第17話『灰塚恵』
午後一時。
会場に戻ると、『パイオン』のスペースが端だったこともあってか、灰塚に売り子になれと言われたので、俺は灰塚と一緒に同人誌を売ることになった。
販売を再開した時には残りが三十冊ちょっとだった。五十冊用意したそうだが、俺達に渡してくれた同人誌もあったので、実際に売れたのは十冊ちょっとらしい。このままだと完売できないかもしれないので、俺を売り子にしたそうだ。灰塚は自信ありげに俺を起用したが、何の理由があってなのか。
そして、列が出来るかもしれないから、と列の整理員として直見とエリュが任されることに。受付のような列ができると予想しているのか?
桃田と黄海については、『しろつゆ』の漫画を読みたいと言ったので、灰塚から原作漫画を貸してもらい休憩スペースで熱心に読んでいる。あのような内容の同人誌だったが、作品への興味は湧いたようだった。灰塚も嬉しそうに貸していた。
そんなこんなで、『パイオン』の同人誌販売が再開するのであった。
あっという間、という言葉を初めて身を持って体感した。
元々、十冊は売れていて、絵や内容が良いと広まっていたのだろう。販売再開と同時に数人ほどの人が『パイオン』のスペースにやってきて、すぐさまに購入していく。
そして、気付けばたくさんの人が『パイオン』のスペースに集まり始めたのだ。やけに俺と同年代の女性が多いのがちょっと気になるが。すぐに、直見とエリュが列の整理を行い、残部がどのくらいなのかを随時伝えていた。
同人誌を作成した灰塚が購入してくれた人に同人誌を手渡し、俺は会計係に徹した。たまに、俺が作成したのかと言われた。サークル参加している男性もちらほらいるし、俺が作ったと思い込んだ人がいたようだ。
そんなこんなで、販売を再開してから三十分で同人誌は完売したのであった。
『完売しました。ありがとうございました』
スケッチブックにそう描く灰塚はとても嬉しそうにしていたのであった。
イベントを楽しむ、と決めていた俺達は、同人誌販売の後に行われたアフターイベントにも参加した。事前に参加者から賞品として色紙やグッズなどを募り、これを賭けてじゃんけん大会を行う。
一番人気のサークルが出した色紙については、俺達六人が残ってしまい、仲間内でのじゃんけんの末、俺が優勝して色紙を受け取った。今朝までタイトルが知らなかった俺が持っているよりも灰塚が持っていた方が良いと思い、灰塚に色紙をプレゼントした。
そして、『しろつゆ』オンリーイベントは終了した。
午後五時。
大人の参加者達は打ち上げということでこれから飲み会をするそうだが、俺達は高校生なのでもちろん不参加。それよりも、藍川のことについて話し合いたいと思ったため、片付けを終えるとすぐに会場を後にして、豊栖駅まで帰ってきた。
昼飯を禄に食べていなかったので、駅近くのファミレスに入って早めの夕食に。そのときの話題はもちろん『しろつゆ』であり、俺達なりのイベントの打ち上げを行った。ちなみに、この時は既に日が暮れていたので、エリュは夜モードになっている。
だが、楽しい話はここまでにしておこう。
「……そろそろ、藍川のことについて考えようか」
俺がそう言うと、明るかった空気は重いものへと変わっていく。
イベントを楽しむことを決めたと同時に、イベントを終えたら藍川のことについてしっかりと考えることにしていた。ただ、打ち上げの最中も、灰塚やエリュは浮かない表情を時々見せていた。
「藍川はどうしたいと思っているんだろう」
藍川も言っていたとおり、彼女が抱える負の感情の原因は、一年前に起こった親友と恋人による裏切り行為だ。藍川は親友だった羽柴玲奈と、恋人だった江黒一樹の二人に対して復讐を行おうとしている。具体的には二人を殺害しようとしている。
ただ、俺は二人の殺害を最終手段としか考えていない。何故なら、リーベが原因の解決を条件に藍川の体に入り込んだのだから。
「真っ先に二人の殺害をしようとは考えていないだろう。そこには、藍川なりの目的があるからだと思うんだ」
「それを私達で手伝えればと思っているんですか、椎原君は」
「ああ」
手伝うことはもちろんだが、羽柴と江黒の殺害を阻止するためだ。どんな理由があっても命を奪うことだけはしてはいけないから。そのためにも、藍川単独で二人のところに行かせてはならない。
「……やはり、一年前のことに関して二人から謝ってもらうことだと思います。二人は結衣に申し訳ない態度さえ取っていませんでしたから」
「それが一番だよな……」
藍川はきっと、一年前のことについて納得のいく形でけりを付けたいと考えているはずだ。そのためには、羽柴と江黒が藍川に謝ることが一番だ。
「でも、一年前に謝らなかったのに、今になって謝るのかな……」
そんな直見の呟きに対して、何も言うことができない。彼女の言うとおり、一年前に謝らなかったことは今も謝らないかもしれない。
「謝らなかったけれど、実は悪いと思っていて一年前のことを思い出したときに、やっぱり謝りたかったって思っているかもしれないよ?」
直見の意見を反対するように桃田が言った。
桃田の言うことにも一理ある。時間が経つことで、自分のやったことに対する罪悪感が膨らんでいく場合もある。今だからこそ謝る可能性も否定できない。
「でも、ユイがこんなに悩んでいるのに、もしその二人が一年前のことなんて忘れていたら、それこそショックだよね……」
黄海の言うとおりだったら、二人は即刻殺害されるだろうな。藍川の負の感情が爆発的に膨らんで、それこそリーベに乗っ取られてしまうかもしれない。万が一、その場合になってもどうにか俺達で藍川を救わなければならない。
「羽柴さんと江黒さんの気持ちなんて、その時にならないと分からないわ」
まあ、エリュの言うとおり、二人の気持ちがどうなのかは今の俺達に知る術はない。ここで悩んでいてもどうにもならないか。
「恵さん。一年前のことがあってから、二人がどうしているのか分かるかしら」
「二年の三学期に例の事件があって、三年になったら二人とは別のクラスになってしまいましたからね。でも、例の事件の直後に二人は付き合い始めて、卒業するまで別れたという話は一度も聞いていません」
「卒業も一ヶ月ちょっと前の話だろうから、今も付き合っている可能性は高そうね」
「二人は同じ公立の高校に進学したそうですからね」
「なるほどね。藍川さんは江黒という男子に未練はあるのかしら?」
「それはどうでしょう。事件以降、二人のことは全然話さなくなりましたから。でも、個人的にはあんな男に未練なんて持って欲しくないです。同じことの繰り返しになりそうで怖いですから」
藍川を見ている限りだと、彼女は二人に裏切られたことが許せない感じで、江黒という男子に未練がないように見えるが。まあ、裏切りという行為を行う男に未練を持って欲しくないという灰塚の考えには同感だ。
「それに、結衣はテニスをやっているときは本当に楽しそうでしたから。むしろ、中学三年の時はテニスと受験勉強で、一年前のことであまり悩んでいるようには見えなかったんです。でも、高校に進学してから急に……」
「もしかしたら、リーベの仕業かもしれないわね。藍川さんの持っている負の感情を見抜かれて、リーベが体に入ったことで、自然と感情が表に出てしまったのかも。リーベは人の持つ負の感情を利用するから」
「それに、灰塚を心配させないために元気に振る舞っていたのかもしれない。ほら、洗脳の解いた直後に現れたときに言ってただろ? 灰塚を巻き込みたくないって」
そんな藍川の気遣いが、負の感情を溜め込んでしまったのかもしれない。そこにリーベが現れ入り込まれたことで、今まで吐き出せなかった負の感情を前面に出してきたのかも。そして、そんな自分の味方を増やすために、黄海と桃田を洗脳した。
「……そんな気遣い、私にはしてくれなくて良かったのに」
灰塚は薄く笑っているが、本心はきっと悔しいのだろう。
「……これからどうするか、じゃないのか? 灰塚」
「そう、ですね」
「灰塚の洗脳が解けたことで、藍川は近いうちに復讐を行うかもしれない。それは明日の可能性もあるだろう」
今までは灰塚を洗脳してしまったことによって、羽柴と江黒への復讐を躊躇していたんだと思う。灰塚を巻き込みたくない、という発言から容易に推測できる。
でも、今は迷ったり、躊躇したりする原因は何もない。自分とリーベだけで二人に会い、二人が謝る気がなかったら、リーベに乗っ取られて彼女に二人を殺してもらおうと考えているのかも。
「羽柴と江黒の殺害だけは絶対に阻止しないと」
「……そうね、結弦」
「そのためにも、藍川が外出するときには何があっても大丈夫なように尾行した方が良いと思っているけど、どうだろう?」
それ以外に確かな方法がない。
「尾行しても、リーベが入り込まれているからすぐにバレそう。それなら、あたし達も同伴して、羽柴さんと江黒さんに会いに行った方がいいんじゃないかしら」
「でも、俺達と一緒だと二人に会いに行く気になるか? だって、深入りすると痛い目に遭うって何度も忠告されているんだぞ? それに、灰塚を巻き込みたくないとも言っていたし……」
適当に流されてしまう可能性だってある。
尾行するか、堂々と藍川の前に現れるか。何にせよ、彼女の行動を見張らないと、最悪の展開になる可能性が出てしまう。
「……もう、ここまで来たら藍川さんも私達がどうするか想像はつくはず。敢えて堂々と彼女の前に現れた方がいいと思うわ。ここは一か八かで……恵さん、藍川さんに明日、二人に会うかどうか連絡してくれないかしら」
「でも、エリュ。それは危険すぎないか? それこそ……」
「結弦。リスクのない決断なんてないと思うの。確かに、私達が関わることを嫌がっていたわ。けれど、本心は誰かが側にいて欲しいと思っているはずよ。だって、黄海さんや桃田さんを洗脳したじゃない。恵さん、藍川さんに……私達はあなたの味方だって伝えてくれない? それができるのはあなただけだと思うから」
「……分かりました。頑張ってみます」
灰塚はスマホを取り出して、画面をタッチしている。
「今、エリュさんが言ったことをメールで送っておきますね」
ここは、幼なじみの灰塚を信じよう。一緒に解決したい、側にいて欲しい、という気持ちになってくれれば俺達も嬉しい。
エリュの言うとおり、今の状況でリスクのない選択肢はないだろう。だったら、堂々とした方が良いのかもしれない。
「もし、一緒に行くことになったら、場合によってはリーベと戦う可能性もある。そうなっても大丈夫か?」
「……ええ。そうなったら、吸血鬼であるあたしに任せなさい」
「……頼む。だけど、藍川を助けることが第一だ」
「分かってる。あたしも、藍川さんの悲しい気持ちを晴らしたいもの」
今後、俺達がやっていくことが決まったところで、今日はここでお開きとなった。あとは藍川からの返事次第だ。良い返事が返ってくることを願うばかりであった。