おそらく神役の種類は、日光に関する事だ)」
「(そんな事を話すという事は、蒼衣・空はここで、その継承しかけた神役を得たとでもいう気ですの?)」
そうだ、と遠野は肯定する。蒼衣も同意見だった。が、
「(ですけど、今は夜ですわよ?)」
波坂の反論に、蒼衣が反応した。彼は笑みを顔面に張り付けて、
「だがな会計よ。月明かりは所詮、太陽光の反射に過ぎぬ。空の神役はそこまでの影響力を持つとは言えぬか?」
「(――――)」
言葉に窮し、息を呑むような間を開ける波坂。数秒後、遠野が、
「(どちらにしろ、空がここで神役を獲得した事はほぼ確実だ。勿論部分展開した翼も何か関係あるかも知れない。――ただ)」
「(……何ですの?)」
ああ、と遠野は頷きの台詞を発して、
「(空はあの時、容姿も変化していた。だが、今はそれが見られない。もしかすれば違う神役をここで被った可能性もあると思っただけだ)」
辻褄は十分にあう考察だった。
二ヶ月前の神役継承では、空の髪や瞳の色も逆転していた。それがないという事は、やはり波坂の言う通り月光に関する神役かも知れない。
「そのところはおいおい調べれば済む事だ。まずはあの勝負の行方を知る事だろう」
「(ふん、見ているこっちは中々冷や冷やしますから、なるべく早めに勝っていただきたいものですわね……)」
波坂はそう告げると、自ら念話の経路を断った。
自分としても考察の確認が取れたので良しとして、遠野に幾つか言葉を告げて蒼衣は念話を終わらせた。
……冷や冷やする、か。確かにそうだな。
蒼衣は口端を吊り上げていた。ククク、と込み上げるモノを抑え込んで、
「――オレの研究個体が壊れぬか、冷や汗ものよ」
*
*
波坂は念話を断った後すぐ、遠野に念を送っていた。
「――遠野・和時、少しよろしいですか?」
わずかな無音を経て、言葉が返ってきた。
「(何だ?)」
やっぱり、と波坂は心の中で呟いた。が、つい軽口がいつものように出てくる。
「神力を使われてるおかげで、連絡がし易くて楽ですわね」
「(そんな前置きはいい。流れ弾の処理もあるんだ。用件を言ってくれ)」
ええ、と波坂は念話越しに頷いて、問いに答えた。先程から気になっていた、
「何かありましたの? ワタクシからは蒼衣・空が焼かれて落ちるところまでしか知りませんの。貴方のその様子ですと、色々思うところがあるように感じますけど」
返答までかなりの間が空いた。が、ややあってから、
「(――いや、何もなかった。オレは何もやっていないし出来ていない。空は自らの意思で戦場に戻った。それだけだ。それ以外の、二次的な出来事も些細な問題だ)」
あくまで白を切るつもりのようだ。
相変わらずですわ、と波坂は頭の中で思い、そして、
「そうですの。なら、頑張って下さいな。あの子を後ろから支えるのは貴方の役目なのですから」
眉尻を下げた笑みを浮かべて、そう告げた。
波坂は一方的に念話を切り、次いで視線を竜の少女へと飛ばした。
上空で背中から翼を生やす少女は、神々しい輝きの下、静かに刀を構えていた。
……太陽を司る女神。神州においてそれは、彼の地を知らす大御神。随分と、追い抜かれてしまいましたわね。
何かしてやりたいが、何をすればいいのか分からない。
波坂はもどかしさに苦しむ。
*
*
空は、自分の変化に着いていけなかった。
本来自分の腕である翼が背中から現れ、その上神役らしきものを新しく授かっている。
一つ一つならまだしも、こう一挙に来られては対処に困る。だから少女は、
「ま、いいや。後でお兄ちゃんに任せよ。今は勝負だもんね」
あっけらかんと考えるのを止めた。
それに自分の変化は良い変化だ。翼のおかげで動き易くなった。神役の分類はよく分からないが、この感じだとかなりの加護が得られる筈だ。マーリーとも互角に渡り合えるかもしれない。だが、空がそう考えていると、不意に、
『まったく、これだから神役ってのは信用できないのよ!』
マーリーは形態をヒト型から竜に変えて、こちらに仕掛けてきた。
高速で一直線に向かってくる火竜に対し、空は再び火を吐いて刀にそれを纏わし、宙を思いきり薙いだ。その距離わずか十メートル。魔力の炎が鋭い斬撃となって飛び、火竜を真正面から真っ二つに切った。
しかし、
『残念、ハズレよ』
切った火竜はすでにただの炎だった。
不自然に動く炎、それが本体だ。少女は目を凝らして火竜の亡骸を見る。すると、火竜の下腹部辺りだったところからヒト型が現れた。空はすぐさま攻撃を加えようとするものの、マーリーの挙動に思わず攻勢を躊躇った。
燃える火竜の亡骸を両手で掴むマーリー。直後、炎は手元に集約されてハンドボールほどの火球となる。それを見とめた空は歯を食い縛って、刀を正眼に直した。
マーリーは超至近距離から火球を全力で投じた。
小さな火球は彼女の手元から離れた瞬間にその大きさを三倍近く膨らませ、轟々と燃え盛りながら空の矮躯を狙った。
だが、空は怯まない。逃げない。
少女はただ吸気し、仰け反って、喉元から口内にかけて赤化魔力を短時間で圧縮。そして刀も使わず、
「――!」
直系二メートルの火を吐いた。
直後。
飛龍と火竜の間で巨大な爆発が生じた。
空中に花が咲き、爆風に吹き飛ばされそうになる中でも、少女は怯まなかった。爆発越しに幾度も刀を振るい、マーリーのいた周囲に斬撃を飛ばし続けた。その数、十と四。
爆発さえ掻き消すような斬撃の嵐に、少女も彼女が深手を負った事を確信する。が、
「……うそ」
少女は目を見開けて驚嘆する。
爆発の黒煙の先、少女の視線には小さな炎があった。小さな火の塊は、翼を持ったトカゲのような形で空中を浮遊している。すると、マーリーの声が耳に届いた。
『炎を舐めないでよ。蝋燭の火から地獄の業火まで、あたしに為せない事はないわ!』
火竜は限りなく小さくなる事で、空の斬撃全てを避けたのだ。
火神の闘いは激化していく。
*
*
ドルガーは高高度の位置から海上の様子を俯瞰していた。
その中で、マーリーたちの戦闘もある程度観測をしていた。そして、先程マーリーはトカゲのように小さくなっているのを遠目にだが、この目で確認した。
青年は苦笑した。昔日の、火竜の使い魔との別れを思い出しつつ、
「不器用なヒトだ……」
心の中が晴れ晴れとした気分になる。そして、もう戦闘を見る必要もないだろうと、彼はそう判断した。自分を支える部下に言葉を作る。
「敵船団の上空まで移動してくれますか。私もそろそろ出ましょう。それと、君は私を落としたら後方のアナーヒアさんに指揮権移譲を伝えて下さい」
「了解しました」
部下は翼を畳み、一気に降下した。
*
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激しい炎同士の激突が続いている。
マーリーは四肢のみを炎と化して攻撃を加えて、空は燃える刀をそのまま相手に振りかざしていた。両者の勢いは完全に拮抗する。
マーリーの炎を空が刀で切り、空の刀をマーリーは炎で押し返す。弾き合っては翻り、再度ぶつかり合う。力と力の押し合いだった。少しでも気を緩めた方の負けになる。
空は相手を切りつける中で、刀の力に内心驚いていた。
……凄いこの剣。ちょっと火を噴きかけるだけでも大きな炎になる。思い通りに動いてくれる。
この武器がどんな構造でできているのか、空にはさっぱりだが、少なくとも、これが炎を巨大化させたり、こちらの意思に応じ炎の質を変えたりしてくれるものだという事は十二分に理解できた。だから、
「どんどん行くよォ―――!!」
空は翼に魔力を込めて、更に加速した。
*
*
激しい打ち合いの中でマーリーは歯噛みした。
……っく、炎の制御が!
ここに来て、神力〝火天〟を使った大爆発の反動が響いてきた。
自信の炎を正確に制御し切るだけの精神力が保てない。出力不足で相手に押され始めているのだ。加えて、ここでやった気が付いたが、もしかしてこの相手は、
……陰りがない? まさか全部自前の魔力で戦ってるっていうの!?
今、ムンバイに溜まっている陰性の大魔力を消費するため、インドや神州関係なく精製によって魔力を消費している。マーリーもその内の一人だ。
だが、陽性に限りなく近い炎の精霊である自分にこの条件はかなり厳しい。故に、自分の魔力や周囲の無性魔力を逐一使っているのだが、それでも相当の疲労が溜まっている。
この少女も、自分と同じ条件の筈だ。しかし、少女に辛そうな表情は見えない。むしろ、どんどん元気になっているようにすら思える。
……どうして精製でそんなに元気でいられるのよ。自前の魔力でここまでやってるにしてもおかしいわ! ああもう全っ然分からないわ!!
少女の放つ炎を、自らの炎で迎撃する。
とうとう初動ですら後れを取り始めていた。一歩追い付けず、相手にインパクトを決め切れずに押し切れない。
状況は、かなり不味い。
リュウ属相手に戦い、勝った事など幾らでもある。が、全て短期戦で相手の限界など知る事もなかった。もしかしたら、リュウ属はここまでの魔力貯蔵量を持っているのか。考えても確かめる方法がないのだから意味がない。
今は全力で行かなければならないのだ。故に、
「……お!」
彼女は拮抗した中で、敢えて勝負に出た。
*
*
空とマーリーとの距離が開く。
一方は翼、一方は炎を駆使して宙を旋回する。
両者は互いをその双眸で睨み付け、再度全速力で接近を開始した。その距離七十メートル。
加速度的に迫る二人の中で、マーリーは神力を発動させた。力を込めるのは右の拳。彼女の神力は、燃焼を魔力を糧に無条件で膨張させる。故にこの状況で神力を用いれば、必然的に、
「……おお!」
空の炎の斬撃を、彼女は神力で思い切り殴った。
神力〝火天〟が引き起こす燃焼超過は、空の炎とマーリーの炎を対数的に増加させる。肉薄する二人は一気にその爆発に飲み込まれた。
一瞬の爆発の中でマーリーは笑む。高エネルギーの爆発下で、火の精霊であるマーリーのみが自由に行動できるのだ。まさに水を得た魚。彼女は炎を泳いで、空の居場所を一瞬で探り当てた。
『食らえ!』
炎の拳を握り、爆発に吹っ飛ばされる空の腹部目掛けてアッパーカットを見舞った。重い手応えが腕に来たのをマーリーは確かに感じる。確信を得て、彼女は一歩下がった。
直後。大気が爆ぜる。
轟音と共に一際巨大な花が天に咲いた。
黒煙の中でマーリーは空の行方を目で探した。神力の影響で魔力で探る事は難しい。故に殴った方向と爆発の威力から考えて、ある方向に予想を立てた。だが、
「―――?」
彼女は疑問符を浮かべた。眉根を寄せる。
……いない?
少女の姿が、どこにも見当たらなかったのだ。
胸の底から来る言い知れぬ不安。全身の汗腺が開くような不快感が、彼女を襲う。
爆発は空を襲った筈だ。自分の拳は確かに命中した。だのに何故、その姿が見えないのか。
理解し切れない現状に、彼女はふと不意に苦笑を浮かべた。
勝負を諦める。
自分の背後。わずか数十センチの距離に、刀を構えた矮躯の少女がいる。
*
*
敵が神力を使うと分かったのは、もはや勘としか言いよがない。
一瞬の躊躇もなく、空は握る刀に防御の意思を伝える。刃はそれを汲み取り、マーリーの神力が発動する直前に、炎を切り離し、少女と炎に隙間を作る。
爆発すれば、刀は少女に襲い掛かる爆風と炎を真正面から受け止めて魔力として吸収し、少女を守り切る。が、敵の攻撃だけは、空自身が受け止めた。
見た目が少女とはいえ、本体はあの飛竜だ。彼女の身体の強度は、地上五階から飛び降りてもびくともしない。故に拳だけはわざと食らい、その後の大爆発も刀で防ぎ切った。
……今度はこっちからだよ!
相手は勝利を確信して油断している筈。煙と魔力に紛れながら、わずか数秒で空はマーリーの背後を取って見せた。
「――ふ」
敵は笑っている。
どうやら敗けを認めたのだろう。故に空は、刀にある一つの意思を伝える。
……炎を操るのなら、このヒトが死なないくらいに炎を小さくさせて。
少女は刀を前に放った。
*
*
一瞬の出来事だった。
マーリーは背中に細長い物体が当たる感触を得た途端に、身体の自由を奪われ、そのまま少女の蹴りで海に落ちた。
水しぶきを挙げて、海中に入る。
海水が、炎であるマーリーを侵食していく。内側に滾る生の焔さえも消えていくようにその大きさを縮めていき、やがてマーリー自身の意識も朦朧とし始めた。
彼女は眉尻を下げた笑みを浮かべる。心の中で、彼の顔を思い浮かべながら、
……役目は果たしたわよ。これで良かったんでしょ? ドルガー。
身体が動かない。
このまま沈めば、本当に死んでしまう。彼に何も告げずに去るのも悪くない。前もそうだったのだから、この際諦めてしまおう。
しかし、そう思った矢先、彼女の頬に温かいものが触れた。
目蓋を開ける。と、ぼやけた視界の先に、光が見えた。
優しく、静かな光。温かく自分を包み込んでくれる光。手を差し伸べてくる紺の少女の眼差しに、彼女は笑った。
……ああ。
きっと。
きっとこんなヒトが、神と呼ばれるのだろう。
火は、日の温かみにその身を委ねた。
*
*
彼は永い時を生きた。
それこそ、気の遠くなるような長い時間だった。
だが、彼は消えるのを良しとはしなかった。
見ていたかったのだ、自然が織りなす傍若無人な世界を。
時には嵐。時には火事。時には洪水。時には暴風。時には津波。時には熱波。
自然の引き起こす猛威は、実に見ていて面白い。それまで自然自らが築き上げたものを、自然が壊していく。痛快にして奇々怪々。いつ起こるか分からぬ破壊に、彼は等しく歓喜した。
そう、あの有象無象の者どもが現れるまでは。
奴らは貧弱な動物だった。そこいらの猛獣にも素手では歯が立たない。自然の営みにすら負けてしまうほどの弱さ。彼は当初、こんな種は早々に消え去ると思っていた。
しかし、違った。
奴らは知能という武器を持っていた。牙でもなく、爪でもない。見た限りでは分からない、内側に秘めたる力を持っていたのだ。
奴らは瞬く間に増殖した。彼の予想を遥かに超え、知能という武器を最大限に発揮して、奴らは自然をも掌握し始めた。
それを、彼は最初良しとした。これもまた自然、自然が生み出したものなのだから、奴らが自然を徐々に侵食するのもいいだろう。そう思ったからだ。
だが、やがてそれは崩れ去る。奴らは増え過ぎた。
彼の目には余るほどの量。まるで蛆虫のように地を這いずり回る奴らを見るのは、もはや苦行でしかなかった。いっそのこと、一気に洗い流してしまおうかとも思った。
否、こんな世になってしまっては、もう関わるのも嫌だった。彼は深い闇の中でひっそり眠りに着いた。
――いつの日だったか、不意に彼は起こされた。
奴らと同じ見た目をした〝何か〟がやってきたのだ。今まで見てきた奴らとはどこか違う。彼ですら不気味に感じた言い知れぬ印象を、しかし〝何か〟が崩した。
『――私どもの所で、お暇を持て余しては如何ですか? 悪いようには致しませぬゆえ』
永い時の中で、彼は初めて驚くという感情を得た。
あれほど醜悪に見えていたケダモノが、まさか己と同じ言葉を話すなど思ってもみなかったのだ。それだけで、彼には長年消えていた面白味という感情が再び起こった。
彼は起き上った。そして立ち上がる。
歩を進めて、それを見る。
醜悪に満ちた世。最後に見た時よりも更に有象無象が増えた世を。
見るに堪えない世界。
関わるのも汚らわしい世界。
穢れに犯された世界。
彼はそれを、再び良しとした。
ここまで穢れた世ならば、逆に清々しいではないかと。そう思ったからだ。
しかし、その期待は壊される。彼を起こした者たちによって、だ。
「……余を謀りおって」
静かに歩む彼は、獣よりも更に恐ろしい眼光を湛えて、そこに起った。
下は揺れる海面。前には暴れ狂う穢れに満ちた醜悪な者ども。見ているだけで悪寒が奔るその様を、彼はすまし顔で眺める。
「貴様ら有象無象はもはや自然の一部などではない。自然でなき存在に、余が情けをかける義務はない。故に消えろ。余自ら、その槌を振ってくれよう」
万の年月を生きる彼。
その魂は自然そのもの。彼が怒る。それは、自然が怒るも同然。
自然の猛威は無慈悲にして無人格。ただ猛威を振るうのみ。だから彼は自然と同じように、自ら意思という枷を外してみせた。
「――さあ、自然の慈悲を受けよ」
ぬらり、と彼の身体が霧に包まれた。