第一章 銀色の勇士
宝玉の聖なる力に守られた一つの広大な大陸そのものが、ただひとつの国であった。
大陸クオタリシア。春には花の嵐が吹き、夏には灼熱の太陽が照りつけ、秋には木枯らしに落ち葉が舞い、冬には雪が遊んで銀に染まる。当たり前の幸せを当たり前に感じ取れる大地。
統治を任された十二の街は、全てを巡り切るのに最低でも一年はかかると言われている。街から街への移動を阻む様々な洞窟や草原、山道などそれらはどれも険しい道のりであり、魔物たちがそこら中に蔓延っていた。そのため街ではそれぞれの国立教学院で武器や魔法の使用方法を学ばせ、卒業試験での成績優秀者に「勇士」の称号を与え、街の外へ出るのを許可しているのだった。
第一の街、石榴郷グルナカルス
第二の街、紫玉郷メテュストス
第三の街、藍玉郷クアマリーネ
第四の街、金剛郷アディマンテ
第五の街、緑柱郷スメラルダ
第六の街、月珠郷ルナペルラ
第七の街、紅玉郷リュビシン
第八の街、橄欖郷ペリルグリューン
第九の街、青玉郷ザフィリア
第十の街、虹遊郷オパルサス
第十一の街、黄玉郷ツィオトパス
第十二の街、蒼天郷テュルキシア
また、これらの街、大陸全土を統べる天主と宮殿の護り主である四天王の姿は、国民は誰一人相見えた事はなかった。街への魔物の襲撃が極稀にあるものの、国家の主が手を下すような事態はこの数百年起こっておらず、概ね平和と見なして良いと民衆は語る。
そう、良かった、はずだったのだ。ある一人の少年が旅立ちを夢見たその日までは。
――――――――――
「ノグレー、準備は出来たの」
よく通る女性の声が、部屋の向こうの彼に優しく語りかける。ノグレーと呼ばれた少年は特に慌てた様子もなく部屋から姿を見せ、食卓に行儀良く座ってバターのたっぷり塗られた厚切りトーストと温かいトマトスープに口をつける。
「まだ大丈夫だよ、母さん」
「今日は卒業試験の結果も出るんでしょ。なれるといいわね、勇士」
「まあ、頑張ったつもりだけど」
朝食を手早く終えて、寝巻きからお気に入りの普段着へと袖を通す。柔らかい銀髪の先っぽにところどころ付いた跳ねはあくまでも癖っ毛であり、寝癖ではない。
そして今日は卒業式であり、同時に他の街へ遠征出来る資格を得られるかが決まる、いわゆる『卒試順位発表』の日でもあった。
「天主様に祈らなくてはね。ノグレーが最良の結果を出せるようにと、あとあなたのお父様の無事を」
「試験終わってから祈ってもなぁ、それに」
父さんは、もう生きていないかもしれないのに。そう言おうとして、ハッと口を噤んだ。母を悲しませる事は言うべきではない。それでも、自分が生まれたすぐ後に旅に出てこの十八年音沙汰のない父の事を考えると恨めしくもあった。母はただ、微笑むばかりだ。
ふと窓の外に特徴的な赤色の何かが見えて、ノグレーは咄嗟に手の平で両耳を押さえた。次の瞬間、おーい起きてるか!と地面すら驚愕に揺れを禁じ得ないような大声が聞こえてきて、眉を潜める。母は慣れてしまったと言わんばかりに苦笑して、息子に目線で促した。
「チスパ君が迎えに来たわよ、さあ」
「全く、近所迷惑だって言っても直んないからな。じゃあ、行って来ます」
「ノグレー、忘れ物」
母がいそいそと差し出したのは、クラッペと呼ばれる片目用の眼帯であった。黒くマット調のゴムのような質感のそれには、母方・ガロファニエ家の紋である花のような模様が浮き彫りにしてある。男子の自分が付けるには少々気恥ずかしいものだが、職人である伯父がわざわざ誂えてくれたというから文句は言えない。澄んだ銀色を湛える右目を隠して、片方だけの頼りない視線を整える。
「行ってらっしゃい」
柔らかな日差しをその身に受けて、大地を勢い良く蹴った。
その人間がどこの出身かは、瞳の色で判別できる。ここグルナカルスの民は皆深い紅の色をしていた。髪の色は人それぞれなのだが、目の前にいるがたいの良い男は瞳と同じくらい赤々と、そして宵闇を迎える前の燃える夕焼けを溶かし込んだような色の髪だった。
「よおノグ!迎えに来てやったぞ!」
「チィ、あんなに叫ばなくても聞こえるから」
チスパ=トラモント、それが彼の名だ。ノグレーの父とチスパの父が親友で、赤ん坊のころに母親とこの街に移住する事になった際多大な助力を受けたとの事だった。丁度同じ年に生まれた二人は兄弟のように育った幼馴染である。
そう、ノグレーはこの街の生まれではない。色素の薄い白い肌とダイヤモンドシルバーの瞳は、第四の街アディマンテの民の特徴だった。故郷、と思えるほどの記憶もないが、なぜ移住しなくてはならなくなったのか母は語らない。ただ、本当は“見える”はずの右目を人前で隠す理由だけは教えてくれたのだった。これについては母の他にチスパとその家族しか知らない。それが関係しているのだろうと、薄々感付いてはいるのだ。
「おーいノグレー、チスパ!」
チスパの笑い話に適当に相槌を打ちながら歩いていると、前方から少女が駆け寄ってくるのが見えた。白金カラーのたっぷりとしたおかっぱ風な髪をふわふわと揺らす彼女は、もう一人の幼馴染である。グルナカルス一の道具屋を経営するエカイユ家の一人娘だ。街中に顔の広いチスパの父は道具屋とも深い交流があり、そこの娘と同い年の自分の息子、さらに兄弟同様に育った少年が仲良くなるのは必然の事だったとも言える。
「シラ!おはよう」
「おっはよー!今日で卒業だねぇ…最後だし、一緒に行こうよ」
「はは、卒試結果一人で見るの怖かったんだろ」
「う、うるさいなー」
事実、シラの家からノグレー達の家の方面まで来るのは教学院と反対方向となる。それ故に、教学院では常に三人一緒に行動をしていたものの共に登校するのはこれまでほとんど無かった。
「でも正直、自信ない。試験の時、途中で頭真っ白になっちゃって」
「勇士になったら、三人で一緒に旅立つって約束したろー?大丈夫だって」
そうだね、と翳りのある笑顔を見せたシラをチスパは励ます。言葉は少ないが優しげに見守るノグレー。変わりないこの光景は、卒業したあともずっと変わらないと信じたかった。
―――国立教学院グルナカルス校。
十二の街の一つの名を冠する学び舎は、それぞれの司る宝玉の色で区別が付くようになっている。白い煉瓦造りの建物なのはどこも共通で、時計や屋根、門扉などは宝玉そのものが使用されている。偶数の国は六歳から十六歳までの十年間と希望者のみ二十歳まで、奇数の国では六歳から十八歳の十二年間、義務教育が施される仕組みだ。そして卒業年に試験を受けるのが所謂慣わしのようなものであり、これが自動的に勇士選抜試験となるのだ。
「ういー、着いたぞー!式の前に結果、いっちょ行ったるか」
「うぅ……、怖いよ……」
「シラ、ここまで来たんだから、行こう」
「う、うん!」
重々しい緋色の扉を抜け、結果受け渡しデスクの前に真っ直ぐ向かう。学生証を差し出して認証を終えると、一通の封筒を手渡される。校章を象った封蝋を丁寧に剥がして中身を見れば、そこに順位が記されているのだ。
「どれどれ……、うわっすげー!ノグ首席じゃん!さっすが天才と呼ばれた男!」
「覗き込むなよ、別に天才とか言われたことないし。そういうチィはどうだった」
「じゃじゃーん!10位!滑り込みセーフ!さっすが俺様!」
なお、卒業試験で勇士になれるのは上位十名までとされている。卒業者を対象とした勇士試験は毎年開催されるのだが、一年に一度しかチャンスはないため結果が出ないと諦める者も多い。それほどに、見知らぬ世界に足を踏み入れるのは危険なことでもあるのだ。
「……シラは?」
「やっぱり、ダメだったー、24位だって」
「そっか……」
「でもノグレー1位なんてすごい!友達として誇りだわ。チスパも、ここぞって時にはやるんだよね。おめでとう」
「……でもよ、そういえば!」
明るいけれど気を使い過ぎるシラと真面目で繊細なノグレー。暗くなりそうな空気を打ち破るのは、いつもチスパの役目だった。
「卒試の11位から30位まではさ、優先試験受けられるんじゃなかったっけか?一年後じゃなくて、半年後にやるやつ」
「そうだけど、九割正答しないと合格出来ないし……私には……」
「でも、順位制じゃないから頑張り次第だ」
「そうだぜ、シラなら出来る!合格するまで、待っててやるからよ!」
「ノグレー、チスパ……うん、ありがとう。私諦めないでやってみる」
シラに笑顔が戻ったところで、教官に式典の開始時間が近いと知らされ慌てて講堂へと向かった。
学長の長話はどうやら世界共通だ。百名ほどの卒業生たちは私語も無く真面目に話を聞くのだが、棒立ちの脚の疲れを分散させるために足踏みをしたり、眠気を飛ばすために腕をつねってみたりと、人知れずの努力を強いられている。
式典の途中、試験の上位十名が祭壇前に呼ばれ、祝福の言葉と盛大な拍手を受ける。勇士の証となる宝玉を授与され、目の前で希望の形状へと変化する。ノグレーは首から下げるのが楽なペンダントタイプ、チスパはベルトアクセサリータイプを選択した。もちろん身分証明にも役立つが、『身を護る』能力が上がるとされている、実用的な国宝でもあるのだ。
仰々しい程の式典内容に、そこまで目立つことが好きではないノグレーは若干辟易していたが、チスパときたら両手を大きく振って声援に応えている。流石だと言わざるを得ない。自分たちの場所に戻り、残るはようやく閉会の言葉だ。これが終わったらまず母に報告して、チスパやシラの家にも挨拶をしに行こう。シラの合格を待ちながら、これからの予定を立てるんだ。
ドゴッ、ガシャーン!
グシャ、ザザ、ザ…
突如講堂が大きく揺れ、はらはらと砂塵が舞った。ガラスが割れる音、煉瓦が崩れる音、パニックになった生徒たちの悲鳴。我に返った教官が外への避難を呼び掛ける。我先にと講堂の扉に殺到する人の波に揉まれながら外に這い出た。思いもよらぬ惨状に目を見張る。屋根や門扉は見るも無残に崩れ落ち、ところどころで倒れこむ人々。そして、見たことのない魔物がこちらを見据えていたのだ。
「ヒ、ヒイィ!逃げろー!」
恐怖に慄いたこの状況を打破するにはどうするか。ノグレーはそこから動かなかった。立ち竦んでいたわけではない、それはチスパも同じだった。チスパはシラに生徒たちと逃げるよう促して、ノグレーの元に急ぐ。
「勝率は」
「わかんないけど、やるしかない」
「首席様と、十位様の最強コンビに敵無しってね」
「気軽に言ってくれる、おっと!」
魔物の攻撃を身軽に避けながら、どうすれば良いのか冷静に分析する。生徒たちはともかく勇士となった他の者達まで逃げたのは頂けないが、それも仕方の無いことだ。授業で使うモンスターは機械映像の訓練用だったし、まさか街にまで侵入してくることは普通想定しない。けれど、ここで逃げても何も解決しないということだけは分かる。放っておけば破壊の限りを尽くされ住宅地にまで被害が及ぶかもしれないのだから。
(く、何か…何かあいつの弱点とか)
ノグレーは集中して敵に目を凝らす。直接見たことは無くても、教学院図書室にある魔物辞典で似たような種を見た覚えはあった。真っ黒な鋭い毛に覆われた大型の獣のようだ。鋭い目に丸い耳、骨ばった蝙蝠のような羽が生えている。そこで、ある事に気付く。
(瞳に…金の針!)
隠れていた右目が疼く。背筋を過ぎるぞわりとした感覚に抗うかのようにクラッペをそっと外し、両の眼で敵を見据える。
「……ウルシェラゴだ!属性は緑。チィ、紅水晶の加護使え!」
「得意分野だぜ、任せな!」
チスパが両手の中に紅い気の玉を作る。照準をウルシェラゴという名の魔物に合わせ、気力の限りに溜めたそれを勢い良く放つ。
「ロサート!」
唱えられた呪文と共に紅い光線が魔物を貫く。ぐらりと揺れ、倒れこむその姿が灰になっていく。
「や、やったぜ!ノグ、倒した!」
「はぁ、はぁ……」
奴の瞳を見た瞬間、体中の血が煮えたぎるような感覚に襲われた。そしてその名と属性がふと頭の中に浮かんで、どっと体が重くなったのだ。クラッペで再び右目を隠してもこの感覚は終わらない。あまりにも未知のもので、震えが止まらなくなる。地面に身体を預けうずくまって凌ぐしかなかった。
「おい、ノグ!大丈夫か!?」
「……ん、なんとか」
「お前の機転のお陰だぜ。さすがに俺一人だったらどうにもならんかったな」
「ノグレー、チスパ、無事か!」
逃げたのだと思っていた教官たちが、街の屈強な男達を従えて戻ってきたらしい。今もなお原型を留めている灰の塊を見て、驚愕の声を上げている。遅いよ、とノグレーは一言だけ呟いて、深い眠りに落ちた。
目が覚めると、見慣れた木目の天井が見える。自分の部屋か、と気付くと同時にひとつ息を吐いた。もう日は西に傾きかけているらしい。窓の外は目を刺すような橙の光が濃くなっている。
「ノグレー、目が覚めたのね」
「おお!ノグ!!起きたのか!」
「……うるさいよチィ」
起き抜けにこの大声を聞かされては、布団の温かさに再びまどろむ気にはなれなかった。のそのそと上半身を起こし、手の甲で寝汗を拭う。
「それより、あれからどうなったの」
「あなた達のお陰で、大きな被害にはならなかったわ。……でも」
「何かあった?」
「詳しいことは、学長先生が明日勇士全員に改めて話すって仰っていたわ。でも体が辛そうなら、無理はしなくてもいいのよ」
「いや、もう大丈夫。大した怪我もしてないし」
「おう、じゃあまた明日迎えに来てやるよ。シラは無事に家に帰れたって連絡来たから心配すんな」
「そっか……ありがとな、チィ」
「なんの、助けられたのは俺の方だからな。じゃあ帰るわ。おばさん、お邪魔しました」
「チスパ君、私からもありがとう。気を付けて。ご両親にもよろしくね」
はーい、と屈託の無い笑顔で手を振って出て行く幼馴染を目線で見送る。まぶたが重い。嵐が去ったせいか、空に赤々と君臨していた夕焼けがいつの間にかその栄光を闇に討ち取られたからか、柔らかな布団が夢の国への誘惑を再開したようだ。
「今日はゆっくり休みなさい」
「ん……」
抵抗なんて端からする気は無い。導かれるままに、ノグレーは目を閉じる。
「……もうきっと、知らなくてはいけない日が来たんだわ」
母が沈痛な面持ちで呟いた言葉を拾うことも無く。
翌日、チスパと共に教学院講堂の扉を開けると、共に勇士の資格を得た同級生達が一目散に駆け寄り彼らを囲んだ。助かった、君達は英雄だと称える者、勇士なのに逃げてしまった事を恥じる者、身体は大丈夫かと心配する者。笑顔で一人一人に応えたあと、音も無く入ってきた学長の姿に気付き整列を始める。
「なあ、学長の後ろにいるの、ローサのご当主じゃね?」
チスパの耳打ちにノグレーは無言で頷く。ローサというのは、『ローサ十二家』と呼ばれるそれぞれの街で一番の貴族の家柄を指す略称だ。天主に最も近いとされていて、これには創世神話が関わってくるらしい。グルナカルスのローサの正式な姓は、グルローサだ。
「皆集まっているな、宜しい。昨日は式典の途中となってしまった故、その続きから始めなくてはならぬ。宝玉の使い方と、旅の心得と、武器の授与。……聞きたいことはやまやまであろうが、終わり次第全てを伝えよう」
それから勇士達は懸命にメモを取り、活発に質疑応答をした。話をまとめるとこうだった。まず式典で授与された宝玉はただのアクセサリーではなく、これからの旅に役立つ様々な役目があること。得た報酬を電子通信でやり取りしたり、魔物を討伐した際などに手に入る宝玉のかけらをかざす事で力の成長をさせる事も出来る。次に、勇士となったからには多くの街へ足を踏み入れ、行った先の聖護院で加護をもらうこと。所謂巡礼のようなもので、そこでしか教われない魔法もあるそうだ。また、魔物の属性と弱点の再確認。各々の水晶の加護により放つことが出来る、紅・緑・黄・紫の攻撃魔法と青の回復魔法、白・金・銀の補助魔法について。生まれた国によって得手不得手があるため、旅の仲間を探すのであればなるべく違う国・違う属性魔法が得意な者を探すと良いが、同じ国の者同士でしか扱えない強力な魔法もあるので一概には言えないこと。授業で教わった内容の復習ではあったが、旅立つ直前に改めて教わることでやはり意識は変わるものだった。
「最後に、武器じゃ。普段は宝玉に閉じ込めておく事が出来るから、念じればすぐに取り出せる。魔法の効きにくい敵もおるじゃろう。魔力を過信して、腕っ節を鍛えることを忘れてはすぐに魔物の餌となってしまうからな。自分に一番合うものを選ぶと良い。宝玉の欠片で強化出来るが、武器は一種類しか選べぬ。言わば一生のパートナーと言えなくも無い」
短剣、長剣、弓矢、斧、槍…どれも短所や長所があって、この短い時間で選ぶには難しい気もした。だが、ノグレーは自分の直感を信じてみることにした。選んだのは長剣だ。剣身の根元にデザイン的な透かしが入っているのが気に入った。チスパは斧と槍を手に取りながらしばらく悩んだようだが、どうやら持ってみてしっくり来たのは槍の方だったらしい。
「やっべー俺超かっこよくね?槍使いチスパ様!キング・オブ・スピア!」
ブンブン槍を振り回してガッツポーズを決める通常運転のチスパは放っておいて、他の勇士達も全員武器を選んだようだ。本来ならここまでのやり取りは昨日の時点で終えているはずのものだった。
「さて、ここからは一般の国民には伝えていない話となる」
学長の言葉に静まり返った講堂は、息を詰める音だけが聞こえていた。
「報道を見たものもいよう。単なる、極稀に起こる魔物の襲撃がたまたまこの日に起こっただけであると」
重々しい口調の学長に、緊張が走るのが分かる。
「国民、と言ったので察した者もいるかもしれぬ。襲撃は、十二の街全てで起こった。被害の多少は有れ、極稀の事象が同じ日のほぼ同じ時間に起こることが有り得ようか。答は、否だ」
学長はノグレーとチスパを前に呼んだ。顔を見合わせ、速やかに移動する二人を他の勇士達が見送る。
「さて、今日は領主であるグルローサのご当主、ルナード様にお越し頂いた。お話を伺う前に、魔物の襲撃に勇敢に立ち向かった二人を改めて称えよう。ノグレー=ガロファニエ、そしてチスパ=トラモント。君達の勇気のお陰で、十二の街の中でここグルナカルスが最も被害が少なかったとの事である。教学院代表として、多大な感謝の意を示す」
学長は長く最敬礼の姿勢を取り、二人は背筋を真っ直ぐ伸ばしてそれに応えた。その後はローサ当主に場所を譲り、少し後方に控えてその言葉を待った。
「今年卒業の誉れ高き勇士諸君に祝福と紅水晶の加護を。ルナード=グルローサである。そして二人の活躍に私からも御礼申し上げる。早速だが本題に入ろう。“ルチル”について語れるものはいるか」
思わぬ単語に勇士達はざわめく。聞き慣れない単語だからではなかった。一人の眼鏡をかけた女勇士がそっと手を上げる。
「クオタリシアに巣食い、災いをもたらすとされる力の持ち主……それがルチル。数百年前の戦争で当時の天主様の命と引き換えに封印され、それからは平和が訪れたと。害をもたらす魔物はルチルの眷属で、勇士の役目はその残党を狩ることでもあります」
「よろしい、その通りだ。だが考えてみて欲しい。ルチルは封印されていたはずだった。後は眷属として放たれた魔物を討伐すれば、街から街へ行くのに恐怖を覚える必要も無い。だが、数百年経っても魔物は減るどころか増え続けている。これがどういうことか、賢い君たちであれば想像に難くないだろう」
「封印が完璧でなかった、という事ですか」
小柄な男勇士の問いかけに当主は頷く。
「又は、封印されてもなおルチルの魔力が底無しだったのか。どちらでも結果は同じだ、はっきり言おう。此度の事件は、ルチルの復活宣言だ。ご丁寧に、魔物を寄越してご挨拶、といった所だ」
嘘、どうして、恐ろしい……、後ろから聞こえる声を遮るようにノグレーが口を開いた。
「魔物の瞳に、金の針が無数に見えました。間違いなく、ルチルの眷属ですね」
「ふむ。ルチルの直属に近いほど、金針の量が多くなる。そこいらにいる通常の魔物の瞳にある針はほぼ肉眼では見えないだろうな」
当主は一息つき、講堂全体を見据えて大きく声を上げる。
「この事実は混乱を避けるために勇士として実績を持つもの、近年輩出された意識の高い勇士に伝えるのみに留まっている。戦う意志のない者は生き残れぬ。ルチルは中央、天主と四天王の住まわれる宮殿に巣食い、乗っ取るつもりだ。それこそ数百年前のように。今度こそ、天主様の命を差し出すわけになどいかぬ。この世界を救うのは、君達にかかっている。急に重たい門出ですまないが、本来こうして危険な場所で魔物を討伐せしめる為に勇士制度は作られた。各地の聖護院で依頼をこなし、危険から民を護り、ルチルとの決戦に耐え得る力をつけよ。情報は勇士の宝玉で伝えることもあるので肌身離さぬよう。諸君に期待している」
「はいっ!」
ぶれる事無く勇士一同の返事が響く。誰一人言葉を発する事無く、一人また一人と、新たなる勇士達は講堂から消えていく。最後に出たのはノグレーとチスパで、扉の前でふと振り向けば学長と当主が大きく頷くのが見えた。軽く礼を返し、閉じた扉は来た時よりも幾分重く感じられた。
互いに掛ける言葉も無いまま、二人は歩み続ける。覚えの有る気配を感じて立ち止まった少し先には、もう一人の幼馴染がいた。昨日の朝の光景がフラッシュバックする。
「シラ」
「お疲れ様、お帰りなさい」
意志の強そうなガーネット・アイズ。二人の心境を知ってか知らずか、戸惑いを見透かされそうだと思った。
「知ってるよ、パパも名の有る勇士だから。家族に伝えるのは自由なんだって」
「そうなのか」
「優先試験がね、三ヵ月後になったの。今年は特別に繰り上げたって。一人でも、ルチルを食い止める人材が欲しいんだと思う。だからね、」
先に行って、と放たれた言葉には卑屈も悲しみも感じない。追いかけるから、待たないでいいから。前向きな声音にどこか安心していた。そうだ、もう昔みたいに泣き虫ではいられない。そんな強い気持ちが伝わってくる。
「おう、追い付いて来いよ」
「うん、あとこれ、パパから。勇士になったお祝いと餞別だって」
「お、ホンプクの葉っぱじゃん!こんなにいいのか?でも俺達回復魔法得意じゃないから重宝するよな」
「花とか実の方が効果強いんだけど、今品切れみたいなの。話を聞いた勇士達がこぞって買いに来たみたい」
「充分助かる。明日発つ前に店に寄るよ。挨拶したいし」
「わかった、きっと喜ぶわ。まだお店の手伝い中だから、戻るね!」
手を振って去っていくシラを見送ると、チスパは溜めた息を長く吐き出した。
「負けてらんないな、あいつもあいつなりに出来ることやろうとしてんだ」
「そうだな」
共に旅立つ二人だから、多くは語らなくて良い。出立の時間だけを決めてそれぞれの家路に着く。母の姿が見えないと思えば、どうやら忙しなく旅立ちの準備をしているようだった。
「お帰りなさい、武器は何選んだの?」
「長剣にした」
「あら、お父様と同じ。やっぱり親子ね」
「……別に、拘りはないけど」
穏やかに笑う母の優しいお節介に文句がつけられないまま、けれど山のようになっている荷物を見てさすがにこれはまずいと母を止めた。そんなにあっても持っていけないし、これからは自分達で何でもやっていかなくてはならないと説得し、渋々ながら納得してもらえた頃には日が沈みかけていた。
「ノグレー、あのね……」
急に神妙な顔付きになる母に戸惑うが、なんとはなしに続く言葉が分かる気がした。
「母さん、僕も聞きたいことがある」
「ええ。きっと同じね」
わたしは貴方にどう伝えていたかしら。その問いに、記憶を探りつつ答える。
「この右目は、魅入られただけであって生活していくのに影響はないって。だけど皆驚くだろうから、隠さなくてはいけない、そんな感じかな」
そう言えば帰宅しても外さないままだった、とクラッペを取る。色は左目と同じダイヤモンドシルバー。だが決定的な違いがあった。侵食するような金の針が右目にだけ無数に見えていた。
「襲ってきた魔物を退治した時、この目が疼いて弱点を見せた。普通の力じゃない。教わったこともない。……やっぱり、僕はルチルの影響を受けているんだ。もしかしたら、クオタリシアに災いをもたらすのは僕自身なのかもしれない」
「それは違う!違うわ、ノグレー。貴方はルチルの手の者なんかじゃない。そんなはずがないの」
「……母さん」
「良いわ、貴方が生まれたときのこと、全部話します」
隠すほどの事ではなかったのかも知れない。けれどきっと怖かったのだ。結局信じているのはただの希望であり、確信はまだ掴めていないままだから。そう語る母の手をそっと包み、ただ静かに聞いていた。
――――――――――
十八年前。大陸歴884年の秋の日だった。昨今は比較的穏やかな気候が続いていたはずだが、三日前から急に雨が連日降り頻るようになっていた。広々とした屋敷の中、金糸と銀糸を用いた豪奢なおくるみに包まれた赤子が産み落とされたその日から。ほとんど泣かないこの子の代わりに、空が泣いているのかと思うほどだった。
「魅入られた、か……」
この屋敷の当主と思われる老女が深い溜息をつく。周りの親類達のざわめきが、赤子の両親である男女を糾弾するかのようだった。
「このようなことは今まで起きた試しがない。……本当に我が一族の血を引いているのか?」
「正真正銘わたくし達の子です!信じて下さい!」
親類の心無い言葉が容赦なく深い傷を付ける。女は涙ながらに懇願する。
「落ち着きなさい、サリチェ。わしはおまえの不貞を疑ってはいない。皆の者も軽はずみな発言は慎むように」
ただし、と老女は続ける。
「創世時より続くこのディアローサで、“ルチルに魅入られた子”が生まれたとなれば王宮に嫁いで行った者にどう影響するか解らぬおまえではあるまい」
「……はい」
「ばあちゃん!もしかして、この子を殺せとでも言うのか!?」
「ここでは当主とお呼び、ビルケ。父となっても落ち着きのない。なにもそのような事は言わぬ」
「あなた、良いのです。わたくしは、この子と生きていけさえすれば」
「良いわけがない!」
「暮らしていけるだけの手配はする。今後、この家の敷居を跨ぐ事は許されぬ」
「だったら、俺も出て行く!跡を継ぐのは弟に譲る。この家の手助けは受けない、俺が二人を護る」
「……良いだろう」
赤子を抱く女の腕を取り、若い男は肩を怒らせるようにして屋敷を立ち去る。本邸の自分の部屋の荷物を手早くまとめていく様子に、女は焦り声を上げた。
「あなた、何ということを。あなたまでここを出て行くだなんて」
「愛する妻と子を捨ててまで居る価値などあるものか」
「もう、あなたは事の重大さを解っていらっしゃらないのだわ」
女が愛した男は、格調高い貴族の家柄に生まれた本家の長男だった。勇士として旅をしていた両親が魔物の襲撃によって亡くなったために、現在の当主が身罷る事があれば跡を継ぐのは彼の役目であった。それをいとも簡単に手放そうとする事にサリチェの理解は及ばない。
「枷でしかないこんな役割を弟に押し付けるのは心が痛むが、それだけだ。大切なものの優先順位を間違えてはいけない」
貴族らしからぬ直情さ、気軽さ。その部分に惹かれたのだとふと思い出す。
「勇士として旅に出ていた時の親友がいる。話をつけておこう。……俺がいなくても、彼らの助けを借りれば見知らぬ地でもやっていけよう」
「あなたは、どうなさるの」
ディアローサ家にいられなくなるからと、実家であるガロファニエに帰ることも許されない。離縁されて出戻る娘など、誰も歓迎してはくれないだろう。見知らぬ地であっても家族三人慎ましく暮らすならそれでも良いと、不安と安堵が綯い交ぜになった彼女の心に夫の言葉はまさに青天の霹靂であった。
「原因を探る。この子はこのままではきっと苦労するだろう。瞳を隠し、暴かれることに怯える毎日となっては可哀想だ。幸い、俺はどの街にも知り合いがいる。何か手がかりが掴めるかもしれない」
揺り籠の中の我が子を抱き上げて、父は意志の強い瞳で呼びかける。
「ノグレー、少しのお別れだ。父のいない間、母を護るのだぞ」
だぁ、と返事ともつかない声を上げる赤子は無垢そのもので、何も知らないその笑顔はたった一つの希望だった。
――――――――――
静まり返る部屋に明かりを点ける事すら忘れたまま、窓から射し込む月明かりだけが優しく母子を包む。
「……少しって、十八年も経ってるよ、父さん…」
息子は驚いた様子もなく切なげに呟く。昔から感情の少ない子ではあったけれど、慈しみ深い瞳と芯の通った意志の強さは父親譲りだと、母は改めて確信する。
「これでも驚いてるけど、何か…やっぱり変な感じだね。まさか生まれがディアローサだったなんてな」
「いつかルチルの瞳について分かったら必ず迎えに来る、それまではトラブルを避けるために旧姓を名乗っていてくれって。だから貴方の本当の名前は、ノグレー=ディアローサ。創世から続く宮家の正統な末裔なのよ」
ディアローサの名は全大陸に知れ渡っていても、貴族の名は他の街、特に庶民にはそこまで知られていないことが多いからだろう。
「でも、父さんの弟…叔父さん?に譲ったんだよね。継承権ってやつ?」
「そうね。全く、後の事なんて何も考えていないのだから」
「それでいいよ、いきなりお前は貴族だって言われても困るし。僕は僕だから」
「ええ」
それでも貴方は、あの人の子だわ。母は息子を誇りに思う。今後辛いことが起きようとも、乗り越えられるだけの力を持っている。夫が無事でいるのか、いつだって絶望に苛まれていたこの十八年を穏やかに過ごすことが出来たのは愛する息子ノグレーがいたからに他ならない。
「……父さんを探すよ。文句言わないと。ほったらかし過ぎだって」
背を向けたまま零す息子の姿がぼやけていく。一筋だけ流れた涙が、希望の筋道であるように。