雪の降るクリスマス(月立版)
エレンは、小さな畑で、額を拭った。
白シャツの袖口とオレンジのオーバーオールのすそも土埃で茶色くなっている。拭った額のすぐ上にある赤毛の前髪も埃まみれ。
首をぶるぶると振ると、束ねた後ろ髪が空になびいて、すぐに背中に落ちた。
地平線の果てまで農園が続く片田舎。
その一角に、エレンの父の農場があった。この地域の農家としては平均的な広さの農地、ほとんど変わらない気温のために一年中農作ができ、順々に作物を育てあるいは休ませているため、上空ら見ればきれいなモザイク模様が見えただろう。
休作地の一角に父が十メートル四方の囲いをし始めたのは、エレンの十二歳の誕生日の一か月前だった。
エレンの十二歳の誕生日、ドールとケーキと花束に加えて、エレンにその小さな畑が贈られた。農家の一人娘としていずれこの農地を継ぐだろう彼女に、なんでもいいから作物を作ってみろ、と父は言った。
最初の半年間は、芽さえ出なかった。
農家を継ぐつもりなんてなかったけれど、この事実が彼女を意地にさせた。
ようやく芽が出たのが九か月目。
その苗も一度はダメにしてしまい、そして空白の畑を抱えて十三歳の誕生日を迎えた。
誕生日のお祝いはまた盛大なものだったが、空の畑のことは何も言えず、何も言われなかった。
エレンは、父に負けたくないと思っていた。
優しい父だとは思う。けれど。
本当に良い人なら、お母さんは父を置いて出て行ったりしない。
全部、父が悪いんだ。
立派な作物を作って見返してやって。その時に『こんな農家継がない』と言ってやろう、と思っている。
十二月も上旬を過ぎても、常春のこの地で畑作業をすると額に汗がにじむ。
いくつか萌え出した芽を守ろうと、必死で雑草を抜いた。
クリスマスイブには、学校の友達同士のクリスマスパーティがある。誘われた。でも、行かない、と言った。畑仕事で太くなった腕や荒れた手先をそんな場所で見せたくなかった。それもこれも全部父が悪いんだ。
「今年のクリスマスプレゼント、何か欲しいものはあるかい?」
その日の晩御飯の席で、父が言った。
「いいえ、何も。お父さんのくれるものは何でもうれしいわ」
エレンが返すと、父はにっこりと笑った。
他人行儀な物言いに気付いているはずの父が、屈託なく笑うのを見て、エレンの心は乱れた。どうしてこんな人が父なんだろう。
突然、意地悪を言いたくなった。
「……お母さんが欲しい」
その言葉に父は目を見開き、それから、視線をテーブルに落とした。
「父さんだけじゃ、嫌か」
「嫌。どうしてお母さんは出て行ったの」
答えなんて分かってる。この父と私が嫌いになったからだ。
父はしばらく黙っていたが、遠くに視線を向けた。
「母さんは……地球生まれだったんだ。遠く、二百光年離れたこの惑星にお父さんと来て、でもやっぱり、地球が懐かしかったんだな。だから、独りで帰って行ったんだ」
「私も行きたかった」
エレンは言いながら涙ぐむのを止められなかった。
「もうすぐクリスマス。地球じゃみんなふかふかのサンタの格好してて。イブには雪が降るの。凍える寒さに思わず手をつなぐの。なのにここは、いつもぽかぽかで雪なんて降らない。ロマンチックなことなんて絶対起こらない。ずっとずっと何も起こらず何も変わらず、ぼんやりと生きるだけ。お父さん、私、雪の降るクリスマスが欲しい」
***
例年どおり、クリスマスイブの日はやってきた。
学校が終わって、いつものように畑に出て、雑草を引いた。
今度の苗は下葉がたくさん出始めていて、前みたいに枯れてしまわないかもしれない。
これを立派に育て上げたら、私も地球に行こう。
その一心で、エレンは作業を続けた。
やがて夜になった。
家に帰ると、早めに作業を切り上げた父が家じゅうにクリスマス飾りをしていた。ローストターキーとプディングも準備してある。なんでも形から入る父。
食事が一通り済んだところで、父は、気に入るといいが、と言いながら、洋服を一セットプレゼントした。それはちょっとしたドレスだった。来年はもっと背も伸びるから、今着てほしい、と父は言った。
エレンは反抗せずにそれを着に部屋に戻った。父のご機嫌取りなんてごめんだけれど、イッパンロンとして贈り物には敬意を払うものよ、なんて言葉を、着替えの間、何度かつぶやいた。
リビングに戻ると、父はいなかった。
トイレにでも行っているのか、と思っていると、息を弾ませた父が納屋の方から駆けてきた。
「おう、エレン、似合うじゃないか。若いころの母さんに似てきたよ」
「そう? ありがとう」
型式通りのお礼を言って、一礼する。
「さあ、庭に出て。空を見よう」
父はおかしなことを言いながら、エレンの手を半ば強引に引っ張って庭に面するウッドデッキに出た。
そして空を見上げる。ただ真っ暗な空が頭上を覆っている。
と、そんな中に、小さな白いものが。
ふわり。
エレンは思わず息をのむ。
小さなものは二つになり三つになり、数えられなくなった。
ふわり、ふわりと降りてきて、庭先に落ち、緑の芝生の中にすっと消えた。
「お……お父さん、雪、雪よ!」
エレンは興奮して父の横顔に呼びかける。
父は、微笑んでうなずいた。
一面にふわふわと降りてくる白い粒が作る風景は、ビデオで見た地球のクリスマスの風景そのものだった。
エレンはたまらずに、室内履きのまま飛び出した。
ふわふわと落ちてくる一つを手のひらに捕まえる。
それは、冷たくもないしとげとげの結晶の形もしていなかった。それは、小さな泡だった。
雪じゃないと気づいて、少しだけ落胆したエレンの横に、父が立っていた。
「……本物じゃなくて、すまないな。肥料の散布機を少しいじって、泡が降るようにしたんだ」
そして、エレンの頭に大きな手を乗せる。
「……分かってる。エレン、お前は、地球に行って、本当のホワイトクリスマスを見たいと言ったんだろう。だが今の父さんにできるのはこれだけなんだ」
その言葉に、エレンの両目に、また、涙があふれていた。
「ごめんな。父さん、母さんを引きとめられなかった」
あふれた涙は小さなしずくになる。
「そう、そうよ。私、お母さんのところに行きたい。どうしてお母さんが私を捨てたのか聞きたいの」
この惑星が嫌いなんじゃない。お母さんを奪った地球という惑星を見に行って、もしできるなら、鼻で笑ってやりたかった。雪なんて大したことないじゃない、と悪態をついてやりたかった。
だけど、たとえ偽物でも、ふわふわと舞い降る雪はあまりにきれいだった。
「――毎年こんな風景が見られるなら、お母さんも帰りたくなっちゃうよね」
エレンは泣き笑いを浮かべる。
父も目を潤ませながら微笑み返す。
「さて、明日は大変だ。散布機に卵の白身を入れちまったからな、分解して大掃除だ」
「私も手伝う! 来年も、再来年も!」
それから二人は、散布機のタンクが空になるまで降り続けたメレンゲの雪をずっと眺めた。