第10話『洗脳解除-Chihiro Ver.-』
午後四時。
俺とエリュは桃田との待ち合わせ場所にやってきた。その待ち合わせ場所というのは、桃田の自宅である。今は玄関の前にいる。
作戦はシンプルだ。黄海と一番の親友である桃田が黄海を自宅に誘って、他の人には邪魔されない二人きりの状況を作ってもらう。そして、俺とエリュが乗り込んで、黄海の洗脳を解除するという流れだ。
だけど、自宅に入るのにちょっと気が重い。
「ほら、さっさと行くわよ」
と言って、エリュは躊躇なくインターホンを押す。
『は~い』
音が鳴ってからすぐに、スピーカーから桃田の声が聞こえた。
「俺だ。遅れてすまない」
『大丈夫だよ。千尋ちゃんは私の部屋にいるよ』
「分かった。ありがとう」
『今は私と千尋ちゃん以外いないから、遠慮なく家に入ってきていいよ』
「分かった」
桃田の言うとおりに、俺とエリュは桃田の自宅の中に入る。
玄関には赤峰高校指定のローファーが二足。桃田と黄海の二人きりだけである証拠だ。桃田は上手く二人きりの状況を作れたようだ。
「椎原君、エリュちゃん」
制服姿の桃田が二階から降りてきて、小さな声でそう言う。
「千尋ちゃんは私の部屋にいるよ」
「そうか。まずは一つ、ご苦労様」
「じゃあ、予定通りに頼むわよ、結弦。だけど……ほどほどにね」
「……もちろん」
エリュに言われなくても、ほどほどにやるつもりさ。それ以前に、良心の呵責で大胆不敵なことはできないと思う。
最初は俺と桃田だけが部屋に入り、エリュには廊下で待ってもらうつもりだ。これも、洗脳されている状態の黄海から情報を得るためである。
「じゃあ、椎原君。行こうか」
「ああ」
俺は桃田に手を引かれながら、黄海の待つ桃田の部屋に入っていった。
部屋の中は、典型的な女の子の部屋という感じだ。ベッドの上には可愛らしいぬいぐるみが置いてあるし、ドレッサーもあるし。他にも、男の俺には縁のなさそうな女の子らしい装飾品がたくさんある。
そして、金髪ツインテールの黄海がちゃんといた。漫画を読んでいる。
「千尋ちゃん、お待たせ。サプライズゲストは椎原君だよぉ」
「えっ……」
黄海は俺の顔を見るや否や、露骨に嫌な表情を見せる。洗脳されているからそういう反応をされるのは分かっていたけど、やっぱりショックだ。
「ど、どうして椎原君がここに……」
「それはね。これから三人で楽しいことをするためだよ」
桃田は自然と笑みを浮かべることができているが、俺はそんな風にできないぞ。
昨日のことを振り返ると、普通に問い詰めても答えてくれない可能性がある、という結論に至った。だから、今日はその反省を活かして、黄海が嫌がることがないまま情報を引き出すことに決めた。この考えはもっともなのだが、問題はその方法だ。
「あっ、手が滑っちゃったぁ!」
と言いながら、桃田はわざと俺の背中を押し、その衝撃で俺は黄海のことを押し倒してしまう。気付けば、俺と黄海は互いの吐息がかかるくらいに顔が近づいている。また、今の衝撃で扇情的な黄海の匂いが俺を包み込む。
「ちょ、ちょっと離れてよ……」
「離れるわけにはいかないさ。俺は君のことを助けたいからね」
「……あたしのことを?」
「ああ、そうさ。俺は黄海を悪い魔女から助けたいんだよ。そのために、俺はここにいるんだから」
「でも、あたしはリーベ様の……」
「もし、リーベじゃなくて俺の言うことを聞いてくれたら、いいことをしてあげよう。こんな風に、ね」
俺はすぐ側に立っていた桃田の手を強引に引いて、桃田の頬にキスをする。
「桃田はリーベの洗脳から解き放たれたんだ。そうだ、桃田にもご褒美をあげないと」
「……うん。早く洗脳を解いちゃってね」
桃田は柔らかい笑みを浮かべ、物凄く甘ったるい声を出す。まさに、迫真の演技だな。俺なんて棒読みだとばれても仕方ないくらいに下手なんだが。
黄海を懐柔していく方法は、一言で言えば色仕掛けだ。今の黄海も、俺への好意は多少なりと残っている。そんな気持ちを利用して、誘惑しながらリーベに関する情報を引き出そうという方法だ。俺はあまり乗る気になれなかったが、他に良い方法が思いつかなかったので仕方なくこの方法で決行することにした次第である。
しっかし、キザな台詞を言うと吐き気がするな。
「黄海、俺はすぐに洗脳を解こうとは思っていない。お前から聞ける藍川やリーベに関する情報を聞けるだけ聞き出してやる」
「椎原君なんかに絶対に話さない……!」
「はあっ、話してくれるなら桃田にやったように、頬にキスしようと思ったのに」
「頬に、キス……」
そう呟いて、黄海はゴクリと唾を飲む。さっそく効果が現れているみたいだ。
ああ、この状況にはもう耐えきれない。聞けることをさっさと聞き出して、エリュに血の浄化をさせよう。
「ほら、教えてくれよ。何でもいいからさ」
ここは強行策で、俺はそう言って黄海の額に軽くキスをする。すると、黄海の頬が熟れたリンゴのように更に赤くなる。
「普段とは別人だね……」
という桃田の呟きが耳に入る。当たり前だろ、頑張って演技しているんだから。
最初こそは「あうっ、あうっ」と喘いでいるだけだった黄海も、少しずつ落ち着いてきている。この状況に慣れてきたのかな。
「何度か……」
「何度か、どうした?」
俺がそう訊くと、黄海は今一度、至近距離で俺の目を見つめてくる。
「……詳しい内容は聞こえなかったんだけど、ユイのことで陰口を叩いている女子達を何度も見かけたの」
「陰口、か……」
俺は不登校だったせいか、藍川を悪く言うような生徒を見たこともなければ、彼女にまつわる黒い噂も一切聞いたことがない。トゲのありそうな女子だという印象はあるけれど。
「一度だけならスルーしたんだけど、何度も言っているようだから、さすがにムカついてきて止めようと思ったんだけど、ユイやメグに止められて」
メグ……ああ、灰塚恵のことか。
藍川だけでなくて灰塚までにも止められるってことは、藍川への陰口の原因は高校入学以前のことなのだろうか。その陰口が、リーベが入り込みたくなるほどの負の感情を生み出した原因である可能性はありそうだ。
「何か覚えていないか? その陰口の内容は」
「……ごめん、覚えてない」
「桃田は何か知っているか?」
「私は一度もそういう場面に出くわしてないから分からないな……」
「……そうか」
桃田が知っていれば、昨日の段階で話していただろう。
藍川への陰口、今回のことで一番のカギになりそうだ。黄海の話だと、灰塚は陰口について知っているような感じだったから、彼女の洗脳を解くときに陰口について詳しく訊いてみるとしよう。
「黄海、あと一つだけ。黄海が最初にリーベに洗脳されたのか?」
「……うん。あたしが最初だと思う。あたしの後に、ハルやメグがリーベ様に仕えることになったって言われたのを覚えてるから」
桃田の話と矛盾はないな。黄海、桃田、灰塚の順番で洗脳されたのは確定か。
「そうか、分かった。教えてくれてありがとう。じゃあ、ご褒美のキスだ」
褒美をあげると言ってしまったので、俺は黄海の頬にキスをする。
「あううっ……」
予告していたのだが、黄海にとってキスは衝撃的だったようで。黄海は普段の活発的な彼女からは考えられないしおらしい表情を見せた。
もう、黄海からはこれ以上のことは聞けないかな。
「エリュ、浄化を頼む」
一声かけると、エリュが部屋の中に入ってくる。
「お疲れ様、結弦。今の会話の内容は全て聞こえていたわ」
やや不機嫌な表情でエリュはそう言った。そこまで大きな声で会話はしていなかったのだが、人間よりも遥かに優れている聴力を持つエリュには、扉が閉まっていてもはっきりと聞こえていたようだ。
黄海は桃田の時とは違って、吸血鬼を目の前にしても嫌な顔を一つも見せなかった。
「それじゃ、血の浄化するわ」
俺が黄海から離れると、エリュは黄海のことを抱いて、彼女の首筋に噛み付く。
「あっ……」
桃田と同じように最初は痛がっていたが、程なくして目が閉じ、眠りに落ちてゆく。これで、黄海も洗脳から解けたのか。
「血の浄化、終了。小一時間くらいで意識は回復するわ」
「……お疲れ様、エリュ」
「外に出たらリーベや灰塚さんに会うかもしれないから、黄海さんをここで寝かせてもいいかしら?」
「うん、いいよ」
昨日は外だったから桃田を俺の家に連れて行ったけど、今日は桃田の家だからここに居続ける方が安全だろう。
「じゃあ、結弦。黄海さんをベッドに寝かせなさい」
「……分かった」
俺は黄海のことを抱き上げ、ベッドの上に寝かせる。
「結弦、直見さんをここに呼んで。今後のことについて作戦会議よ」
「そうだな」
黄海の洗脳の解除が終わり次第、直見が俺達の所へ来ることになっている。
俺はスマホで直見に電話をかけ、俺達が桃田の家にいることを伝える。場所は分かっているので迎えの必要はないそうだ。
「十分くらいで来るってさ。ここの場所は分かっているらしい」
「……そう」
眠っている黄海の横で、俺達は直見が来るのを静かに待つのであった。