『ホ』
『包容』
茂樹が我に返り、眠っていたのだと自覚した頃には、蝶子はもうその場にはいなかった。辺りにはさっさと門外に出ようとする人影があるが、学内に入ってくるような人間はいなかった。少し寝たふりをしてその場しのぎをしようとしたのが、少々本気で眠ってしまっていたようだ。
ポケットに手を突っ込み、目当ての煙草を取り出すと、茂樹は一本を手慣れた風にくわえる。ライターの火をぼんやりと見つめ、肺まで敷き詰めた紫煙をゆっくりと吐き出した。
「呆れた。あなた、まだ居たの?」
今日聞いたばかりの声の調子に少なからずげんなりとした茂樹は、背後からした声の主を仰ぎ見た。
「君こそまだ居たのか。課題ご苦労さま」
「授業の終わりよ。課題は今からまたやるの。あなたもやるなら良ければアドバイスして差し上げるわよ、大学に五年も居たくないでしょう」
余計なお世話だ、と蝶子を睨みつけるが、口に出して彼女を退ける勇気は茂樹にはなかった。義務教育でもないこの学園に、自分を包容しようという人間はもう見なくなったからだ。――まあ、彼女にその気があるのかは不明であるが。
「――いや、帰る。ご厚意だけいただいておくよ」
「別に無理して持ってかなくたって結構よ。実習の足手まといにだけはならないでくれればね」
「――実習?」
初耳だというように蝶子を振り向いて言葉を繰り返す。蝶子は有り得ないというふうな表情で、大袈裟に肩を落としてわざとらしくため息を吐いた。
「あなた……何のために幼教に入ったの?」
《文/875》




