第七章 無色の恋心
曇天に浮かぶような銀色は、雨水に濡らされ鈍く光っている。白塗りの壁に無色透明なダイヤモンドの門扉や屋根は儚げに見えるが、複雑なカッティングによる光の反射は見る者の心を惹きつけてやまない。これが晴天であれば七色の虹に劣らぬ輝きを見せるだろう。
一歩踏み出してしまえばもう戻ることは出来ない。ここは自分の生まれた街、創世神アディマンテの加護を受けた場所。訪れて感慨深くなるような記憶など持ち合わせてはいないのに、何故こんなにも泣きたくなるのだろう。
「十八年も違う場所で育ったのに、やっぱり生まれたのはここなんだって思う。……何だか変な感じだね」
「ずーっと生まれた街にいるとそういうのきっと分かんないよね。慣れちゃって」
「勇士になって何十年も故郷離れたら同じ事思うかもしれねーな!まあ無理だな、俺おうち大好きっ子だし!」
チスパが茶化しながらノグレーの背中を押し、歩みを促す。そういえば、自分は出生地だから聖護院で加護を受ける必要は無い。ただ、出生時の加護を記録する帳簿と勇士となってからの加護を記録する媒体は別だから、空きが気になるようなら埋めるだけしてもいいとは聞いている。
「ノグは待ってるか?」
「僕も行くよ。記録だけしてもらう」
聖護院へ向かう道すがら、不自然な視線をいくつか感じた。見返すと目を逸らす者、じっと見つめた後我に返る者。それも中年から年配の男女ばかりだった。
「な、なんか見られてる気がしない?あーまた!あのおじさんとか」
見定めるような視線ではあるが、不快には感じない。だがその意味はすぐに分かった。グラシエが警戒していた中年の小太りな男が近付いてきたのだ。
「おい、お前まさか……ビ、ビルケなのか……?」
まさに今、消息を知りたい人物の名前だった。驚いて、ただいいえとしか返せない。
そうだよな、こんなに若い訳がない。血縁者か?と問われ曖昧に答える。まだ男が父親とどんな関係かも分からないので、息子だと明言するのは避けた。しかしこれで謎は解けた。母の話では、父ビルケは貴族の生まれでありながら上下関係など一切気にせず奔放に街中の人間と杯を交わすような人だったらしい。父親と同世代以上の民は、十八年以上前の懐かしい思い出を持っているのだろう。失踪当時今の自分とそう変わらない年齢だったとはいえ、そんなにも似ているのか。こうまで多くの視線を集めるのは、嫌とは言わないが少しだけ居心地が悪い。
逃げるように聖護院の扉をくぐり、窓口の受付に並ぶ。
「次の方、どうぞ」
案内してくれたのは、自分の親より二回りは年上だろう女性だ。さっきの男性と同じ事を言われるかもな、と思いながら前に出る。その予想は確かに当たったが、女性が発した言葉にこちらが驚く事となった。
「ノグレーちゃん?貴方もしかして、ノグレーちゃんなの?」
まだ勇士の宝玉を翳す前だ。名札でも付けていない限りは名前を知るわけがない。
「知っているんですか、……僕のことを」
「ああやっぱり!良かったわ、元気そうで。ごめんなさい、びっくりしちゃって。先に記録だけはしておくわね」
ノグレー=ガロファニエ。登録されたその名を見つめながら、女性は何とも言えない切なげな表情を見せた。
「お母様……サリチェ様はお元気?」
「はい」
「そう。貴方も本当に立派に……勇士になったのね」
女性はフレサ=ノワゼットと名乗った。何でも、十八年前にノグレーを取り上げた産婆だったらしい。赤子の頃の自分を知っている数少ない人物なのだろう。母の事も、そして今の父の状況も。
「ビルケ様が弟君に跡継ぎの座を譲り、長らく放浪している……あの方の事を知る民は、そういう認識でしょうね。無責任とも、あの方らしいとも言われているわ。我が子と妻のために危険を省みずなりふり構わず飛び出していった……真実を知る者はほとんどいない。貴族の子はね、何かあった時の為に無事に生まれ育つまではその存在を知らせない事になっていて、貴方が産まれたことを知るのは外部ではそこにいた数人の産婆だけ」
やはり、気軽に自分はビルケの息子と伝えずに良かったのだ。混乱を招き、噂が噂を呼ぶ事態になり兼ねない。
「案外閉鎖的なのよ、ローサの一族って。ここに限らずね。私も、他言無用としてしばらく監視されていたわ」
この十八年の父の動向までは、流石にただの一産婆として有力な情報は持ち合わせていないとフレサ夫人は謝罪した。だがノグレーにはそれでも充分だった。慕われていた父の存在が身近に感じられたから。何かあれば力になると連絡先を渡され、聖護院を後にする。
「ずいぶん長かったな」
「まさか、受付の人もノグレー君のこと知ってたとか?」
「そのまさかだけど、……後で話すよ。ここは人目が多いから」
街中を歩きながら、ノグレーは罪悪感に苛まれる。自分が普通に産まれてさえいれば、今も両親はこの地で幸せに暮らしていて、自分自身もディアローサの嫡子として育ったのだろう。奇異な目を向けられることもなく。父に影響されて、もう少し積極的な性格になっていたかもしれない。
けれど、そうしたらチスパにもシラにもグラシエにも出会えなかっただろう。トラモント夫妻は父の親友だから可能性はあったとしても、こうして背中を預けられる関係にはなれなかったに違いない。
これで良かったんだ、そう思うことにするには如何せん犠牲が多すぎた。
「きゃっ」
「……っと、すみません」
人がギリギリすれ違えるくらいの狭い路地で考え事をするのはあまり推奨されない。ノグレーは慌てて手を伸ばし、転びかけた少女を支える。緩やかなウェーブを描く淡い桃色の髪からほのかにシトラスの香りがした。少女は華奢な外見に似付かわしくない大きなサングラスをしている。
「ご、ごめんなさい」
「こちらこそ、ちゃんと前を見ていなかったから」
「いいえ、わたくしこそ……」
少女の隠された視線が自分に注がれているような気がした。まさか、自分より歳下だろう少女までがこちらの事など――
「ノグレー……おにいさま?」
――知るはずもないという考えは、一瞬で打ち砕かれたのだった。
「本当にお会い出来るだなんて。シルエラはずっとずっとお待ち申し上げておりました」
路地を抜けて少し広い場所に出た。少女が向かっていた方向と逆になるが、気にしていないようだった。
「えっと……シルエラさん?」
「嫌ですわおにいさま、そんな他人行儀ではなくシルエラとお呼びくださいまし。ああそれにしても、お写真でしか拝見したことありませんが、本当にお若い頃のビルケ伯父様に生き写しなのですね」
「おじ……?」
シルエラがハッと気付いたように慌て始める。目の前の三人が置いてきぼりにされている状況にようやく気付いたらしい。おもむろにサングラスを取り外し、隠された瞳を晒す。良く磨かれた高級なカトラリーのような、美しい銀色。
「わたくしったら顔を隠したままで大変失礼致しました。シルエラ=ディアローサと申します。ノグレーおにいさまの従妹にあたりますわ。おにいさま、お連れ様も一緒にどうか、お屋敷までおいで下さい」
あまりの衝撃に、案内されるがまま歩みを進める。不意に現れたこの少女は、血の繋がりがある従妹だった。父ビルケの弟の娘――正当なディアローサの跡継ぎとなる子だ。
「お父様が、サリチェ伯母様やビルケ伯父様のご友人と連絡を取り合っていて、おにいさまがもうすぐアディマンテを訪れると聞きましたので」
微妙な変装は、自分の目でノグレーの姿を見付けたいと思って抜け出していたかららしい。良家の子女がやることではない、危険に出くわしたらどうするのかと軽く叱っても、シルエラは嬉しそうに笑っているだけだ。
「わたくしも一人っ子ですが、兄がいたらこんな感じなのかなと思ってしまいました。ふふ、やっぱりおにいさまは理想の殿方ですわ」
すっかり毒気を抜かれてしまう。生家を訪れるにはもっと覚悟のようなものが必要だと思っていたのに。
いくつもの路地を越え、少し離れに位置するディアローサの屋敷は見る者を圧倒させる存在感があった。ローサの屋敷はどの街も歓楽街から離れた位置にあり、庶民は基本的には近寄らない。木々に覆われた屋根のてっぺんが辛うじて見えるくらいだ。
「裏口から参りましょう。警備の者に説明する時間も惜しいのです」
シルエラしか知らないという脇の細道を通り抜ける。裏口とは言ったが、庶民の家の表口よりも造りは凝っていた。広い客間に案内され、少し落ち着かない。寝転がって寛ぐチスパの順応性には舌を巻くが、グラシエは可哀相なくらい緊張して震えていた。
「すすすす、すごい……ついこの前聞いたけどさ、ほんとにノグレー君ここで産まれたの……?見てあのツボ、よく分かんないけど多分壊したらうちの全財産手放さなきゃいけない気がする」
自分より落ち着かない人間が近くにいると、逆にこちらが冷静になる典型的な例だった。
「父に連絡をしました。今日は学会への出席のみなので、そう遅くはならないかと」
シルエラの差し出したお茶と菓子を有り難く頂き、頭の中を整理する。アディマンテに到着して数時間と経たないのに、早過ぎる展開に眩暈を起こしそうだ。
程なくして、パタパタと慌ただしい足音が聞こえてくる。音もなく立ち上がったシルエラが部屋を出て行く。ディアローサの当主が帰ってきたのだ。
「チィ、起きて」
「寝てはないぞ!ほほう、ようやくアディマンテのローサご当主様お出ましってやつか」
姿勢を正すチスパは軽く興奮状態に見える。どうしてそんなにわくわくしているんだろうか。親友ながら、このアウェイ感を物ともしない強靭な精神力は尊敬に値する。隣のグラシエは、……敢えて声を掛けない方が彼女自身己を保っていられそうだと判断する。
かたり、と襖が鳴りシルエラが顔を覗かせる。父の部屋へ、とノグレーを促す。チスパとグラシエにはとりあえず部屋で待っていてもらうことにする。気が利く事に、シルエラは追加の茶菓子を持ってきていた。彼女に続いてノグレーも部屋を出る。
「すぐこちらの部屋に来たがっていたんですけれど、流石に当主にあるまじき行為かと思いまして。だって走って帰宅したまま、髪も振り乱していて人と会う姿ではなかったんですよ。よっぽどおにいさまが帰っていらした事が嬉しかったみたい」
上品な所作でにこやかに笑うシルエラの後について、長い廊下を渡る。突き当たりの右側が当主である叔父の部屋らしい。ローサの当主と会うのはグルナカルスのルナード氏以来なのもあり、どうにも厳格なイメージが先に立つ。
「お父様。ノグレーおにいさまをお連れしました」
入りなさい、と穏やかな声が告げる。
少しばかりの緊張が、相手の表情にも見て取れた。青灰色の少し跳ねのある髪を見て、やはりこの癖っ毛は家系なのだと実感する。
「ノグレーです。ええと、この度は……」
「やだな、そんなに固くならなくて良いよ。よく来てくれたね、君の叔父であるダティル=ディアローサです。それにしても、……いや、やめておこう。これまでにも散々言われたろうからね。でも、本当に無事で良かった」
目が潤んでいるようにも見えた。それもそうだ、父の存在が一番身近だったのは弟である彼自身なのだろうから。
十四年前、シルエラが生まれた頃に前当主からその座を明け渡された叔父は、密かにその権限を兄探しに使っていたようだ。自分自身は兄のように表立った交流はしていなかったので苦労したと語る。幸い特に縁の深かった仲間の話は聞かされていたので、信頼出来る何人かに事情を話し調査を頼んだようだ。
「ペルティナさんも、その中の一人だったんですね」
「ああ、彼に会ったのかい?とても情に篤い人でね、事情を説明したら男泣きしていたよ」
ペルティナは今も定期的に体調伺いや近況を伝える連絡をしてくれている。たまには自分からもメッセージを送信してみよう。
わざわざ一緒に来てくれたのだからと、チスパ達のいる部屋に向かおうとするのを娘に止められて、自分よりもしっかりしてるでしょと叔父は笑う。確かに、彼女ならいずれ良き当主となりそうだ。その後相変わらずウキウキ顔のチスパと緊張で固まるグラシエがシルエラに連れられて部屋に入ってきて、和やかな空間は優しく過ぎていく。特にトラモント夫妻とその息子であるチスパには多大な感謝を、と畏まる叔父に、どこか照れ臭そうにするチスパが何だか可笑しかった。
ようやくグラシエが笑顔を取り戻した頃だった。部屋に備え付けられている通信端末のベルが鳴る。わたくしが、と直ぐ様シルエラが応答するが、徐々にその声音が神妙なものに変わっていく。通話を切ったシルエラの表情は青ざめていた。
「おばあさまが、おばあさまが危篤ですって!」
父と叔父の両親である祖父母は、勇士として旅をしていた際魔物に襲われ命を落としたと母から聞いた。つまりシルエラの言うおばあさまとは、前当主である曾祖母の事だ。そう、産まれたばかりの自分と母を追い出し、父の出奔を許した存在である。憎むような気持ちは無いが、客観的に事実を見るならそういうことだ。
慌ただしく準備を始める叔父と従妹を横目で見つつ、このままおいとました方が良いのだろうかと悩む。
「何してんだ、ノグ。お前も行くんだろ?」
チスパの声に顔を上げるものの、とっさに返事は出来なかった。
「おにいさま、参りましょう。何も要りません、そのままで大丈夫ですわ」
「病室に入れるのは近しい血縁だけだから周りの目は心配しないで良い。お友達も、申し訳ないが医院のロビーで待っていてもらうか、待たせるかもしれないから街中にでも……」
「い、一緒に行きます!」
「よく言ったグラシエ、そうと決まれば!」
半ばチスパに引っ張られるようについていく。正直、近くに二人がいてくれるのは有り難い。すぐ隣にとは言わずとも、存在を感じていれば不安にならない。これがきっと、仲間の強さというものなのだろう。
怖いのだ。自分が、『要らない子』であると突きつけられるのが。ましてや、相手はその最終判断を下した人なのだから。
一般人が行く病院は聖護院に併設されている各種医院であるが、貴族達は敷地内に専用の医院を抱えている。歩くにもそう遠い距離ではない。
「おにいさま、ごめんなさい、腕をお借りしても宜しいですか」
「うん、いいよ」
ぎゅっとしがみつくように、シルエラは不安そうな表情でノグレーの顔を覗き込む。ロビーには数人の先客がいて、当主である叔父に無言で長い会釈をする。この医院に来る者とはつまり、ノグレー自身の血縁でもあるのだ。自分を見て怪訝な顔を見せるのは承知の上で、シルエラに倣って堂々と会釈を返す。
「二人はこのバッジをつけて。チスパ君、グラシエさん、事情は説明してあるからここで待っていて下さい。飲み物や軽食も向こうのエリアでとれるから」
「はい!」
「ノグレー君、しっかり!」
「うん。……行ってくる」
どこまでも白い壁、白い空間。受付には創世神アディマンテの絵姿がある。ローサの家系は最後まで神の姿が見えていた、そう言ったのはセラータだったか。クアローサの分家の生まれである彼女は、神の言葉を伝える家系と聞いた。それならばディアローサの分家にも、同じような役割を持つ家があるのだろうか。
絵姿のアディマンテ神と、目が合ったような気がした。同時にクラッペで隠された右目の奥に一瞬激痛が走る。声は出さずに済んだが、脂汗がたらりと垂れた。
「大丈夫ですか、おにいさま」
自分と同じ様に不安になっていると感じたのだろう。左腕を掴む華奢な温もりに、何でもないよと優しく返す。
何者も傷付けられない、固い意志を秘めた宝玉ダイヤモンドを司る神。どんなに屈強な男性神かと思ったが、自分と変わらない年齢の少年にすら見える。輝く双剣を振りかざし、ダイヤモンドシルバーの瞳はとても鋭くこちらを射抜く。きっと偶然だ。睫毛が目に入った瞬間だったに違いない。そう思わなくては、いつまでも地面に足が着かないような気持ち悪さに襲われる。
病室の中には医師が控えていて、異様なほどに静かだった。波は収まったがいつまた急変しないとも限らないと医師は説明し、病室を後にする。叔父やシルエラが声をかけると、力無い声音ではあるが反応が返ってくる。ノグレーは死角にあたる後方に無意識に控え、様子を窺っていた。
「いる、ね……ビルケの子よ」
ノグレー、としわがれた声が呼ぶ。顔の見える位置まで行くと、思ったよりもその表情は優しい。
「ああ、本当にビルケによく似ている。もっと顔を見せておくれ……」
差し出された小さな手をそっと握る。病魔に冒された為か、細く弱々しい腕は強く扱えば簡単に折れてしまいそうだ。
「あの頃にはもう、御姿も神託も何もかもが遠くなってしまっていた。予言の力も衰え、貴族と言えども最早普通の人間でしかなかったのだ」
天主ですらも命を賭して封印するのが精一杯だったルチルの脅威。その影響が曾孫に現れたと知っては、当主として放置するわけにもいかなかったのだ。それはノグレーも理解しているし、仕方のない事だと思っている。自分がその立場であれば同じ事をしただろう。
「わしは先程、もう天に召されようとしていたのだ。だがそれを止めたのは、アディマンテ神そのひとだった。夢かうつつか、お顔は見えなんだが、光り輝く高貴なお姿、違える訳がない。そして束の間の目覚めに現れたのは……、もう神の思し召しと言うしかない」
瞳を見せて欲しいと乞われ、クラッペを外す。自分でも滅多に鏡は見ないようにしているが、ルチルの金針に冒された右目はぱっと見銀色ではなく金色のそれと判断されるだろう。
「夢に見るだけでほんの僅かでも力が戻るとは。今見れば、これがただ忌々しいだけのものでないと分かるのに、遅過ぎた。許せとは言わぬ」
「……お婆様。僕は、何も恨んでいません。聞かせてください。僕は、これからどうすれば良いのですか」
「生きよ、ノグレー。全ては判らぬが、その瞳はおまえの意志ひとつで善にも悪にもなり得る。戦いに身を置くさだめは変えられぬ。だが、おまえは一人ではないのだ。それを忘れるな」
「……、分かりました」
ふと、力を抜くように息を吐き出したのを見て身構える。話し疲れたから寝かせて欲しい、との事だった。そして、今晩遅くにこの世に別れを告げるとも。
「嫌です、おばあさま……わたくしはずっとお側に」
「聞き分けなさい、シルエラ。数時間でも命を延ばして下さったのだ。死は怖れるものではない、アディマンテ神のみもとに還るだけなのだよ。おまえは両親を支え、立派にディアローサの家を護っておくれ」
「はい……はい!」
涙に濡れるシルエラの肩にそっと腕を回し、病室から出る。叔父も二言三言短い会話を交わした後、自分達に続く。白い空間はどこまでも白いままだった。先程までいた親類ももういない。ロビーで待つ二人の元に歩み寄る。
「ノグレー君、その目、どうしたの!?」
グラシエの驚いたような声に、クラッペをポケットに仕舞ったまま付け直し忘れていたことに気付く。しまった、と思うがもう遅い。
「あれ……ヘテロクロミアじゃない、よね。それに、金色と言うよりは」
「ごめん、隠していたんじゃなくて……いや、結局同じだよね。話すよ、全部」
叔父は先に屋敷に戻ると言うので見送り、シルエラは帰路の案内も兼ねてここに残った。ソファーに座り、母から聞いたアディマンテでの出生からグルナカルスへの移住にまつわる真実を簡潔に告げる。
「ルチルの影響……?」
「お婆様は、忌まわしいだけのものじゃないって言ってたけれど、それも僕の気持ち次第みたいだ」
「それってよ、もしかしたらルチルと渡り合う切り札にもなるって事じゃね?」
ルチルの部下である三金紅にすらまだ実力は及ばないが、使えるものであれば何だって使いたい。けれど自分の心一つと言われると、弱気になれば一気に不利となる可能性もあるのだ。過度な期待は出来ない。自分がいつでも強靭な精神力で志高く保ち続けられるかと言われると自信がない。
「そっか……そうなんだ」
「おにいさまならきっと大丈夫です。シルエラは、おにいさまを信じていますもの。ああ、わたくしがもう少し産まれるのが早ければ、勇士となっておにいさまとパーティを組めましたのに」
「はは、好かれてんなーノグ!」
「もう、茶化さないでくださいな、チスパさん。わたくしは本気なのですよ!」
「……とりあえずそろそろ戻ろうか。あまりここにいたら迷惑になる」
ひとまず全員ディアローサ家に戻ることとなった。部屋に入ると、叔父は通信端末で各所に連絡しているようだ。曾祖母当人から、彼女がいなくなった後の対処を色々と頼まれたらしい。少し落ち着いてからノグレー達に気付き、向き直る。
「おかえり。バタバタしちゃってごめんね」
「いいえ。お婆様にお会い出来て良かったと思います」
少なくとも、自分が産まれたことを否定されなかったのは大きい。長年の負い目が、無意識に臆病にさせていた。アディマンテに来るのをしばらく躊躇っていたが、もう後ろめたい気持ちは無い。
「聞いて欲しい、ノグレー。僕はね、兄さんが戻ってきたら……サリチェ義姉さんと君を呼び戻して、当主の座を返したいと思っている」
「え……?」
「その方が良い。本来在るべき形に……君を見て、気持ちが固まったよ」
父が当主の立場になれば、当然実子である自分が次の当主を継ぐことになる。いずれアディマンテに戻る可能性を考えていなかった訳ではないが、それに関しては全く意識していなかった。
「……それは、父も望んでいないと思います。今は名実共にダティル叔父さんが当主だし、シルエラだってそのつもりで教育を受けているでしょう。十八年の穴は、大きいですから」
「まあ、そう言うだろうね。分かっているよ。それでも、何か問題が起こる度に兄さんが当主だったらもっと上手く立ち回れたんだろうなと思うことがあるんだ。失踪前から当主代理として対応する事もあったからね」
無茶な話だ。貴族としての責任から逃れて安穏と暮らしていた自分が、例え大きな理由があったからとは言え今更になってのうのうとその座に納まるなど。誰も納得しないだろう。
「僕よりも、シルエラの方がずっと当主に相応しいですよ」
「あら、でしたら簡単な事ですわ?」
名案を思い付いたように、シルエラの表情が輝く。そんな所はやはり年相応に無邪気だ。だが彼女の提案に、その場にいる全員が一瞬固まる。
「わたくしが当主で、おにいさまがお婿さんになれば全て解決でしょう?」
おお、それって!と、チスパが面白がって焚き付ける。大胆な発言にグラシエは少し頬を染めて様子を伺っているようだ。叔父はと言うと、何となく予想が出来ていたのか複雑そうだった。
「従兄妹同士なら結婚は許されていると聞きましたわ」
「シルエラ、あのね……」
「あら、わたくしがお家の為にそう言ってるとお思いなのですか?……理想の殿方であると、お伝えしたではないですか」
「ひゃあ、あれは事実上の告白だったんだ……!シルエラちゃんすごい」
女子の恋愛話好きは万国共通なのだろうか。恋する乙女のパワーは凄まじいとも聞く。だがここは血縁として、諭すべきだろう。
「恋じゃなくて、家族愛をそう思っているだけだよ。出会ってからそんなに時間も経ってない、大切な事をそう早く判断するのは」
「おにいさま。出会いは誰だって知らない者同士です。でも、わたくしはもう一目貴方様を拝見した瞬間から、身体中に電気が走るような強い衝撃を受けたのでございます。これを恋と呼ばずして、何と?」
恋愛に身を置く人間のオーラは、しばしばピンクや薔薇色に例えられる。だがシルエラに関しては、清々しい程に無色透明だった。愛する人の色に自分の全てを染められたい、そんな無色の恋心はあまりにも真摯だ。クォーツの如くありのまま全てを受け入れ、ダイヤモンドのように固く強い想いを自分に一心に向けられてたじろぐ。
「……おにいさま、シルエラは我が儘を言いたい訳ではないのです。いつかおにいさまが他の女性を愛したのなら、わたくしはそれを受け入れて身を引く覚悟です。でも、せめてそれまでは、想っていても良いですか?」
「うん……分かった」
自分は非情なのだろうと思う。ここまで気持ちをぶつけられても、穏便に済ませる事ばかりを考えている。生まれ落ちた際に、ルチルの悪意を植え付けられた引換として何かが欠落したのではないだろうか。そう考えてしまうほどに、心が冷え切るのを感じた。好意を持ってくれるのは単純に嬉しいのに、甘んじて受け入れることを拒んでいる。全てが終わって平穏を取り戻したら、動き出せるのかもしれない。
「今日は泊まっていきなさい。明日も慌ただしくなるからね。連絡が来たら起こすから、少しでも眠っておくといい」
余っている客間をチスパとノグレー、シルエラとグラシエで分かれて使うことになった。シルエラは自分の部屋を持ってはいるのだが、グラシエに気を遣ったと言うよりは旅中でのノグレーの様子を聞いてみたかったようだ。
「ノグ、おまえさ」
隣の布団の上でゴロゴロしているチスパは、その呑気な格好とは裏腹に軽く咎めるような声音でノグレーを呼んだ。
「うん」
「隠してただろ、その目。どうりで最近俺の前でも外さないなって思ったぞ」
「……ごめん」
「お前と俺は一蓮托生、隠し事は無し!お前の苦悩は俺の苦悩!うーん、ちょっと気持ち悪いか?まあ少しは秘密がある方が魅力的な男に見えんのかな。そしたらリンザねえさんみたいなオトナの美女も俺にメロメロ?」
「チィ、話ずれてる」
「おっといけねぇ!ま、俺は隠したところで隠し切れねぇけどよ、お前の隠すってさーなんつーか抱え込むって感じだからな」
「善処するよ。……今日さ、お婆様に言われたんだ。戦うさだめは変えられないけれど、一人じゃないからって」
「そうだな、クオタリシア数億の民が俺達に期待を寄せてるんだぜ!燃えるじゃねーか!」
数億も人口無かったんじゃないかなという突っ込みは野暮だ。自分が我慢すればいい、心配させたくないという思いは却って仲間を傷付ける結果にもなる。ノグレーはそう悟りつつも、それでも性格は簡単に変わりそうにないと苦笑した。
それにしても、羨ましいです。ローズクォーツのような優しいピンク色の髪をドライヤーで乾かしながら、少女は呟いた。グラシエは彼女の母親のものだという寝具を借りたのだが、一番シンプルなデザインとはいえ相当に上等な素材だと分かる。触り心地にうっとりしながら、シルエラの言葉を拾う。
「羨ましいって?」
「わたくしも、おにいさまと旅がしたかったです。もしルチルの問題さえなければ、おにいさまとは生まれた時からずっと一緒にいられたというのに」
「あたしだってまだノグレー君達と出会って三ヶ月も経ってないよ。それに、今まで何も知らなかった。最近になって少しずつ教えてはくれてたけど、ここに来て何だか……ううん、ただ、その……ビックリしちゃっただけ」
故郷に閉じこもっていたのが長かったから、急な展開についていけてないだけだ。新しい仲間と心から打ち解け合うには三ヶ月やそこらではとても足りない。秘密にされていたのが嫌だとか、そういう訳ではないのだ。
「平和になったら、ノグレー君はここに戻って来るのかな」
「父だけでなくわたくしも……それが最善だとは思っています。でも、おにいさまのお気持ちを尊重したいのです」
本人に自覚はない、というよりは必要以上に自分自身を卑下しているきらいがある。状況判断能力に優れ、統率力もある。上に立つ者となる素質は充分なのに、目立つことが苦手で一見無愛想にも見えてしまう。
「今日初めて会ったのに、すごーい。なんか、一緒に旅してたあたしよりずっとノグレー君の事分かってるというか……」
「血の繋がりがあるから、身内の傾向も照らし合わせてそう感じているだけなのです。きっとまだ、表面的な事しか理解出来ていませんわ」
「好きなんだね」
グラシエに言われて、少し頬を赤らめる様子がとても可愛らしい。
「本当に、理想通りだったのです。とてもお優しくて、でもとても傷付くことを怖れていらっしゃる」
たとえ産まれてすぐに故郷を離れても、アディマンテ神の加護は心の奥深くに根付いている。神の直系子孫であるならなおさらだ。クオタリシアが生み出した宝玉の中で最も硬いダイヤモンドは、傷も穢れも受け付けない。そんな強い存在に護られている事を理解出来る日が来れば、きっとルチルなど怖るるに足りないはずだ。
明け方、さらさらと僅かに衣擦れの音がする。眠りが浅いタイミングだったのか、やけに耳につくそれに目を開けるしかなかった。ブラックスーツを着込む幼馴染の姿がぼやけた視界に映る。案外似合うものだ、見慣れないきっちりしたタイプの服に着られているようには見えない。
「……行くのかー」
「ごめん、起こした?」
「いんや。類い稀なる俺様の野生のカンがだな……」
「はいはい。グラシエと、昨日の部屋で待っていてって。昼前には戻るから、そしたら皆で会食に参加するんだって」
「良いのか?普通身内だけなんじゃねーの」
「ここまで一緒に来てくれた労いじゃないかな。特に、トラモント家には親子でお世話になってるからね」
身近な人間が亡くなる経験がそれまでなかった彼らでも、葬儀進行について多少は知っている。教学院では魔法や体術だけではなく、日常の常識や作法を学ぶ授業もあったからだ。それでも、実際に経験してみると慌ててしまう事もある。
「それ、この家の?」
「スーツの事?叔父さんの借りたんだ」
「なんつーかさ、それ見てると、ほんとどっからどう見ても貴族の一員だよなー」
らしくない発言をするのは、不意な目覚めに寝ぼけているからなのか。ノグレーは暫く無言でいた。
「……止してよ、僕は僕でしかないんだから。もう時間だから、また後で」
ひらひらと手を振るチスパを横目で見ながら部屋を出る。既に目を赤く腫らしたシルエラの手を引いて、医院へと向かう。 今日は当主の甥として、そして故人の最も可愛がっていた孫・ビルケの息子として。分家である親類が全員集まるこの日を、どうにかして乗り切る事に全力を捧げる決意をしていた。
クオタリシアにおける『葬儀』とは、神に呼び戻される事である。人の世で神々の姿が見えていた時代にはその意識が当たり前のように浸透していた。今はまるでお伽噺のように思えるし、真実は生きている者には分からない。
「シルエラちゃん、こちらよ」
品の良い老女が受付で迎えてくれる。彼女はシルエラの母方の祖母らしい。シルエラの母はしばらく体調を崩していて、この医院の別棟に入院しているそうだ。気にはなっていたのだが昨日は聞く余裕も無かったので、ようやく納得出来た。
「貴方がノグレーさんね。シルエラの祖母でございます。ダティルさんから話を聞いていて、ずっと気になっていたの。本来ならこの子の母が案内をするべきだったのだけれど、ご容赦くださいね」
「よろしくお願いします。何か僕に出来ることがあれば言ってください」
夫人に連れられて、式典が始まる前に親類への挨拶行脚をする。特に父方の親類は、ビルケの面影を色濃く残すノグレーに感極まる者も多かった。ビルケの生存は絶望的だと考えていたのだろう、せめて息子がこんなに立派に成長して戻ってきてくれて――と、言葉にはしない思いが痛いほど伝わってくる。穏やかな歓迎を受けて緊張は和らいだものの、今後自分がディアローサにもたらす影響を期待されていることにも気付き、少しばかり重く感じるのも事実だ。今はまだ、戻るとも戻らぬとも言えない。
献花の間に通されて、真っ白な棺と対面する。散りばめられた宝玉ダイヤモンドは儚く輝き、より哀愁を漂わせた。故郷の宝玉は、迷わず神の下に還る為の道標となる。
小窓から覗くと、微笑む曾祖母がそこにいる。眠っているだけだと言われたら信じてしまいそうだ。昨日自分にかけられた言葉、彼女の唯一の未練。そして希望と、解放。声もなく、ただ静かに涙だけが零れた。棺に染みた一点の想いを、どうか共に連れて行って欲しい。
(本当に僕と引き合わせるために命を繋いだのなら。アディマンテ神に伝えてください。僕は国やお家の為に、なんて聖人染みた事は言えません。けれど、僕が僕であるために、関わった人達が幸せであるように。出来るだけのことはしたいと思います)
暦は六月の終わり。空は青く澄んでいるのに、しとしとと涙を流すような雨が降る。ディアローサ前当主の訃報は各地を駆け巡り、出棺時には大陸中から黙祷が捧げられた。人の涙はクォーツそのもののように儚く輝き、神へと続く道を照らす光となる。悲しみを超えた先に見えるものとは、何か。
クオタリシアでの別れの挨拶は少しの悲哀と、来世での巡り合いを信じて。
『さようなら。また会う日まで』