第二十五章:激情の焔
第二十五章:激情の焔
*
外部から来る戦闘の震動。
部屋内部に置かれた机や壺、様々な調度品が小刻みに揺れ、戦闘の激しさを物語っていた。一体どれほどの近距離で戦闘をすれば、これほど揺れるのか。
彼はふと、馬鹿にもそんな事を考えてしまっていた。
「――ッ」
背が痛む。まだ韻が熱を持っているようだ。
うつ伏せになりたいところだが、生憎彼にはそこまでの体力がなかった。できれば、このままじっとして体力の回復を待ちたい。
小さく、整えるように呼吸をする男。白髪の混じった髪に黒い瞳。今にも力尽きそうな肉体はしかし、彼を生かそうと必死に魔力を汲んでいた。
「……はぁ、――エリス、いるか」
彼、海瀬は、片割れの少女の名を呼んだ。
意識すら混濁し、魔力のコントロールさえ難しい今の彼には、霊体である少女の場所すらも掴めなかった。それ故の問いかけに、しかし答えは返ってこなかった。
「――――?」
彼女と魂を共有してから二十年。無反応という返事は初めてだった。
どういう事だと海瀬は疑問に思う。が、彼女を探すためにここで無理をしては、本当に死んでしまう。心で怯んでいても、子に何も伝えずに逝くなど子不孝なものはない。彼女には申し訳ないが、ここは痛む身体を労り、しばらくは魔力の操作を控えよう。
「…………ハぁ」
海瀬は今自分が置かれている状況を整理する。
マーリーとの戦闘中に背中の紋韻が発動し、エリスに抱えられたまま気絶した。意識が戻ると、おそらく局内部の見知らぬ一室に自分が倒れていた。
周りには誰もおらず、ここまで連れて来たであろうエリスの気配すらない。せめて彼女さえいてくれれば、体内魔力の整調や治癒の手伝いでまだ回復が見込めるというのに。
……このままエリスが来てくれなければ、万事休す、と言ったところかな。
ユイが死んだ時から、希望的観測はしない事にしている。夢を見て絶望するのはもうこりごりだ。
誰もいない部屋。
戦闘の震動か、それとも魔法発動の余波か。部屋の家具は幾つも倒れている。敷調高い室内ではあるが、かつて名声を上げた魔法使いの死に場所としては、
……惨めなボクの死に場所には、荒れたここが丁度いいかも知れない。
海瀬は口元を少し緩めて、くすりと笑った。
だが、すぐに、彼の笑みは苦笑へと変わっていた。声を押し殺すように、彼は、
「――君は……、一体どこまで、ボクを救うんだい?」
背中に奔る、焼けるか如き痛み。
じわじわと肉を焦がす痛みは、逆に、彼に温かい感情を与えていた。
海瀬は思った。熱くて、とても痛い、と。
……君と一緒にいるといつも暴力沙汰で、相手が魔術師なら所構わず火を放つ。治術も痛みの走るものばかり。君といると、痛みばかりだったよ。ユイ。
でも自分は知っている。
……君は、ボクに教えようとしていたんだ。命の重さを、生きる痛みを。
知りもしない人間を救うために、海瀬は命を捨てようとした事がある。
そんな彼に命を救われたからこそ、ユイという女性は海瀬の命を、誰よりも重く見ていた。
その重みは、ユイ自身の命すら霞ませた。
炎。
人の感情とすら呼ばれるそれは、時に人を温め、時に人を傷付け、時に非情となって周りを焼き焦がす。ヒトだけが唯一持つ、ヒトの英知の象徴。
それが炎だ。
……ユイ、ボクはそんな君に惚れ込んだ。君はボクに救われたと言った。でも、本当に救われたのはボクなんだ。
遠野という家名を持ったが故に、人生の意味を見失い、逃げる事すらできなかった自分を、その身を挺して引きずり出してくれた彼女。見知らぬ少年を命懸けで守ろうとした彼女だからこそ、
「――ボクは、君を愛したんだ……」
全身に激痛が走る。
奥歯を折れるかというほど噛み締めて、飛びかける意識を何度も繋ぎとめる。
手を着け、身体を起こし、膝を着いて床から離れる彼は、そこから更に、地に足を着けた。
「……ガはッ」
内側が軋み、海瀬は血反吐を吐く。
だが、足に込めた力を緩ませる事などない。彼は激痛に抗って、その全身全霊を賭けて、立ち上がった。
軋む。
胸が、腹が、腰が足が腕が全身が。錆びた機械のように軋み、断末摩の悲鳴を挙げる。
しかし、
「ボクは生きている、まだ!」
瞳に確かな光を込めて、彼は一歩を踏み出した。
行く先は決まっている。
*
*
海上では戦士団とインド軍の混戦が続いている。
互いに各箇所で激突を繰り返し、船を壊し壊され、戦士たちも次々に落とされていく。それでも戦いだけは激化していた。
空中で指揮を取り続けているスーツ姿の青年。
彼は、戦場の状況を把握しつつもムンバイ自律結界の状態を確認し、その上で、
「アウヴィダ様、アナーヒサの状態はどうですか?」
治癒性の高い神力を持つ彼女の状態を確かめようと、ドルガーはアウヴィダに念話を送っていた。しばらくすると、
「(そろそろ起きる頃でしょう。後方支援に向かわせます。結界に着いては私が出、ホールも向かわせますが?)」
「結構です。アナーヒアさんさえ来てくれれば、もう二、三十分は戦闘を持続させられます。アウヴィダ様はどうぞお好きなように」
「(ほほ、分かりました。ではアナーヒアを呼んで参りましょう)」
微笑の声を通す老婆に、ドルガーは言葉を送った。
「望むものは変わらず?」
「(それは私の言葉です、ドルガー。私は止めませぬ。貴方のご随意に)」
その言葉を最後に、二人の念話は切れた。
宵のアラビア海、激戦に灯る明かりを俯瞰しつつ、ドルガーは小さく吐息した。
冷たい瞳に映るのは悲しみではなく嘆き。何故という問いかけのみだ。
……何ゆえに貴女様は、理解を望まぬのです。貴女様の考えは正しい。どんな経緯、どんな手段を用いようとも、結果として得るものが万人の望むところであれば、それは正しい。
いつの日か、彼は彼女に問うた。皆が貴女を軽蔑している、と。
貴女は間違った事をしていない。ただ対価を求め、そしてそれに見合った物を与えているに過ぎない。なのに何故貴女が卑しまれるのだと。
貴女の努力は正しい。
貴女の考えは正しい。
貴女の行為は正しい。
皆は貴女を計り違えている。それを何故、
……何故解こうとしないのだと、私は貴女様に問い質しました。
結果として返ってきたのは、いつもの優しい微笑みだけだった。
私は気にしていない。そう言いたげな苦笑、ただそれだけだった。
彼は悔しかった。親に捨てられた自分を何も言わずに拾ってくれた彼女が、日々に妥協を許さず懸命に生を送る彼女が、何故貶められるような状況に立たされているのか。それが悔しくて悔しくて、堪らなかった。
そして、それを良しとする彼女の在り方にも、納得が出来なかった。
一滴の水、一切れのパンでさえ満足だと言い、悩める者の救いを考え続ける。
彼女の努力は正しい。
日々努力を怠らず、備えを忘れず、ただ必要な物をだけを求める慎ましやかな人生。
彼女の考えは正しい。
苦を楽とし、楽を喜とし、喜に哀を重ねる。ひたすらに世の喜を願い、手を差し伸べる。
彼女の行いは正しい。
彼女はことごとく正しい。正しいのだ。
努力を怠った者は、努力した者が得る杯を妬む。
考えを持たざる者は、考えた者の授ける乳を嘲笑う。
行うべきを行わざる者は、行う者の姿を見下し、ただ願うばかり。
正しくない者どもが、正しさのために過ちを犯す彼女を非難する資格などこの世に在りはしない。
故に理解させる。野蛮な者どもに、彼女の求める安寧を。奴らが嘲笑い妬み、ただ願うばかりの理想。一切れのパン、悠然たる世界にヒトの生の謳歌を視る彼女の正しさを。
望むものは変わらない。
またいつか、あの焼け焦げた砂の地を、稲穂に咲く大地を、風雨に耐える森の地を。等しく己が足で歩み、生き、心に灯る静かな鼓動を噛み締める。
己は今、ここに在るのだ、と。
そのためには、この世界に永遠の歯車を着けなければならない。我らが着け、彼らが廻し、そして皆の手で紡いでいく。
この世界を生む者がいれば、それを支える者がいて、壊し新たに生む者がいる。
自分たちは支える者たちだ。だが、自分たちにはそれを支え続ける事は無理だ。否、支えるばかりでは意味がないのだ。いつかこの世を真に滅ぼし、本来の姿に戻すであろう者たちが現れるまで、人々が等しく安寧に次の時代を待つことのできる世にしなければならない。
何故ならば、
「――ここまで努力してきたあの方に、少しばかり楽をさせてはくれませんか? ずっと支えていては彼女に等しさなどどこにもない」
彼女はそれを良しとはしないだろう。彼もそれは十二分に分かっている。
皆に理解させ、絶対の物を授けようとも、自分たちの求めるモノが手に入る訳ではないのだから。この世界を支える者になってしまったがゆえの苦。また旅をしたいなど、到底言える訳もないのだから。
それならばせめて、皆が求め、皆が動き、皆が信じて行ける世を作るのが我らの役目だ。
本当に悔しい。どんな苦であろうとも、貴女は微笑み、楽しんでしまうのですから。
「一度ばかりは、文句を言ってもいいでしょうに」
青年は眉尻を下げた笑みを浮かべ、止まぬ戦闘の激音に吐息を漏らす。
ドルガー・シークリー。本名スハルト・ラシング。
己を地獄から掬い上げてくれた老婆への恩返しのため、そして己の信じる道のため、彼はここまで辿り着いた。
悪をもって正と成す。悪道を貫く商売人の弟子として、だ。
*
*
大きさ、色、属性、威力、種類。
どれもざっくばらんに飛来してくるそれらを、遠野は相反した魔弾を精製して次々に撃ち落としていた。その量は尋常ではない。数にしてみればすでに百と五十は越えている。
それもその筈。見定めなどしていたら追い付かないと、彼は目視できた時点で魔弾を放っているのだから。目視できる範囲全てを、だ。
それは近くで目的を同じくする波坂、そして後方の高度で構える蒼衣が処理できるものすら含めて、一挙に引き受けているにも等しい行いだ。
決して無謀ではない。現に出来ているのだから。しかし、これまで数時間以上神力と異能を使い続け、挙句に保護領域から遠く離れたインドの地で行動をしているのだから、無理をしていないなどという言い訳は通用しない。
二ヶ月前の蒼衣との戦闘でも。神力と異能の同時発動から六時間が限界だった。それも荒々しい、激しく戦況の変化する戦場での話だ。彼は数時間緻密な作業をし、その上で、この地でこんな迎撃を行っている。
その疲労は言うに及ばず。通常の精神ならとっくの昔に倒れているところだ。それを知ってか知らずか、遠野の脳内に罵声が鳴り響いた。
「(遠野・和時! 貴方、ご自分が一体何をしているのか分かっていますの!?)」
波坂の激昂。何をしていると聞かれても、雑務をこなしているに過ぎないのだから返答に困る。思考能力すら緩慢になり始めた彼に、再度波坂は激を飛ばした。
「(元上官としての命令ですわ。即刻貴方が負担している処理の三割をワタクシに、そして会長に四割明け渡しなさいな! 反論は許しませんわよ!!)」
「(今は俺の方が上官だ。だから―――)」
断る、と言いたかったのだが、波坂は念に殺気すら込めて、
「(縛して根こそぎ奪いますわよ?)」
渋々、遠野は視野を中央に狭めて連射速度を緩めてやった。
経緯を知らぬ蒼衣から文句が来なかったのは、おそらく暇だったのだろう。おかげで遠野も数発落とす毎に少し手が空いてしまう。視界の端で、波坂の魔弾、蒼衣の小規模な〝竜撃〟がよく見えるようになった。
遠くの戦闘の経過を随時確認しつつ、彼は一息ついた。そして、手元で役目を今か今かと待つ刀に視線をふと落とした。
炭刀〝火君〟。遠野の実母が生み出した火炎系術式補助とかいう、ようは燃える刀と聞いた。この刀を引き抜けるのは、鬼村が言うには自分だけらしい。が、
……俺だから引き抜けた訳ではないだろう。おそらく親父たちに抜けないようにしていたんだろう、元から。
海瀬たちは戦っていたと聞いた。なら、自分の武器に使用許可を厳正に掛けておくのは当然の事だろう。仲間とは言え自慢の一刀、易々と使わせる訳にはいかない。たまたま自分がその制限を、抜刀までクリアしたに過ぎないだけだ。
……現に、俺はこの刀を刀としてでしか使えない。抜けても、炎を宿らせる事は叶わなかった。
実母の形見に刻まれた字を見詰める。それは仁義礼智忠信考悌。かの里見に伝わる文献に出てくる人間の持つ八つの徳だ。魔術師にしては、中々酔狂な文字だと遠野は思った。
手にしっくりと来る刀。金属ではなく炭素を元にして造られるこれはダイアモンドなのか、刀身は薄らと透けている。とても燃えるとは思えない。しかし、
……誰ならそれができるのか。
見てみたいと思うと同時に、遠野は顔を上げた。光が見える。
赤い光だ。ゆらゆらと燃え、幾度となく場所を入れ替えて空中を行き来する光。遠野の母親と同じ、炎を纏う少女。もしかしたら、という思いが、彼にはあった。
そんな淡い感傷的な気分が、彼が炭刀を持つ手にも力加減として現れていた。
「……空」
果たして彼は気付いていたのだろうか。形見の刀を手にした瞬間から、彼の内側に起こっていた様々な感情が徐々に和らいでいる事に。
*
*
時たま来る小さな震動に、棚の薬瓶や小物が揺れる。
二つの病床が置かれた医務室には、二人のヒトがいた。
一人は全身に火傷を負い包帯に包まれた黒髪の少年。もう一人は、緑の髪を二房に結った色白の少女だった。
少し切れ長の目を持った少女は、しかし悲しそうな瞳で少年を見詰めている。
少年は宿禰。それを見守る少女は朝臣だった。
宿禰の周りには魔力で編まれた霊体が幾つも浮いている。彼の唯一の持ち物とも言える術式残留記憶媒体。通称〝本〟が、それぞれ項毎に分裂していて、絶えず何かを処理しているようだった。
しばらく浮いては消えて、また新たな貢が現れる。その繰り返しをどれほど続けているだろうか。朝臣の表情は浮かないものだった。
「…………」
インドとの模擬戦。第二戦にて、朝臣はインドのアッシュナグと対戦した。
衛生兵と軍師の戦闘は、途中までは朝臣の有利、終盤では勝利を確信できるほどであった。が、戦闘慣れしていないゆえに油断をして、不意を突かれて敗北をした。
超至近距離での粉塵爆発。朝臣は即死と覚悟したが、彼女は五体満足に生きている。
彼女を救ったのは宿禰だった。どこから飛び出したのか、一瞬のうちに朝臣の前に立ち、情報吸収という能力を持つ〝本〟と自分の身を盾にして、朝臣を守り切ったのだ。
「――――」
朝臣は俯きがちに、宿禰の手に自分の手をそっと添えた。
宿禰の火傷はそれほどでもない。爆発の衝撃は〝本〟がその大半を吸収してくれたからだ。故に、傷だけなら彼はもうすでに完治に近い状態にある。それでも、朝臣の顔は暗いまま。
不安は別のところにあったのだ。
宿禰の〝本〟は、外界の霊子を吸収し、その情報を記録して貯蓄するもの。貯蓄場所は、彼の脳だ。〝本〟で吸収した情報は全てそこへ記録される。
人間の記憶領域は海馬という部分に集約されている。だが、そこで正確に覚えられる情報量は多くはない。人間の脳は酷く曖昧な覚え方をしているのだ。
それを宿禰は、脳内の他の部分を海馬として無理やり代用する方法を編み出し、人間という高度な脳を持った種に新たな可能性を見出した。脳を完全な記録媒体にするという考えだ。
当然人体実験などもってのほか。故に彼は自らにその処置を施した。人間の五感、運動、本能、理性、記憶、全てを一手に処理する脳を、限界ぎりぎりまで海馬という事にしてしまったのだ。無論作り直すのではない。〝本〟で無理やり上書きするのだ。
奇怪な、それも本能的言動ばかりが目立つのも、彼が理性の部分を多少ならずとも記憶領域に書き換えているからだ。
そして、それは朝臣にとって今最も恐れる事でもあった。〝本〟は万物の共有する霊子を情報化して上書きする。その能力を、宿禰は爆発に対して行った。とどのつまり、爆発という高エネルギーの大半を、未放出のまま情報として脳内に記録した。
……普通なら焼き切れてる。脳なんて、どうやって直せばいいのよ!
宿禰の周りに浮遊する〝本〟の貢たち。奇怪な文字が書かれたそれらは、出現する度に辺りにエネルギーをわずかながら放出している。おそらく、宿禰なりの防御策なのだろうが、人を即死させるレベルの爆発が持つ情報量がどれほどか、朝臣には計り知れない。
故に恐ろしかった。自分が、彼を殺してしまったような気がして。
同じ小隊ではあるが、とても仲が良かった訳ではない。分隊も違い、人付き合いでもあまり接点がなかった。時たま写真を求められるくらいで、彼女としては〝これが自分と同じ中尉で、小隊長補佐なのか〟と内心岩戸小隊長の人選能力を悲嘆さえしていた。
だが、朝臣の味方は、今では違う。インドに来た初日、ふと故郷を思いだし泣いていた自分を、彼は励ましてくれるような言動を取った。先程に至っては、美少女を守るなどといってこの死に体になっている。
「訳が分からないわ……」
でも、とても嬉しい。朝臣はそう思った。
だからこそ、自分のこれまでの行動がとても恥ずかしく、そして悔しかった。
自分の弱さに甘んじて泣き、慢心に不意を突かれてしまう。自分の馬鹿さ加減に、怒りを通り越して笑いさえ込み上げてくるほどだ。
唯一取り柄だった治癒術も、脳相手では要領を得ずに手詰まり。こうやって見守り続けるしか方法がない。外交団のメンバーとして選ばれておきながらのこの体たらく。あまりの不甲斐無さに、朝臣はただただ俯き、後悔する事しかできない。
だが、ふと少女は身体を反応させた。医務室の戸が開けられたのだ、誰かに。
椅子から立ち上がって、誰だろうかと戸の方に行くと、そこには、
「あ、アナタ伍長の……、っ、大丈夫なの!?」
口から血を垂らし、息も絶え絶えに壁に寄り掛かる海瀬の姿があった。
少女は慌てて彼に駆け寄ると、海瀬は荒い息をしながらもこちらの瞳を真っ直ぐ見据えて、
「……君か、ありがとう。頼みがある。治せるだけ、治してくれるかい」
「治せるだけって」
困惑する朝臣の肩に手をズシリと掛けて、海瀬は小さく告げる。
「せめて、役目だけでも果たして逝く」
彼の気迫に、朝臣は息を呑むしかなかった。
*
*
インドと神州による模擬戦。
その第六戦に当たる追加戦は、アラビア海で起きる戦士団とインド軍との交戦と、ムンバイとの真ん中で行われていた。
海上の宙を駆ける二つの光。どちらも赤く灯るそれは、まるで踊り狂う鳥のように宙を撥ね回り、凄まじい速度で激突を繰り返していた。
第六戦:蒼衣・空対マーリー・カウ・クリシナ。
飛竜と火竜の戦いは、しかしまだヒト型で行われていた。マーリーは足から放つ熱気、空は手中からの魔力放射で空中を飛行し、激しい肉弾戦を続ける。
激しい戦闘。数回の突きや蹴りを交わすとどちらかが吹っ飛ばされて、両者は再び宙に弧を描き、接近すればまた突きや蹴りを交わしてどちらかが飛ばされる。
その連続は正しく拮抗しているかのように想えたが、しかし、状況は空の方に芳しくなかった。実際に、吹っ飛ばされる確率は空の方が圧倒的に高い。
単純な問題だった。間合いや体術の練度、何よりも単純に手数の差だ。
矮躯の空では長身のマーリーの手足の長さには到底叶わず、殴り合えば確実にマーリーの方が先に拳が届く。獣化しての戦闘を重点的に訓練する空では、肉弾戦にその強靭な腕力を使うしかなく、必然と大振りな攻撃となり、それだけマーリーにも対処し易いものとなる。
そして、最大の問題は手数の差だ。両足からの熱気で滞空する彼女と両手を使って飛ぶ空とでは、圧倒的にマーリーに有利だったのだ。何故なら、マーリー自身が火であるため足のいかなる場所からも熱気を出す事が可能であり、どんな態勢でも姿勢制御が取れるから足技も可能。
それに対して空は、手から一直線に魔力を放出するしかなく、小回りは多少利くが常に両手が塞がる状態に立たせられる。二つの放射陣ではどうしてもバランスが悪いのだ。
それに故に、手数の差がこの戦闘の優劣に大きな意味をもたらす。
しばらく激突を繰り返す空もそれにはすぐ気が付いた。だから、途中からはあるタイミングを見計らう事だけを考えていた。それは、
「――――!」
激突寸前での獣化だった。
爆発的な勢いで広がる魔力の霧。肉体から霊体の本体へと切り替えるこの瞬間に生まれるその霧は、いわば獣化中の自分を守る壁だ。濃密な魔力は魔力の干渉を防ぎ、視覚を奪う事で物理攻撃も当たり難くなる。その上、
……相手が霊体なら、霧の勢いで内側に少しはダメージが与えれる!
簡単に言えば、魔力の爆発だ。霊体を本体とする精霊には、かなり有効なダメージを与えられる。
翼のはためきで霧を吹き飛ばした飛竜は、更に翼を一振り、元いた位置から距離を置いた。
霧のあった場所を見る。すると、小さな灯りが見えた。蝋燭の火のように燃えるそれは、次の瞬間にはすでにヒト型の炎へと生長していた。
じわじわとヒト種の肌色が見え始め、数える暇もなく空の知るマーリーの姿が再生された。
『……全然効いてない?』
「ええそうね、大して効いてないわ。見え見えだもん」
うう、と空は作戦の失敗に小さく呻いた。が、すぐに気持ちを切り替えた。
……相手はまだ火竜になってない。なら、わたしの神力で一気に飲み込もうかな。
思案する空だが、目の前の女性が見せる余裕の笑みに若干の危機感を覚えていた。それは獣の勘に近いもの。しかし、獣化した以上攻撃手段は更に限られる。
体当たり、〝竜撃〟、それと神力〝劫火業炎〟。その三つだけだ。どれが有効かは全くの未知数。取りあえず攻めるしかないのが現状だ。
故に、動く。
空はその鱗に覆われた身体を咆哮に震わせて、一直線にマーリー目掛けて突撃した。
首の骨格を筋力で固定して、喉奥に魔力を加圧。数瞬で飛竜種の顎からは放散型の〝竜撃〟が放たれていた。
波状に広がる圧力に、しかしマーリーは急上昇という一手でその効果範囲から瞬く間に逃れる。眼下を見て攻撃が通過したのを認めた彼女は、再度飛竜にその瞳を向けようとした。
眼前に飛竜の姿はなかった。
一瞬息を詰め、敵の行動を予測しようとする彼女。驚きによる、わずかな身体の硬直がマーリーの決定的な隙となった。
雲にも近い遥か上空で、蒼い飛竜は紅蓮の瞳を落とす。優雅に天高く居座る竜はしかし、次の瞬間に翼をたたんで一気に落ちた。
自由落下。翼をたたみ抵抗の少なくなった飛竜はまさに槍。天から彼女を穿とうとする一つの武器そのものだ。
激突まで残り三秒もないというところで、ようやくマーリーが上空を仰いだ。
少女と彼女の視線がかち合う。
マーリーは気付くのが遅れた事に歯噛みし、次いで己の身体を火炎と化した。内側から爆ぜるように変わる肉体は灼熱を放ち、彼女は足先の推力を更に増大させた。
待ち構える。
高低に分かれての相対において、有利は圧倒的に高に位置する者だ。それ故の油断、否、少女の無知が少女の身を滅ぼしたに過ぎない。この状況下で、数手先も読めぬ少女に勝利はあり得ない。
天を穿つ飛竜種が女を貫こうと肉薄する。互いの視線が濃密に交わり、己の指先に至るまでの感覚が鋭敏になる。それは、まるで時間という濃度が一気に改竄されたかのよう。
二人の感覚は高速の中で、しかし長い瞬間を得ていた。
マーリーを貫通力で押し通す気でいた空は、激突する寸前に炎のマーリーが笑んだように見えた。全身の汗腺が広がるような言い知れぬ動揺が身を侵す。
結果として、空の行為はただの自殺行為となった。
激突する一瞬の間で、マーリーは絡みつくように飛竜を包み込み、己の炎でその鱗を焦がしてその肉を焼いた。
『――!』
飛龍の悲鳴にも似た吠えが響く。
制御などする暇もなく、飛竜と火は一直線に海へと落ちていった。
だが、海を避けるようにマーリーは早々に空から離れて空中にその身を移した。苦痛からの解放、激痛に耐え抜いた意識で少女は海面ぎりぎりで翼から魔力を打ち出した。
突然の圧力に海がへこむ。一瞬ばかりできるその巨大なクレーターはすぐ波と変わり、辺りの波を呑み込んで海流を荒らした。
翼で加圧した魔力を更に放射して、飛竜は宙の火の前へと舞い戻った。
『…………』
『良い気味ね。あんたみたいなワイバーンとサラマンダーを同格とでも思ってたの? 悪いけど、勝負にならないわ。それをこれから証明してあげる』
かかってらっしゃい、とマーリーは嘲笑の顔で手招きした。
その挑発に空は乗るほど馬鹿ではなかったが、
『――!』
攻めぬ事には始まらないのもまた事実だった。
*
*
火竜の言う通り、飛竜は一度として優勢たる位置を得られずにいた。
激突する二人の竜。一方は蒼鱗の飛竜。一方は炎身の火竜。
激しい空中戦は常に飛竜の不利に立たされている。運動速度、機動力、パワー、どれも飛竜が打ち勝てるものがなかった。
全方位に放たれる推進力は高速高運動を可能とし、灼熱の身体はパワーという括りで説明できるようなものではなかった。その上、
『――! ――! ――!』
飛龍が続けて三弾。前方を翔ける火竜に対して小規模の神力を放った。
少女の神力である火炎弾は唸りを挙げて豪速で火竜を追い、数秒でその炎に直撃する。が、少女の神力が威力としての爆発を起こす事はなかった。
直撃。そう直撃した。だが少女の炎は、彼女の炎に直撃し、そのまま、
『……まただよ』
飲み込まれたのだ。
最初は威力が弱いから敗けているのかと思った。しかし、隙を見て全力に近い火炎を吐いてみれば、それすらも飲み込まれ、エネルギーごとマーリーの所有物となっていた。
炎が全く効かない。道理など考える前に、打つ手がなかった。どうやって戦えばいい。肉弾戦も無理、神力も不可、高機動の相手に〝竜撃〟は諸刃の剣だ。
〝竜撃〟は反動とその威力が強いため、姿勢制御に余力の全てを注ぎ込む必要がある。一度の空中戦で そう何度も使えるものではない。それこそ、火竜を撃墜するほどの威力となれば、全力に近い用意をしなければならない。それ故に、空は、
『――――――』
火竜に対して真正面から突撃を仕掛けていた。
その馬鹿げた行動に、火竜マーリーは怒声を挙げた。怯みもなく、
『分からないの!? ワイバーンとサラマンダーじゃ勝負にならないのよ!!?』
猛スピードで火竜に突っ込んでくる飛竜を、しかしマーリーは真正面から受け止める態勢を取った。翼を広げて、突撃した飛竜をその身の炎で覆いかぶさる。
肉体形状を変える事で飛竜の前身は業火に飲み込まれ、全身の肉が焼けた。
『――!』
身体中を高熱で焼かれる痛み。
飛龍は堪らず、そしてすかさず海へ飛び込んだ。が、マーリーは海面すれすれでまた空から離れていった。飛竜だけが海中に落ちた。海水が飛竜の身体を犯す。
……み、水が。
火傷を負った身体に塩が染みる。だがそれよりも、水という概念が火神である空を侵食し、生気が抜けていく。身体が水を取り込むようにどんどん重く感じてくる。
早く逃げ出そうと、飛竜は慌てて翼から魔力を放った。海水を押しのけて、空は無理やり海上に飛び出た。
瞬間、眼前に紅い炎が見えた。
直系三十メートル近い大火炎玉だ。紅く光る姿はすでに小さな太陽にすら思える。
自身の魔力を濃厚に込めた火炎玉を抱え込む火竜。海に落ちた飛竜を彼女は悠々と待ち構えていたのだ。
……避けれない!
瞬間的に悟った少女だが、為す術も無く炎は放たれる。
少女の巨躯を丸ごと呑み込んだそれは、まるで突き放すように飛竜を吹っ飛ばした。方角は岸辺の方。
丁度、遠野の頭上近くを通過していく形で、飛竜は中高層のビルディングの外壁に叩き付けられた。
『――』
もはや吠える気力も保てなかった。