第五章 空色の海峡
ルチルとは、大陸クオタリシアを巣喰い力による完全支配を目論む悪の集団。この世界に生きる人々はそう教えられている。ただその実態を詳しくは知らない事に今更ながら気付く。
ペルティナはビルケの話を聞いてから、文献を漁りルチルについて研究を重ねたそうだ。ただ、公的な図書館の歴史書を見ても教学院で教わる以上の事は書いていない。ならば、と各街周辺の魔物を討伐して統計を出したり、瞳に浮かぶ針の量を見極め追い詰めてみたりと、この十数年全てをそれに費やした。
「はっはっは、そしたら婚期もすっかり逃してしまったな。ビルケを見付けたら、上等な酒でも奢ってもらわにゃ割に合わん」
時折茶化すような物言いをするが、そうでもしないと語り切れないのであろう。遠くを見るアメジストパープルの瞳が揺れていた。
それ以降、より金針の量が多い魔物を倒していた頃。元凶とされるルチル・ゴールド=タイチンの側近と出会うことになる。ルチルの名はあくまでも役職のようなものであり、本来の名は別であるらしい。レッドルチルと名乗ったその男と一戦を交え、有力な情報を引き出した。
「奴らは強い者を求めている。ゴールドルチルの支配するクオタリシアをより強固のものとしたいのだろう。その頃から、神隠しのように勇士が消えることがあった」
「人に巣喰い、操って配下にしている……?」
「死か、配下か。そういった取引があるような事をほのめかしていた。もっとも、当時はわしも奴も力は互角、諦めたように去っていったがな」
飄々と語ってはいるが、壮絶な戦いに身を置いたのだろう。たっぷりとファーのついたジャンパーを脱ぐ際に見えた逞しい腕にはいくつかの切り傷が認められる。
誰も何も言わないが、一つの可能性として最も確率が高いと思われる。そしてそれが意味するのは肉体の死か精神の死。どちらにしても耐え難い事実だ。
「ビルケが大陸中をまわって得た仲間達が今も動いている。裏の情報に精通する者も探ってくれている。ああしてブラックルチルに狙われた以上、これからも君達に危険が迫るだろう。気が逸る事とは思うが、急がず確実に力を身に付けるべきだと考える」
旅に出て数ヶ月から数年の経験の浅いパーティが何故狙われたのかは定かではない。思い当たるのはやはり、自分の事だ。
(僕がルチルの影響を受けているのを知っているか、気付いたか……)
リンザも確かに強いが、経験相応のもので取り立てて言う程ではない。ならばやはり――
「にしてもだ。不思議な子だったな、リンザという名だったか」
「ねえさんすっげー頼りになるんすよ!一つしか歳違わないのに考え方が大人っつーか」
「彼女はアメトリンだな」
「アメトリン?」
グラシエが聞き返すと、ペルティナが詳しく説明してくれた。ヘテロクロミアの中でも特別な組み合わせには別の名称がつくらしい。紫水晶と黄水晶のハーフ、それがアメトリンだ。ヘテロクロミア自体は全ての加護水晶の組み合わせで生まれる可能性があるが、その中でも特に強い魔力を持つらしい。
「コンタクトを嵌めて隠す者もいるくらい、ヘテロクロミアは悪い奴にも利用されやすい。堂々としたものだな」
感心するペルティナの言葉に、ならばリンザを狙っている可能性もあるのかと思い直す。別れ際のあの表情は気のせいでは無かったのだろうか。今頃は住み慣れた暖かい部屋でゆっくり休めていると良いと願う。
「うーん、結局いつあの変な人たちが攻撃仕掛けてきても良いようにすればいい感じ?」
地道な努力こそが近道なのだろう。現実問題、四人で戦っても近付けさえしなかった。
「使える魔法とか力量を把握して計画を立てた方がいいかな。聖護院で教われる魔法にも縛りがある。効率も考えないと」
四人は活発に意見を交わし、夜は更けていく。明けない夜は無いのだと、自らに言い聞かせながら。
珍しく遅めに起きた朝だった。昨日受けた依頼が思いの外難度が高かった為であろう。もう少し早めに出発する予定だったが、後悔しても時間は戻らない。
「なんだぁグラシエ!疲れた顔してんな」
「チスパ君は相変わらず元気だねー。分けて欲しいよ」
メテュストス周辺には関所である霊山の他にも洞窟と化した山々が連なっている。程度の差こそあれどこも深い雪に見舞われ、北の大陸は特に依頼数に比べ滞在している勇士が少ない。その為資金集めや自然界に存在する回復系アイテムの回収は満足に出来たものの、比例して疲労も蓄積する。
「ノグレー君も涼しい顔してるよね。やっぱ男の子だからかぁ」
「顔に出にくいだけで、僕もそこまで余裕じゃないよ」
滞在中はテュルキシアにいた時と同じように、聖護院で魔法の習得や救助・採取の依頼をこなすのを中心としていた。幾つかの依頼はペルティナも同行してくれた。経験に裏打ちされる自信は信頼できるもので、敵と戦う際の立ち回りを良く吸収出来た。活かせるかは今後の自分達次第だ。ノグレーは緑水晶加護魔法をレベルアップさせ、リトロワの上位であるヴェスゴを覚えた。グラシエも自分と相性の良い攻撃魔法として黄水晶加護を選び、チスパは武器を改良し攻撃力を特化させた。パーティのバランス・得意分野の分析などをノグレーが整理したお陰で無駄のない日々を過ごせたようだ。
荷物をまとめて、旅立つ準備をする。家主であるペルティナがいないのは、昔の仲間に呼び出されて昨日から出掛けているからだ。人付き合いが苦手だとは言っていたが、滞在中街の内外から連絡がひっきりなしに入る様子を見ていたので、顔は広いらしい。ビルケの恩恵ってやつさ、と彼は笑っていた。
「さ、行こうぜ」
心の中でありがとうと呟く。何かあればすぐに呼ぶように言われているが、なるべく自分達の力で歩んで行きたいとも思う。暦の上では春も終わりに入り、街周辺に生い茂る季節を告げる木々にはやっと花が付き始めた。これが散って緑に覆われる頃には、もう一回り成長していたい。
ピリリリリ……
一般通信用の携帯端末がメッセージを受信する。勇士となってからは宝玉での通信が主になる為、こっちで連絡を取る人間は限られる。
「シラからだ」
「また泣き言かー?」
「あと一ヶ月ないからラストスパート、頑張ってるってさ」
誰?と覗き込むグラシエに、もう一人の幼馴染みの存在を告げる。
「無事合格したら、合流する予定なんだけど……」
「もちろん良いよ!会えるの楽しみだねー」
「時期的に次の街がちょうど良いかもしれないね」
次に向かうのはテュルキシアと同じ青水晶の街、クアマリーネ。現在いるメテュストスからも、シラのいるグルナカルスからも、関所を一つ越えれば到着出来る。
「でもさー、メテュストスから結構距離有るよね!街道長過ぎ」
グラシエが地図を広げながら一人ごちる。東西南北の大陸内にある街から街へ、また別大陸へ向かうルートもなるべく決まった街を経由しなくても良いように確保されてはいるが、どうしても長短あるのは仕方がない。メテュストスからクアマリーネに行くのと、グルナカルスから向かうのでは二倍近い差がある。
「街道通ったら海に出るんでしょ?定期船が出てるんだよね」
大陸を跨いで次の街に行く場合、海上を渡るルートと陸地を行くルートがある。だが北と東を繋ぐ道は海上のみで、一日二回朝夕に出る中型船舶が唯一の手段と言って良い。渡航人数は制限されているが、二、三人が一緒に入れる個室も用意されている。逆に言えば、一人で船に乗る場合基本的に相部屋となるのだ。
「魔物は海の上にも出るからな、何か来たら俺達が戦わないといけないんだよな。またあのメルデモンみたいなのいそうだなー」
「や、やめてよ~あいつやだ」
「お、グラシエでもお化けは怖いんだな!意外だ」
「凄い勢いで追い払いそうなのに」
「何よーノグレー君までヒドい!」
体力に自信のある者は泳いで渡ることも不可能ではないそうだが、まず一番に選択肢から外したのは言うまでもない。
「船が出るのは朝の九時と夕方の六時だけだからね。昨日全大陸共通の採取依頼いくつか受けたから、探しながら行けばちょうど良いよ」
「さすがノグ、抜かりねーな!」
効率良く依頼をこなして、資金とポイント報酬を得る事も慣れてきた。採取や人助けで得られるポイント報酬は、魔物を倒した際に精算される魂の欠片と同等のものだ。多く集めるほど武器防具の改良等に役立つ。
まだ昼を過ぎて間もないあたりで日も高い。どんなにのんびり歩いても、船着き場まで二時間とかからない。聖護院で受ける依頼は、大概が受注・報告する場所が同じ街と決められている。しかし依頼主が聖護院そのものの場合は、どこで報告しても達成出来るのだ。
「メテュストス―クアマリーネ間、試練の海峡前の街道…… 、センキグサ三つの採取、レダイヌの尻尾一つ、シルクウイング五つ」
ノグレーから渡された依頼書をグラシエが読み上げる。
「センキグサは何かの原料になる植物かなぁ?生えてるのすぐ分かるなら良いけどね」
「このシルクウイングって何だ?」
「ここで出る魔物が稀に落とすらしいんだ。次々に倒して偶然を待つしかないね」
肌寒い街道も、東南へとどんどん下って潮の薫りを感じる頃には暖かな風に覆われた。南から昇る季節の境目が自分の中を通過したような思いがして、不思議と気持ちが逸る。
道中センキグサやシルクウイングはどうにか手に入れたが、意外にも一番難しいのはレダイヌの尻尾だった。普通に倒すと、魂の欠片が残り魔物の体は消えてしまうのだ。尻尾を得るには、完全に体力を失う前に切り落とさなくてはならなかったらしい。すばしっこくなかなか背を向けない上に、もうこちらの攻撃力が勝っていて加減がし辛い。しかも海に近付くと生息数が少なくなるようで、少しずつメテュストス側に戻らざるを得なくなった。
そんなこんなで、やっとのことで尻尾を手に入れた頃には日が翳り始めてしまっていた。
「まあでも着くのが早過ぎてじっと待つ羽目になるよりは良かったんじゃねーの?」
「そうだね。新しい魔法もだいぶ使いこなせるようになったし」
「黄水晶の加護魔法使うと何だかリンザおねーさんに近付いた気がするー!」
「……うーんと」
「ははっ、ねえさんみたいになるには百年くらい早いと思うぜ!」
「チィ、そんなはっきり」
「もー!ふたりとも見てなさいよっ」
船着場周辺にはまばらに勇士の姿が見える。自分達と同様にここからクアマリーネへ向かう者達だろう。古びたロープで仕切られた乗船口に並ぶ。少し経って、着港の汽笛が聞こえてきた。中型客船の船首楼には美しい碧がかった水色の宝玉――アクアマリンで出来た女神の彫刻があしらわれている。第三の街と海を守護するクアマリーネ神の姿だ。夕陽の輝きと水面の反射を受けて七色に光る。
船番の持つアクアマリンクラスターに勇士の宝玉を翳し、認証を得る。乗船にお金はかからないが身分証明は必須だ。その昔人に化けた魔物がトラブルを起こしたのだと、自分達より後ろに並ぶ勇士が話しているのが聞こえた。
全員の受付を終えると部屋割りの打診を受ける。夜の乗船は特に一晩を船の中で過ごすような形になるので、男女混合のパーティは気を遣ってくれているようだ。グラシエは特に気にしていないようだったが、他に女性一人の渡航者がいるとのことで一旦別れる運びになった。
部屋には簡素なベッドと通信用のモニター、非常時用のセットがあるくらいでとてもシンプルだ。ベッドに座ってくつろいでいると、モニターが勝手に起動し画面には恰幅の良い中年の男性が映る。
“勇士諸君、この度はご利用ありがとう。私は船長のルクス、試練の海峡の案内人である”
彼の長い話によると、北と東の大陸を往復する船は二隻あり、四人兄弟で昼夜交代しつつ運航しているらしい。
部屋にはアナログタイプの時計があるが、その側にデジタル時計のような文字盤がある。そこに映し出された時間帯には甲板に出て、魔物が襲ってこないかの見張りをするそうだ。ただし女子だけの部屋では文字盤が点灯せず、見張りも免除される。
最後に、海峡の途中には二つの無人島があると彼は告げた。それぞれに停泊し自由時間があるとのことで、船の中にいても外に出ても良いらしい。採取出来る珍しい植物や素材もいくつかあるので、探検してみるのも良さそうだ。
“夜だから無理して出なくてもいいが、船にあしらわれたクアマリーネ神の彫刻像がとても美しく輝くから一目でも見るのを勧めよう。宝玉アクアマリンは夜の女王とも呼ばれる。……伝達事項は以上かな。海の守護神に感謝を捧げ、いざ出航!”
汽笛を生で聴くのは初めてだ。ポ、ポ、ポー……と高らかに鳴り響く音に胸のすく思いがする。水面に船の影がおおきくたゆたう。北の大陸から南東に向かって真っ直ぐに、彼らは初めて自らの生まれ育った大地を離れゆく。希望にも不安にも似た感情が、船のわずかな揺れとシンクロするようだった。
「俺達は十九時から一時間甲板に出れば良いんだな」
チスパが部屋の文字盤を眺めて確認する。最初の無人島ブラディスタへの上陸予定時間は二十時だから、見張りが終わる目安も分かりやすい。それまでの約一時間をどう過ごそうか。
「それにしても船って時間かかるよな。二番目の島……コラリア島だっけか?に停泊が二十二時で、クアマリーネに着くの一時だろ?」
「滞在が一時間ずつあって、合わせてだいたい七時間くらいだね。海峡自体が関所だから仕方ないよ」
自分で歩かなくて良いだけ感謝しないとね、というノグレーの言葉にチスパも頷いた。
「大陸を三つ踏破すれば、勇士証明をした街に一瞬でワープ出来る術を教われるって聖護院で聞いたけど」
「まだまだじゃねーか。やっと一つの大陸離れるとこだってのに」
新米勇士が自身の生まれ育った大陸から外に出る。つまり、そう簡単に自宅には戻れないという事でもあった。ここから先は覚悟が必要だ。
「そういえば、リンザはどうして術を使わなかったんだろう」
「三大陸くらい軽く行ってそうなのにな。魔力温存してたんじゃね?」
とはいえ街に着いてしまえばそれ以上の消費はないし、休めば回復出来る。わざわざ護衛を頼んでも、結局戦闘で魔法を連発していたのだから温存という風にも見えなかった。
(何か引っかかるけど、気にするほどのものでもないか)
「ねえさん元気でやってっかな。メテュストスで別れるとき寂しそうだったし」
「え……?」
「あれはきっと明るさと笑いを振り撒く俺様とのさよならが悲しかったに違いない!大丈夫だねえさん、勇士はいつでも宝玉で繋がっている。助けが必要ならいつでも駆けつけるぜ……!」
まさかチスパも何か感じ取っていたのかと思いきや、彼の脳内では悪に捕らわれた可哀想な姫君を自分が救う物語が展開されているらしい。やっぱりチスパはチスパだった。妄想の世界に浸りながらポーズを決める姿を呆然と眺め、ひとつ溜息をついた。
ピーッ、ピッ、ピーッ、ピッ
「おっと!噂をすれば!」
宝玉の通信音を聞いて、嬉々として勢い良く応答するチスパ。
「やっぱりねえさん!いえね、今丁度元気かな~って話してたんすよ。ねえさんの声が聞けて嬉しいっす!ノグもいますよ!今オープン通話にしまっす」
チスパの促しを受けて、当たり障りのない挨拶を済ませる。声だけで全ての感情は読めないが、とりあえず悪に捕らわれ王子の助けを待つ困窮状態ではない、というのは間違いない。
『クアマリーネはとても綺麗な街よ。初めての別大陸がこの時期の東方なのは良かったわね。天候も安定してるし、あともう少ししたら雨季に入るけれどそこまで荒れないわ』
「リンザは南の大陸には行ったことある?……東を巡り終わったら次はそっちかなって」
『ええ。このペースなら秋頃かしらね、真夏の時期はあまりお勧めしないわ。チスパやグラシエちゃんならともかく、あなたは得意じゃなさそうだもの』
「忠告忘れないでおくよ」
いくつか近況を語り合って、通信は切れた。ノグレーの胸にひとつのわだかまりが生まれる。一度気になってしまうと、答が見つかるまでいつまでももやもやと考え込んでしまうのは悪い癖だ。
ともかく、リンザが全大陸に足を踏み入れていることは分かった。であればとても不自然だ。わざわざ初心にも程がある自分達に話し掛けてきたのは、単なる偶然だったのだろうか。彼女と旅を共にした優しい記憶を無理やり疑っているようで、罪悪感が拭えない。自意識過剰と言われればそれまでだ。
(心には、とめておこう。もし本当に……助けを必要としているのなら、その時どうにかすればいい)
「ノグー!十九時だ、行くぞー!」
「そんな大声出さなくても聞こえるから」
旅に出る直前のやりとりもこんな感じだったっけ。ほんの数ヶ月前だというのに妙に懐かしい。けれど巡る思いに詰まった際、意識を逸らす幼馴染の大声が救いになることもあったのだ。
凪いだ水面が緩やかに白く泡立つ。切っ先で裂かれた波にまみれて、儚く消えていく。意外なほどに静かだ。潮風を受けてはためく帆の音も心地良い。
空には満天の星が輝き、深い蒼に散りばめられた金色の光はテュルキシアの副玉ラピスラズリそのものに見えた。鍾乳洞奥地に佇む、ターコイズとラピスラズリが混じり合った美しい巨大な鉱石を思い出す。当時は緊急指令で女勇士――後に仲間となったグラシエ――を助ける事に意識を割いていたので、また行くことがあればじっくり見てみたいと思う。テュルキシアはクアマリーネと同じ青水晶の加護を持つ街だが、前者は空の青、後者は海の青を示すのだと気付く。だが、確かもう一つ青水晶の街があったはずだ。西の大陸にある第九の街ザフィリア。かの街の青は何を示すのだろうか。
「んあー、風気持ち良いー」
「……僕にはちょっと肌寒いくらいだよ」
ポンチョを羽織り直すノグレーを見て幼馴染は声を出して笑う。
「やれやれ、体温低いなーノグは」
「紅水晶の加護持ちと同列に比べられてもなあ」
交代時に前任者からは魔物が数体現れたと聞いたが、まだ特に異変もない。このまま何事もなく時間が過ぎれば良いのだが、警戒は解かずにおく。油断が命取りなのは今までの数少ない経験で散々頭に叩き込まれたからだ。
「海って綺麗だな。映像と本物じゃまるで違う」
「うん。海だけじゃなくて、街を離れたらだいたいが初めて見るものばかりだから新鮮だね」
「こんな綺麗な世界をさ、ルチルの一派どもは壊そうとしてるんだよな」
神が創り出した大陸は、生まれ生きる人間の手によって長い年月をかけ開拓され、維持されてきた。この美しい大地を虎視眈々と狙い、蝕む病魔の如く水面下から巣喰おうと企む悪の存在は、永劫続くと思われた平和を脅かす。
チスパの言わんとしていることはよく解る。新たな地に足を踏み入れ現地の人々と交流を深めるうちに、世界の危機に対する勇士としての使命感が湧き上がってくるのだ。
「月並みだけどさ、守らないとって思うんだよな」
「誰だって、自分の居場所を失うのは嫌だからね。その為に勇士がいるんだ」
個々の実力はともかく、勇士には大陸を守る為の力が与えられている。期待されるだけの才能を持ち合わせていると、傍目からは判断されるのだ。
旅立った直後は、自分がやらなくてもという気持ちは正直あった。勇士は世界中に大勢いるし、経験豊富で実力のある者が中心となって悪を討つシナリオが出来上がっていた。自分達は新米らしく、世界に蔓延る悪のおこぼれである魔物を減らしていけば良いと。だが歯車は狂い始めた。いつからかは定かではない。旅立ちの日か、ノグレーの父が失踪した日か……あるいは自分自身が生まれ落ちたその瞬間からだったのか。諸悪の根源の側近と接触した人物は世界中を探してもきっと少ないはずだ。それはそのまま、彼らと戦う運命を持つ者の証なのだろう。
「三金紅つったっけ?俺らの出会ったブラックルチルと、ペルティナのおっさんが戦ったレッドルチル。あと一人側近がいるんだな」
「側近をまとめるリーダーみたいな存在かもしれないね」
「おっさんでも一対一で互角だったっつーに更に強いってか」
気が遠くなるな、と手をひらひらさせてチスパは溜息をついた。
「やっぱ数に物を言わせるか……それともノグ式に話し合いを……いや無理だな」
チスパの独り言は両極端なものだったが、結局のところ話して分かる相手でなければ力ずくになるのはやむを得ない。けれど、話し合いと言わずとも交渉の材料にはなるのではないか。他でもない、ノグレー自身が。幼馴染には決して言えない物思いを巡らせていた。
『おう、あんちゃんらそろそろ部屋に戻って良いぞ!もうすぐブラディスタだ!』
船長からの短く簡潔な業務連絡に気持ちを切り替え、遠くに見える孤島が徐々に近付いてくるのを確認する。魔物に襲われなかった事に安堵して、二人は顔を見合わせた。まだ本土ではないとはいえ、初めて足を踏み入れる異大陸にそれぞれの願いを託しながら。
なめらかな緑色をした大地は、ダークレッドの森林に覆われていてどこか禍々しい。けれど見た目よりもずっと優しい場所なのだろう。そう思うのは、船首の創世神像が優しく微笑むように見えたからだ。
船長が嬉々として聞かせてくれた神話によると、クアマリーネ神が第三の街を作る際に指に傷をつけてしまい流れた一滴の血がブラディスタに、零した一筋の涙がコラリアになったと伝えられているらしい。命を育む孤島と育てる孤島、二つの島は長い航海で立ち寄る憩いの場となったのだ。
「いたいた!ノグレー君、チスパ君!」
夜の静寂に響く声に振り向くと、グラシエが駆け寄ってきた。隣に大人びた雰囲気の女性を伴って。
「もしかして、同室になった人?」
「これは美しいお姉さん!グラシエがご迷惑をかけませんでしたか?そんな事より俺と夜のランデブーなんて」
「すみません、いつもの事なのでお気になさらず」
澄んだアクアブルーの瞳と、ラピスラズリのように深い蒼をした髪。彼女の中に海と夜空が同時に存在しているように見えた。一瞬グラシエと同郷かと思ったが、隣に並ぶとその違いがよく分かる。テュルキシア出身者の瞳はもう少し黄みがかった青だ。
「……セラータ。よろしく」
表情は乏しいが、こちらに嫌悪感を持っている事はなさそうだ。チスパに言った所で聞くわけがないので、初対面口説き術のフォローをするのが役目となりつつある。
「セラータお姉さんはクアマリーネに帰るとこなんだって!他の青水晶の街生まれの人と話すの初めて!リンザお姉さんよりもベテランさんなんだよー!」
聞かれてもいないのによく喋る。この分では、自分達の情報もある程度伝わっているに違いない。全く、チスパもグラシエも警戒を知らない。最初から何かを疑ってかかるようなことは流石に無いが、少し不安になってくる。誰もが皆善人では無いのだ。
各島への滞在は一時間と決められている。クアマリーネ到着まで船を降りずに睡眠をとる者も、特に夜の航海では多いという。勿論それは勿体ないので四人は海岸沿いを探索することにした。セラータにとっては珍しいものも無いだろうし休息を取った方がと思ったが、グラシエが彼女を離さない。それでも呆れたり無理をしている様子もなく、案内役として一緒に来てくれる事となった。
「稀に鉱石の欠片が落ちてる。集めておくと、いざお金に困った時装具屋で引き取ってくれる」
時折旅に役立つ情報を交えながら、セラータは聞かれた事全てに簡潔に答える。質問を投げかけるのは主にグラシエと年上お姉さん好きなチスパで、ノグレーは聞きながら辺りを見回していた。水辺と陸の境は、身を隠す場所が無く魔物に詰め寄られやすいのだ。
微かに音がした。魚の跳ねるような、湿り気を含んだ水音。無意識に首もとの勇士の宝玉に手を伸ばす。仲間達に気付いた様子はない。顔を動かさずに目線を左右に巡らせると、視界の端に何か白いものが映った。奇妙なうなり声を上げて、砂飛沫の合間からそれはこちらを目掛けて飛びかかる。
「……ッ、あぶな……」
ノグレーが武器を取り出すより先に、青い影が横切る。その機敏な動きをする者がセラータだと気付いた次の瞬間には、鋭い牙と角を持つ小柄な魚の魔物は円く形作られた水の球に閉じ込められていた。
「グラシエ、来て。貴女じゃないと」
「えっ、えっ?」
ぽーっと見とれていた所を呼ばれ、グラシエは訳が分からないといった様子でおずおずと近付く。そしてセラータに教えられるがまま水の球に手を翳し、現れた青い波動に驚きを隠せずにいた。二人の波動が重なり、円い水面が揺らぐ。表面がぼこぼこと波打ち弾け飛び、中の魔物は重力に逆らうようにゆっくりと地上に降り、そのまま海へと去っていった。
「な、なんか分からないけどすごーい!」
「貴女、素質ある。私と合う人、今までいなかったから」
「……襲ってきた魔物を逃がして大丈夫なの?」
「あのコは牙角魚コルキスクの幼生。砂浜に打ち上げられて瀕死だった。最後の力を振り絞って、助けを求めたの。あのまま海に投げ込んでも永くないから」
あの波動は、青水晶の癒しの力を増幅させたものだと言う。不可解な行動だった。魔物の子どもを助けて逃がしたところで、いずれはまた人を襲うのではないか。勇士の使命は魔物を討伐し数を減らすことではないのか。
「魔物はルチルの眷属、そう教わった?」
「違うの?」
「違う。今は魔物と呼ばれるコ達は、神々の眷属。……だったの」
海辺にはいくつか休息所のような小屋がある。セラータに促され、その一つに腰を落ち着けた。説明の続きを求めれば、変わらぬトーンで話を再開してくれる。
「十二の街、十二の神。創世神話ではそう伝わっている。けれど、語られない神がいる。それがルチル」
落ち着いた口調で告げられた言葉に三人は信じられないといった顔をしていた。無理もない、倒すべき宿敵と定めた相手が神だと言うのだから。聞き返す事すら出来ない衝撃に、静寂は張り詰めていく。そんな空気もものともせずセラータは続きを語る。
第十一の街を創ったツィオトパス神の次に産まれたのはテュルキシア神だと、現代では伝えられている。だが、実はテュルキシアの前に産まれた神がいたのだ。成長が遅く、いつまでも形を為すことのないそれを神々の命の源であるクオタリシアが失敗作と見なし、切り捨てた。十二の神が揃い、大陸が生まれ街と人と動物達が創られた頃、その神は目覚めの時を迎えた。そして自分が捨てられた事実を知り、他の神々を恨み、彼らの創った美しい大陸――ひいては全ての生きとし生けるものの象徴たるクオタリシアを征服せんと、まずは御しやすい言葉を持たぬ動物達に悪意を植え付けた。それが今で言う魔物の事なのだ。
「それってつまり、んん?……ああもうよく分かんねぇ!」
「魔物達のルチルに巣喰われた瞳が、悪意に支配された証。元は十二の神々が産み出した存在だから、討伐したところで神の力が削がれるだけ」
「ええーっ!?ど、どうしよう!今までかなり倒しちゃったよね?」
「見境無く襲うようなレベルに達していたら仕方のない事もある。けれど、出来ることなら悪意を取り除いてあげたい」
それが、さっきの青い波動の意味だという。
「二人でも、完全には無理だった。もう一人必要」
途方もない話だ。この世の全ての魔物から悪意を取り除くなど、命がいくつあろうと足りない。不老不死の術でもなければ不可能に等しい。
「失礼な言い方だけど、あなたは何者なんですか。どうしてそんな事を知っているのか」
「……昔は誰でも神様が見えた。けれどルチルの悪意が蔓延り神の力が少しずつ衰えて、その姿は徐々に見えなくなった。私の家系は、見えた頃の神の言葉を繋いでいる」
神がその街で一番最初に創った人間の末裔が今のローサ十二家。セラータはクアローサの分家にあたる者らしい。各街のローサに連なる人間だけが、最後まで神の姿を認識していたそうだ。けれど神の言葉は何故伝えられずにいたのか。真実を広めれば事態は変わったようにも思える。
「混乱を招くから?神に祈りは届くけれど、あちらから介入は出来ないって」
「それもある。神では大陸を救えない。だから中央とローサの一族は真実を秘めている。ルチルの魔の手からクオタリシアを守る唯一の方法を探しているの」
初めて癒しの力を与えられたクアマリーネでは、ローサ一族に特に強い力が与えられていた。それを代々受け継いだマリーツァ家はセラータの代となって一つの方法を編み出したのだった。
「それが、魔物からルチルの悪意を取り除くっつーあれか。うん、よーやく分かってきた!」
「誰にでも話している訳じゃない。強さや精神バランスを見極めて、それでも私の波長に合う人はいなかった。他の街で青水晶の加護を会得した者でも。意外だったけれど、試してみて良かった。グラシエ、貴女の力を貸して欲しい」
「ええっ、でもあたしにそんな大層なもの無いよ……次上手く出来るかって言われたら自信ないなぁ」
「もしかしたら、アディマンテの影響かも」
自分の生まれた街の名を出されて、ノグレーは弾かれるように顔を上げた。ローサの末裔とは自分の事でもあるのに、この瞳がルチルに巣喰われたせいで生まれ故郷を離れ何一つ真実を知らずにいる。その事が歯痒くて、けれどそれがルチル神の悲しい悪意と知って戸惑う。誰だって自分の居場所を失いたくない、それは先程船上でチスパに語った言葉だ。目覚めたルチルに居場所は無く、奪う事しか出来なくなった。同情してしまうのは、悪意に影響されているという証拠なのか。
「アディマンテの加護は自分に向けてのものじゃない。他人の力を増幅させる。良い方にも、悪い方にも。特に貴方、強い」
神話や神の加護についての知識が深いと、他人のオーラのようなものまで感じ取れるのだろうか。言葉少なに核心を突く彼女に少しばかり恐怖を覚えた。全てを知っていて何も言わずにいるようにすら感じる。
「……そろそろ時間」
船に戻るまで、四人は一言も言葉を発することは無かった。
次に停泊する予定のコラリアで外に出る気分にはなれなかった。三、四時間程度なら少し眠ってしまった方が良いのかもしれない。起きているときっと余計な事を考えてしまう。
「ノグ、寝ちまったか?」
「……元々寝付き良い方じゃ無いけど、今日ばかりは恨めしいね」
話す相手が起きているのなら、そうした方が気が紛れるだろう。開き直ってはみても、ベッドから起きあがる気にはなれない。
「クアマリーネの次、さ。どうする?」
チスパが窺うように尋ねる。彼なりに気にしてはいるのだろう。けれど、船に乗った時からもう覚悟は決めていた。セラータとの出会いが、その決意をより強固にした。
「生まれた街に、行くよ。まだちょっと怖いけど」
「そっか。ノグがそう決めたなら従うまでだ。船の中で言うのもあれだが、大船に乗ったつもりでいろよっ!街の奴らにいじめられたら助けてやるからな!」
「そもそもいじめるほど僕を知っている人間はいないよ」
十八年前、泣くことしか出来ない赤子の頃に離れた生まれ故郷。一つの街は小さな国とも言える規模だ。瞳の色で判断されても、どこの誰かなど一々気にはしないだろう。
次に目が覚めれば、癒しの街が迎えてくれる。まずは混乱した心を落ち着けて、幼馴染の吉報を待とう。
大海を映す円い窓の向こうで、わだつみは勇士を乗せて波間を唄う。夜空の蒼を反射して、行き着く先は――天の明光か、はたまた地の侵蝕か。神の微笑みだけが、信じるべき道だった。