第二十三章:儚き意思
第二十三章:儚き意思
*
空がゾンビに慣れた頃、彼女は違和感を覚えていた。
辺りで蠢くゾンビたちが、いつの間にかいなくなっているのだ。
無論、ムンバイ市民に倒されているのだから少なくなるのは道理だが、それ以上に消えるペースが早いように思えたのだ。
……うう、臭いのせいで全然周りがどうなってるか分からないよう。
この腐臭さえなければ、どのゾンビが消えて、新たに生まれてくるゾンビとの判別くらいは着くのにこれでは視認で数という大雑把な情報しか得られない。それに、
……どうしてこのゾンビさんたちは和時君のお母さんのいう事聞いてるんだろう。
一見意識がないように見えるゾンビだが、よくよく見れば、個々の反応や市民への干渉の仕方がバラバラで、どう見ても操作しているようには見えない。自由意志を剥奪されているとしても、こんな異色な動きをするものでもないだろう。
故に空は、彼らは自らの意思でエリスに協力しているように感じたのだ。
そしてそれは、正解だった。
確かにゾンビたちには命令に従うという感情が積極的に注がれてはいるが、最終的に判断をするのは死霊自身。どう動くか、どう働くかすら、死霊に与えられた自由だった。
故に彼らは謳歌する。再度肉体を得、行き場所のなくなったこの世への未練を晴らすために全身全霊で世界を動き回る。
それが、エリスの死霊魔術最大にして唯一の弱点だった。
「ゾンビは怖いけど、皆楽しそうだね」
空の呟きを正確に聞き取れたのは、横にいた蒼衣ただ一人だった。
少女の台詞に、蒼衣は口元を緩めた。
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成程、と蒼衣は笑んでいた。
横の空がぼそりと紡いだ言葉だけで、蒼衣には彼女の考えが読めた。
元より似たような考えを持っていたせいかも知れないが、分かったのだから良しとしよう。
……成仏という契約か。
霊がこの世への未練を断ち切り、死者のあるべき場所へと帰る事を成仏という。
が、未練にしがみ付き、もしくは行くに行けない霊が稀にいる。それらが長年穢れに晒された末に悪霊などへと変貌し、延々とこの世の苦しみに嘆き続ける事になるという話がある。
そして、そんな者たちを導くのが巫術や退魔、降霊などを重視する魔術師たちだ。
巫術は願いを聞き、退魔は邪か存在そのものをあるべき場所へ帰し、降霊魔術は使い魔として別の役目を与え満足させる。
エリスの死霊魔術も、根本原理は死霊限定の巫術だろう。
……死霊魔術は本来霊魂からの助言や安易な使役だけだ。が、ゾンビを操り、その上降霊の特性も取り入れるとなれば、銀髪の魔術は相当に質の悪いものと言えよう。
正確な事は分からないが、あのゾンビたちは役目を果たせば自動的に成仏できる。
残るのは霊体が分解され散らばる魔力。先程まで使役していた物体だ。エリスにはほぼ確実に独占権がある。つまり、
「霊体数十万近くを形成する魔力を、あの銀髪は間接的に有している、という事か」
正しく化け物、いや神と呼ぶに相応しい存在だ。何故ならば、
……帰る場所を失くした霊にとってみれば、銀髪の存在は煉獄に垂れる蜘蛛の糸と同じだ。
その上、最低限の役目を果たせばあとは自由。霊はもはやエリスの望みを喜んで聞く筈だ。空の楽しそうという言葉がそれだ。彼らは愉しんでいる。
長年の苦しみを忘れ、消え逝く事を謳歌している。
……全く。とんだ掘り出し物を見付けてしまったようだな、オレは。
新たな知識ほど、蒼衣を刺激するものはなかった。
故に惜しい気持ちで堪らなかった。そのような規格外の研究対象、武装を、あと数年で失うと思うと、
……利用できる価値が限られてしまって面白くないな。しかし、貴様らの息子はまだ奥が知れぬ。これからもオレを愉しませてくれそうだ。
蒼衣は胸のポケットに手を突っ込む。
「……人生は面白い」
彼は胸に仕舞っていた時計を見て口端を歪めた。
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エリスは愉しんでいた。
今、エリスの手勢は当初のオオダコ一体から、ジャバウォックが十体、バンダースナッチは二十八体、単体が六十七体、そして、
「この子の事も忘れないでよね」
オオダコの大木のような足が、異形の軍隊を相手取るドルガーを襲った。
天を覆うような極太の足は勢いよくしなり、周りにいたゾンビたちごとドルガーを吹き飛ばした。
オオダコの攻撃にジャバウォックとバンダースナッチが分裂し、新たなゾンビが八十体近く生まれてきた。何度となく切り捨てても蘇るゾンビたちに、ドルガーは若干の苛立ちを覚え始めていた。
「腕が八本あるとは言え、これはかなりの持久戦です。敵の消耗速度はそれこそ十万人の貯蓄から掻い摘む程度、こちらはヒト一人ときました」
市民の方々にも相当な負担を強いている。
私がこれ以上頼る事はあってはならない。と、ドルガーはそう強く思っていた。
何としても十万人全てを叩き切る。
彼の戦闘態勢に、しかしエリスは吐息した。
「ん~。イマイチだなあ君、もっと身体の底からゾクゾクしてオネショしちゃうような快楽頂戴よお」
「――――」
ドルガーの顔が険しさを増す。
エリスの笑みが、先程よりも濃く、邪悪さに満ちてきていたからだ。まるでこちらがゾンビを倒す毎に、内側から穢れで犯されていっているようで不気味だった。
「――ふふ」
気味の悪い笑い声が世界に漏れる。
浅黒い軍神へ目掛けて、百九十六体の怪物がその足を動かした。
『……ゥ』
死体の轟々たる呻き声が地鳴りとなって響く。
ドルガーは静かに腰を沈めて、死体へその鋭い双眸を突き付けた。
「――おお!」
男の絶叫が世界にこだました。
が、しかし。
直後。世界に異変が起こった。
「!?」
停止したのだ。世界そのものが。
「……ぁ」
銀髪の少女の目が見開かれ、手を前に振ったまま動きを停めている。
その表情は驚愕とも動揺とも取れ、不意の事態に思考停止しているようだった。ゾンビたちですら、強制停止を食らったように動けないでいる。
「か―――」
エリスが怯えたように、急に肩越しに後ろを見やった。
そこには一見オオダコしかいない。が、彼女はその更に向こう。世界の外を覗いていた。少女の頬が一瞬強張る。ややあってから、
『――カイセ!!?』
彼女が叫んだのは、彼女の半身たる男の名だった。
常に余裕と笑みを絶やさなかった彼女が、初めて声を荒げ動揺を隠す素振りすらない。
ズ、と地面がいきなり揺らいだ。
地殻が割れたような感触。その震動を契機に、一気に世界の形成維持が崩壊した。
まるで箱庭の中が切り崩されるように地面、空、建物が、その概念ごと消えていく。
突然の事態に、代表たち、市民ら、そしてドルガーさえも驚嘆を拭えなかった。
唯一現状を理解するエリスは、もはや世界の崩壊など気にも留めず世界の外にその心を傾けていた。
「一体何が……!?」
驚きの声を抑えきれないドルガーだが、眼前のエリスは躊躇わなかった。
世界をぐるりと見回した少女の絶叫が一声の許に響き渡る。それは、
『be over(終われ)――!!』
死霊全てが、爆ぜた。
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悪霊がその存在ごと抹消される退魔。
力をもって屈服させ、こちらの存在のみに満足を与えて浄化させる行為。
強制浄化。この時それが行使された個体数は、三百四十五万と六千五百四十四体にも上り、魔力量で言えば次元にすら干渉可能なレベルの莫大なエネルギーだった。
爆心地で黒く重い海の渦潮のように渦巻く大魔力が、世界を覆い尽くす。
魔力の暴風雨の中。エリスは無心で、餓えた獣のように魂の内側に取り込めるだけの魔力を吸収した。 悪霊の陰性に満ちた魔力は禍々しく、あっとう間に彼女の存在を犯し尽した。
病的なほど白く色の抜けた肌に漆黒の髪、瞳はダークブルーに染まる。その表情は消え去り、制御し切れないエネルギーは世界の外へと無理くり放出された。
『――ぁ、ウ』
声にならない吐息が世界から漏れる。が、やがて、
「……かイセェ――――――――――――――――――――――――っっ!!!!!」
焦点すら合っていない目を剥いて、エリスはその姿を煙のような魔力へと変換した。
直後。世界は崩壊への速度を一気に速めた。
内包されていた存在が、外へと弾き出される。創造者はすでに、世界にはいなかった。
*
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海瀬は顔を歪めたまま動けなかった。
槍を振るう寸前の姿勢で、何かを耐えるように歯を食い縛っている。
突然の制止に、マーリーもまた疑問で動きを止めていた。トドメを刺しに行くべきか、状況の理解を優先すべきか。
彼女は決めかねていた。が、迷った時点でトドメを刺す機会はすでに逸している。故にマーリーは海瀬の顔を見詰めて停止した。
驚きに満ち、しかし確かに何かを感じ取っているその表情は、
「……ユ、い、なのか―――!?」
彼の瞳は、己が背中へと向けられていた。
海瀬の背にあるもの。それは、
「なぜ、紋韻が……!?」
紅く光を放ち輝く、焔のような紋韻だった。
延焼の韻。
海瀬の戦友であり、遠野の実母である女性が彼に刻み付けた紋韻。それは、互いの魔力供与経路を一方通行にさせる役目をもった韻だった。しかし、それだけではなかった。
韻は、供給者がいなくなれば、韻を刻まれた者の足枷となる筈の韻だったのだ。
足枷。
とどのつまり、海瀬が過剰な力を行使しようとした際に発動する拘束具。
力が大きければ大きいほど、韻は赤く燃え、刻まれた者に灼熱の痛みを与え続ける。本来ユイが死んだ時点で開始される韻の効果は、歴戦で歪んだ海瀬の魔力炉やエリスに存在によってその効果を発揮できていなかった。
それが、前日のアウヴィダによる体内改善によって、海瀬は完全なる紋韻を得た。
これ以上無理をしないで欲しいという、ユイの願いが込められた紋韻を、だ。
海瀬の身体の内側から業火の熱が迸る。彼は槍を構えたまま、顔を歪めて歯噛みした。
「ユイ、君は一体どこまで―――」
海瀬の頬に涙が伝う。
「――ボクを守るんだ」
君は嘘つきだ。任せてくれるって、そう言ったじゃないか。
このまま死なせてくれ。海瀬は心の底から、そう思った。
膝が崩れ落ちる。彼を繋ぎとめていた堰が切れ、立ち上がる気力を奪った。限界の状態から始めた彼の肉体はすでに崩壊寸前、韻の発動によって彼は魔力の制御を誤った。
世界に亀裂が走る。
海瀬は瀕死の状態で更に致命傷を受けたのだ。韻の効果が、その場所を間違えた。
彼は地面へ受け身も取れず倒れ込んだ。
生命力と同値である魔力。その流れを一定制限する紋韻。瀕死の彼にそれは毒にも等しい。ユイは知らなかったのだ。変革によって、海瀬の魔力量が一介の魔術師と同じになった事を。
世界が崩れる。
概念から崩れ去っていくその中で、マーリーは新たな訪問者を目にした。たなびくような煙だったそれは、徐々に肉を得ていき、
「――カイセ!!」
知らない女性だった。
白と黒が混じりあった髪に濃さに違いのある白い肌、瞳は紺と碧のオッドアイ。一見、それは神州の、海瀬の妻に思えるのだが、
「雰囲気が……」
内側が違うものに感じたのだ彼女は。しかし、
「カイセ、大丈夫?」
「ああ、この上なく腹立たしい気分だよ」
倒れた海瀬を胸に抱いて、女性は眉尻を下げた笑みを浮かべた。
「急に流れが止まったから驚いたよ。何があったの?」
「ユイの紋韻が発動した。魔力炉の精製量を制限して、越えたら熱に強制還元だ。――エリスは知ってたのか」
「知ってても言わないよ。ユイの考えはユイだけのものだから」
彼女の消した言葉に、彼は悲哀に満ちた瞳で息を吐いた。
「ハぁ……、これだから魔術師は嫌いなんだよ―――」
そう言い残して、海瀬は静かに目を閉じた。
彼を抱いたまま、エリスは世界の崩壊を待った。
大草原の世界は、その内側から光に包まれ、確かな存在を外へ吐き出した。
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日没を越え、天蓋はすでに紺色に染まっている。
極寒の天空に、ふと一つの花火が咲いた。
小さな爆発に見えるそれは、しかし高高度だから小さく見えるだけで、本来は直径五十メートル近い爆発だった。
落ちる物体がある。
爆発に近い場所で、直下へ落ちる物体。落下速度はどんどん上昇して、地上の、港の傍にある建物目掛けて一直線に落ちていた。
物体は小さい。全長二メートルもない。縦に長い形状。それは、
『第一落下傘、テンカーイ!』
物体の後ろから傘が生えた。半球状に似た、直系五メートルほどの傘だ。
空気抵抗を一気に受け、物体の速度が減速した。数秒後、傘が外れる。
抵抗を失くし、物体は再び速度を上げ始める。が、ややあってから、
『ハーイ! 第二落下傘、展開シマース!』
二度目の傘、今度は直径六メートルだ。速度が更に落ちる。
傘の数は合計四個。
二つ目が離され、三つ目が終わり、最後の四つ目が展開された時、物体の高度は上空三百メートルの位置に着けていた。
眼下には、半壊したインド神話体系局が見える。
物体がその手を、腰に着けていた細長い物に手を掛けた。地表まで残り百メートルを切ったところで、物体は四つ目の落下傘を切り離した。途端、落下速度は再び加速を始める。
が、落下していく最中で、彼は瞬時に集中力を臨界まで持っていく。風の感触、音、雑念を全て取り払って、彼は言の葉を紡ぎ出した。柄に手を掛け鯉口を切り、
「――仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」
遠野は〝火君〟を抜刀した。
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本来の世界から来る揺り戻し。
無理やりな崩壊だったのか、ドルガーは激しい悪寒を感じていた。
額に手を宛がいつつも、彼は辺りを見回す。
局は半壊していた。
上階層の中央部分が崩落し、くの字に折れ曲がったようになっていた。ドルガーが立つのはその折れた上層部付近。
「どうやら元の場所に戻されなかったようですね。これでは他の方々もどこへ飛ばされたか判断に困ります。ともあれ、エリス嬢は逃げ出したのですから、第三戦は私の勝利です」
納得のいく結果ではなかったが、勝てたのならいい。
しかし足場が悪い。あまり頭も本調子ではない。ドルガーは杖替わりにと、手中に魔力剣を生み出した。床に突き刺して、一息つく。が、ややあってから、
「――あのヒトが逃げ出す訳ないだろう」
「っ!?」
どこからともなく、男の声が彼の耳に届いた。
咄嗟に剣を構える。全身の感覚を周囲に向ける。だが、敵の気配はどこからも感じ取れなかった。
「お前の中には敵は横から来るとしか記されていないのか? ――上だぞ!!」
言われ、ドルガーは頭をかち上げた。ソレはいた。
上空数メートルの差で少年が刀を振り上げていたのだ。反射神経だけで、ドルガーは剣を頭上に振り上げた。
甲高い、響き渡るような衝撃音が鳴った。
ドルガーの剣が割れ、少年はドルガーの足下の地面に叩き付けられる。
両者が態勢を立て直すまで数瞬。
少年は刀で逆袈裟、ドルガーは再度剣を生んでそれを受けた。続いて二撃、三撃と少年の連撃がドルガーを襲う。突然の状況に彼は対処をするだけで手一杯だった。
しかし、攻撃を受け流す中で、彼は相手の衣装に見覚えがある事に気が付いた。
……紅白の制服に中将の階級章―――、まさか!
「スサノオですか!?」
詰問に、少年は即答した。
「だったら何だ!!」
強烈な後ろ蹴りが、ドルガーの腹部に命中。彼を吹っ飛ばした。
ふ、と少年は小さく息をついて、手中の刀に視線を落とした。刀身、鍔の近くには、人の徳を表した〝仁義礼智忠信考悌〟の文字が刻まれている。
それを確認した後、彼は刀を素早く鞘に納めた。
「……一体、何だというのですか貴方は、まったく。いきなり攻撃してくるなどとは」
吹っ飛ばしたドルガーがおぼつかない足取りで戻ってきた。
「少し馬鹿にされた気分になったからだ。すっきりしたのでもう攻撃はしない。安心しろ。それで、――お前の相手だった人はどこへ行った」
ドルガーは多少の苛立ちを感じながらも、質問には正確に答えた。
「不明です。戦闘中、いきなり動きを止めて、動転したふうに夫の名を呼んで消えてしまいましたので。戦闘からの離脱はルール上敗北を意味します。故に私の勝ち、以上です」
「成程。逃亡ではなく離脱、行き先は分からず、か。まあそこはひとまず置いておくか」
ひとしきりに独語した少年は、踵を返してこの場を去ろうとした。が、
「待つのです!」
ドルガーがそれを止めた。彼は肩越しにこちらを見やる。
「名くらい、正式に名乗ってから去って下さい」
すると、少年はくすりと笑った。眉尻を下げた笑みで、
「――遠野・和時。三面の英雄神スサノオを襲名した、ただの無能者だ」
遠野は、インドへ降り立った。彼は仲間たちを探しにその場を後にする。小声で、
「……しかし、空気が悪いな」
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ムンバイ市街が一望できる。
ムンバイに沿う形で存在する湾。その反対側に位置し、アラビア海にも面するウラン。
そこでも比較的標高の高い丘に、その者はいた。
インド神話体系局の衣装を纏い、長い長髪を後ろで一房に結った少年。
アナンタ・カーリアだ。
彼は表情もなく、ムンバイを眺め続けている。静かに、激情を押し殺した声で、
「――余の庭を、よくも穢しおったな、あの死霊め」
彼の目には映っていた。ムンバイの地脈の乱れが。
「濁った魔力。次元すら干渉できるほどの規模で撒き散らしおって」
アナンタは、局の方へと目をやる。
憎悪に満ちた瞳は、ヒトたちを睨んでいた。
「この始末どう処理をする。どうなろうと人間ごときにこれをどうこうする力などあるまい。この地が崩れるぞ! ……あの人間ども、よくも余を謀りおったな。所詮蛆は蛆。醜悪に争いを繰り返し余の庭を穢す。愚弄よ!」
アナンタの視線は、次に海へと移る。
遠くから来る気配に、彼の顔は歪む。くくく、と込み上げる嗤いを押さえながら、
「――全て食らってしまおうか」
黒髪の少年は、闇夜に消えた。
*
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アウヴィダは溜め息を漏らした。
局の二階。大広間で、一人椅子に腰掛けている老女は、周囲を知覚しつつ、
「上が崩れましたか。いえ、それよりも死霊数百万の浄化の方が問題です。溢れ出た負の魔力がムンバイの地脈を圧迫している様子。海岸線の結界が仇になりそうですね」
独り思案を続けた末、アウヴィダはこめかみに右の人差し指を立てた。
「この声が届く全ての者へ告げます。私はアンジュ・アールス・ガンジィ、インド神話体系局局長兼連合議会議長を務める者に御座います。
現在インド体系局と神州神話機構の模擬戦は混乱状態にあり、情報の提供を積極的に求めます。ただし、第三戦は終了したものとみなし、勝者はドルガー、敗者は戦線離脱したエリス様とします」
老女の全方位へ送られた念話。応じる声は、すぐ現れた。
「(こちらは神州神話機構、全部長の蒼衣・龍也だ。神州代表者たちは先程の発言を認める。第四戦については、こちらの遠野・海瀬がまだ意識不明だ。急ぐならば、そちらマーリー氏の発言を積極的に容認しよう)」
「支持感謝致します。それではマーリー、状況説明を。できれば全方位へ」
アウヴィダの妖精に、少しの間を開けてからマーリーが応じた。少し疲れ気味の声で、
「(こちらインド神話体系局代表級、アーディティア群隊長兼貿易艦隊総指揮官のマーリー・カウ・クリシナよ。第四戦、遠野・海瀬との戦闘は、途中遠野氏の、おそらく発作によって中断しているわ。戦闘続行は難しいわね。これで勝ちってのは後味が悪いわ。できれば無効試合にして欲しいけど)」
「神州側、マーリーの発言の可否を」
「(是非もない事だ)」
分かりました、と老女は言葉を返す。
「それでは第五戦の後に追加戦を行いましょう。こちらはマーリーを選出する事を確定とします。第五戦は―――」
その時だった。突然、爆音が鳴った。
一つや二つではない。無数の爆音が断続的に鳴り響いたのだ。
それは海側から来たもので、海岸線付近、それも広範囲に水柱が立っているのが数秒遅れでも老婆には感覚で悟った。港に停泊していた局所属の護衛艦たちは、すでに事態を把握しているのか、急ピッチで出港準備を進めているように感じられる。
アウヴィダの頭は瞬時に仮定状況を立てて、次の事態のために念話を飛ばした。全方位ではなく海港の 管制塔室長を務める者へ、
「何故気付かなかったのかはこの際後としましょう。敵襲ですね。規模は?」
「(――も、申し訳ありません! 不明であります! 本官を含めて管制官の全てが管制塔にいません。今急行しておりますので、着き次第連絡を!)」
「あの魔法使い様の仕業ですか。しかし、では護衛艦の方々は何故いるのでしょうか」
「(おそらく敵意で選別していたのでありましょう。光に呑まれる寸前、我々は試合の映像を注視しており、船員たちは前日の奇襲で外へ気を配っておりましたから)」
老女は吐息をして、室長に急ぐよう催促した。
……予想外ではありませんがタイミングが悪過ぎるようです。ひとまず模擬戦は中断、……いえ、ここで再度慌てれば前日のも合わせて私共インドの面子が危うくなります。大事な時期に失態を連続して起こす訳には。ならば、やはりここは片手間に進めるべきでしょう。
まさに傲慢の極み。アウヴィダは敢えて愚策を取った。
何故ならば、
……地脈の件もありますゆえ、できれば早々に結果を出したいのですよ。
内心で苦笑を浮かべると、ややあってから、蒼衣から個人念話が来た。
「(オレだ。老体よ、状況を察するに敵襲であろう。いかな采配をするのだ?)」
「模擬戦はこのまま進めさせて頂きます。第五戦、こちらの代表は私が務めましょう。場所は局の二階大広間。――敵襲については無論迎撃、そちらはご随意に致して下さい」
「(よかろう。では、神州からは―――)」
「(俺がやろう)」
突然、蒼衣とアウヴィダの念話に介入者が現れた。
……個人同士の念話に介入とは、久しぶりに見る芸当です。
介入者は、反論がない事を見て己が名を語った。それは、
「(神州神話機構所属、幕僚長及び陸上部中将の遠野・和時だ。文句はないな?)」
蒼衣とアウヴィダ、両者は無言の肯定を示した。そして、
「――それではお待ちしております」
そう告げてアウヴィダは念話を切り、次いで護衛艦の面識のある艦長に念話を送った。
「私です。艦長、状況を」
「(っは! ――現在、アラビア海沖合にて所属不明艦より多数の魚雷攻撃を確認。哨戒に出ていた艦は全て轟沈せしめられと思われ、管制塔の不在中に起こったものかと。こちらも魚雷接近まで発見が遅れました!)」
「味方の救助と敵の規模の確認を最優先、管制はもうじき復旧します。それまでは随時状況判断を行い、独自に艦を動かして結構。準備が整い次第出港、できれば随伴可能な艦は待ってあげて下さい」
『承知! すでに航空偵察部隊を投入しております! 確認が取れ次第局長へもご報告奉りますが!』
艦長の問いに、しかしアウヴィダは拒否した。
「必要ありません。私には他の仕事がありますので、情報は全てドルガーと管制へ」
「(――っは!)」
十秒後には、港の護衛艦たちが緊急出動を開始した。
「急に忙しくなりましたね。慌ただしいのはあまり好きではないのですが。―――ドルガー、聞こえていますか?」
「(はい、管制へは今向かっています。他に何か?)」
「それで結構。ですが一つだけ告げておく事があります。――自立結界は絶対に発動させてはなりません。指揮に差し支えあっても、それを徹底するように。最悪の場合、我々は三つ巴の戦いをここでする破目になります」
『――――』
老婆の言葉の意味を分かってか、ドルガーは押し黙った。
「(分かりました。しかし、戦力に関しては召集、市民の避難、救助を優先させますがよろしいですか?)」
「最善を尽くして下さい。神州の方々もお力を貸して頂けるようで―――」
「(いい流れになって、いますか?)」
老女の言葉を遮って、ドルガーはそう言った。彼女は、
「――ほほ」
笑みを溢すだけだった。
*
*
エリスの見た目はまた幼女へと戻っていた。
その小さな背に男一人を担いで、必死に隠れる場所を探している。
担がれているのは気絶した海瀬だ。エリスは、何かから逃げるように必死に歯を食い縛って歩を進めていた。
小さくなったのは出来るだけ海瀬への負担を減らすためだ。逃げるのは、見付かりたくないから。今、あの子に見付かる訳にはいかない。
あの子がどんな答えを出したかは分からない。しかし、こちらを気遣った答えを出すのは明白だ。あの子はそういう子だ。口では突き放しても、大切な物へは甘い。
自分で言うのも何だが、あの子は自分たちを信頼してくれている。悪さをすれば怒るし、甘えたら恥ずかしそうに逃げる。小さい頃から何一つ変わっていない。でも、これからはそうであっては困る。
明日に自分たちが存在している保証なんてどこにもないのだ。
このまま死んでしまうかも知れない。そんな状況なのだ。だから、あの子には弱い自分たちを見せたくない。
……私は、カズトキの、憧れのままでいたい。綺麗で可愛くて、強くて凄くて、ミステリアスな、絶対越えられない壁になりたい!
親としてのプライドだ。
親にとって子は子。親はいつまでも子の上でありたい。見守れる存在でありたい。
弱いところなんて見せて、同情されたくなんかない。常に立派な親でありたいのだ。
……だから、
「私はァ、カズトキの〝お母さん〟! 可愛いカズトキの〝お母さん〟になってあげるんだから! ユイの、――ユイにも頼まれたんだから。カイセを見てるって」
まったく、
「ユイもカイセもイジワルだよねェ。エリスさんだって、ヒトくらい好きになるもん!」
カズトキがお母さんって呼んでくれる限り、私は〝お母さん〟するんだから。
でも。
もしも、あの子が自分たちを嫌ったら。そんな思いが胸の底に沸く。
エリスは首を振る。振って嫌な想像を振り払おうとする。だが、一度思い付いてしまった嫌な想像は二度と消えはしない。
意思に反して、反芻するように頭をぐるぐると回っていく。
もしも、もしもと。
あの子に罵倒されるかも知れない。嫌われるかも知れない。泣かれてしまうかも知れない。二度とお母さんと呼んでくれなくなるかも知れない。
二度と会うなと言われるかも知れない。
白黒の混じった髪が揺れる。エリスは下唇を噛んで、傍にあった扉を蹴って開けた。
「何でこんな事考えてるんだろ、私は」
昔は死ぬのなんて怖くなかった。仲間を守れるのなら、仲間のためなら、幾ら死んでも怖くなかった。
でも、今は死ぬのが怖い。あの子に嫌われるのが怖い。
何故なんだろう。
仲間のためなら、嫌われてもそれができた。でもあの子のためでも、あの子に嫌われると思うと今は躊躇ってしまう。
何故。
ずっと自分は、あの子の事を、自分のトモダチと同じくらい好きだと思ってきた。
それなのに何故。それ以上の感情をあの子に抱いてしまうんだ。
一緒にいた時間、一緒に戦った時間、大切な時間を一緒に過ごした時間は、ずっとトモダチたちとの方が多いのに、どうして。
「(……家族が、欲しいの)」
ずっと昔、大切な子が言っていた。
家族が欲しいと。
どうしてと自分は聞いた。家族は大切だからと彼女は答えた。
何故大切なのかと尋ねた。家族にしか築けないモノがあるからと答えた。
それは何だと、私は問うた。彼女は答えた。
友達にはないもの、と。
友達も大切だけど、家族もずっと大事だと。
エリスは部屋の奥へと海瀬を引きずっていく。重い。
ああ。
……ユイ、分からないよ、私には。
父も母も好きだった。友達も好きだった。自分はそれで終わった。
だから分からない。理解できない。
彼女が本当に求めていたものなんて。でも、
……分かるよ。
エリスの心に映るのは記憶。
友との出会い、友との争い、友との信頼。
そして、あの子が生まれ、あの子が育ち、あの子が甘えてきて、あの子が成長していく。
可愛くてしょうがなくて、ずっと見ていたいくらいに大好きで。弱いところも強いところも知ってて、楽しそうに毎日を送っているのが嬉しくて、幸せになって欲しいと思う。
ずっと見ないでいた。ずっと否定していた。
自分の人生が築いてきた戦いの友情よりも、あの子と出会ってからの何気ない日々の方がとても温かくて、こそばゆくて、替え難いほどに眩しい。
……ああ。
馬鹿だなあ、私は。
美しい記憶が蘇る中で、エリスは頬に何かが伝うのが分かった。
「――私はお姉ちゃんなのに、ユイの欲しいモノ、全然分かってなかったよ」
やっと分かったよ。でも、お姉ちゃん失格だね。
瞳をそっと閉じて、少女はにんまりと笑った。
力が抜けていく。
美しい栄光の記憶が消えていく。
今まで堪えていたものが、流れていく。
「…………」
海瀬が、床にどさりと倒れた。
そこには男が独り、倒れていた。他には誰一人、いはしなかった