『ヘ』
『変化』
そりゃあ、子供には策略的なものがないから俺に適した仕事だと思ったんだ、と茂樹は言いたかったが、そんな言葉を蝶子に返す度胸など毛頭ない。
高圧的な彼女に押され気味になりながら、何か他に言葉を返そうとしたが、結局は非喫煙者の文句を怖れて出会ったばかりの煙草とおさらばするだけだった。そんな茂樹を見て、蝶子は諦めたように口を開く。
「来月の教育実習、アゲハ保育園に一週間。うちの大学からは光田君と私、ふたりで行くのよ」
「……君と俺だけ?」
「他大からあとニ、三人来るらしいわ。それと今、光田君は私を『キミ』って言ったけど。子どもたちと触れ合うときにはちゃんと名前で呼んで。名前も、顔も忘れてはいけないわ」
「――あぁ、わかった」
赤に映えるワンピースと、紅いフレーム越しの強そうな瞳が茂樹を見下ろしている。井野蝶子。同じ講義を履修していたなら尚更。彼女の名前こそ、何故今まで覚えられなかったのか不思議に思えるくらい印象的だった。テキパキと話を進めて相手を自分のペースに巻き込んでいく。苦手なタイプの女だった。
次第に減っていく学生の姿を眺めながら、茂樹は独り暮らしをする自宅の冷蔵庫に食べ物があったかどうかを考えた。思い出せない。
「実習で積んだ経験を基に、研究論文を書くのよ。――あなた本当に大丈夫なのかしら?」
反応が薄いと思ったのだろう。蝶子は端正な顔をしかめると、児童心理学の書籍リスト――図書館で検索したものだろう――を御丁寧に茂樹の横に置いて、まるで妥協案を出しているかのように言った。
「来月までに、このリストにある本を読んで勉強した方がいいわ。実習とはいえ、子どもと触れ合うんですもの、半端な気持ちじゃできないでしょう?」
「ごもっとも」
さも予習は当然であると言いたげな蝶子を前に、茂樹に用意された台詞はそれしかなかった。
それにしても蝶子と会ってから、一度としてニコチンを満喫できていない。口もとの寂しさに耐えかねた茂樹は、尻ポケットから携帯を取り出す。
「あ。もしもし?」
眉間に皺を寄せて実在しない相手と緊急の交信をしながら、慌しく立ち上がった。申し訳なさそうな表情を貼りつかせて彼女を振り返る。
「わり。ちょっと電話が。急用みたいだから、俺帰るわ」
「どうぞ。私はまだ帰らないわ」
足早に立ち去る茂樹を、片眉を上げて見送る蝶子はこの後も勉強に励むのかもしれなかった。携帯を片手に現実から逃避しようとしていた茂樹は、大学に入学して以来初めての罪悪感を覚えて、思わず蝶子に向かって叫んでいた。
「教育実習、よろしくな」
《文\綾無雲井》




