第一章:『ロ』
第一章:
『ロンドン橋』
外の風は、肌にまとわり付くように生温く、梅雨の時期を思わせるようであった。
しかし、三日前の梅雨開け宣言を思い出せば、これもそのうち夏の風に変わるだろうと予測できた。少しずつ、着実に季節は夏へと変わりつつあるのだ。
憂欝な講義と華やかな学生達から逃げ出した茂樹は、独り中庭のベンチに腰を掛けていた。
ここは校内で一番季節の変わり目を感じることが出来る場所である。
花などが植えてあり、風通しも良かったりするのだが、学生達には大した人気もなく図書館への近道に使われる程度のものであった。
それでもベンチが置いてある所為か、ちらほら学生の姿が見受けられる。彼らは次の講義までの空き時間を潰しているようであった。
茂樹もそれらに混ざり時間を潰す。
但し彼は次の講義に出る気はなく、講義終了の鐘の音と共に大学を後にする学生に紛れて帰るつもりであった。
別に何で暇潰しするでもなく、ただ時間が過ぎるのを待つ。丁度良く日が当たるので意識が遠退いたりする。
その所為か、中々声を掛けられている事に気付かなかった。
気付いたのは鈍い音と共にベンチが揺れたからである。
「光田君、隣に座っていいかしら?」
顔を上げてみれば一人の女が茂樹を見下ろしていた。
「今の音と揺れは」
「本をベンチに置いただけよ」
ちらりと横に目をやれば本の束が置いてある。彼女は図書館帰りのようだ。
中々覚めない頭で先程近くのベンチが空いていたのを思い出す。彼女が図書館から来たのなら、空いたベンチを見かけたはずだ。
「向こうに一つ空いてただろ?」
「あそこは両隣が煩いのよ。課題に集中できないわ」
「課題?」
「児童心理学についてよ。私は童謡の影響について、卵が落ちた、橋が落ちたとかいう詩よ」
そこまで言うと彼女は無断でベンチに腰を落とした。その時自分で置いた本が邪魔だったのか茂樹の方へと押しやる。
「あなたも同じ課題出されたでしょ?何を調べるの?」
「出されてない」
「あら?それじゃ何かしら。でも私と同じ講義を受けてるはずよ?」
彼女の台詞の最後は問い掛けるような形で茂樹に思い出せと言ってるようであった。
しかし、彼は人の名前と顔を覚えるのが苦手で、高校の三年間でクラス全員の名前を覚えた事は一度もなかった。それを、同じ講義を受けている奴を思い出せと言われても無理な話である。
全ての講義で顔触れが違うのだ。
「まぁ良いわ、また何かの講義で会うでしょ。井野蝶子よ、覚えておいて」
「俺は――」
「光田茂樹でしょ」
《文/小鳥さや》




