鍵盤の上の遺言
不治の病に侵された天才ピアニストと、金で雇われた私。二人の間にあるのは、淡白な会話と、命を削るピアノの音色だけだった。
これは、取り返しのつかない喪失ののちに、遺されたピアノの前で独り咽び泣く男の記憶です。
ハッピーエンドではありません。不協和音のようなやるせなさが残る、生々しい悲戀の結末を、どうか最後まで見届けてください。
午前四時。
冬を先取りしたような冷たい楽屋の中で、彼は音の出ない打鍵を繰り返していた。鍵盤ではなく、膝の上に広げられた古い楽譜の上で、その細い指先を規則正しくさざめかせるだけのリハビリテーション。その乾いた爪の音が、無音の空間に不気味なほど小さく響いている。私は壁際に立ち、彼の細い背中と、時折思い出したように短く吐き出される、浅い呼吸の音だけを見つめていた。
金で雇われた関係。それが私と彼の始まりであり、本来なら終わるはずの境界線だった。
私が彼から提示された条件は簡潔だった。楽譜を並べ、衣装を整え、指定された時間に車を回すこと。それ以上の会話も、感情の起伏も必要とされていなかった。彼はただピアノの前に座り、鍵盤に命を吸わせるためだけに呼吸をしているような人間で、私はその影として動く、ただの便利な機械に過ぎなかった。
だが、彼の身体を蝕む「進行性心筋変性症」という名の難病は、そんな私たちの淡白な世界を、じわじわと、しかし確実に侵食していった。
心臓の筋肉が少しずつ、砂のように崩れていく病。
演奏を終えて舞台袖に戻ってくるたび、彼の顔からは血の気が完全に失われ、爪先は紫色に澱んでいた。楽屋のソファに倒れ込み、激しく喘ぐ彼の胸元に酸素吸入器のマスクを押し当てるのが、いつの間にか私の重要な仕事になっていた。カバンの中で、常に擦れ合う強心剤の錠剤の音が、彼の命のカウントダウンのように聞こえて仕方がなかった。
各地のホールを転々とし、招待されるがままに演奏し、莫大な出演料を受け取っては、そこから少なくない私の給料が支払われる。そんな日々が数ヶ月続いたある夜、地方の古びたホテルの部屋で、彼は突然私を振り返った。
「君は、どうしてここまで着いてきてくれるんだ」
寝台に腰掛け、細い肩を激しく上下させながら彼は言った。
「私のような、いつ止まるかわからない心臓を持った男の付き添いなど、割に合わないだろう。いつでも辞めてよかったんだ。金なら、もう十分払ったはずだ」
私は手元のお湯を注いだグラスを見つめたまま、声を潜めて返した。
「仕事ですから。私はあなたの雇われ人です。契約を全うしているだけです」
「嘘だ」
彼は短く切り捨てた。その瞳は、すべてを見透かしたように澄んでいて、私をひどく怯えさせた。
「君の目は、ただ金のために動いている人間の目じゃない。私を見る時、いつも今にも泣き出しそうな、奇妙な顔をしている」
胸の奥で、せき止められていた何かが、音を立てて決壊していくのが分かった。もう、嘘を突き通すだけの器用さは私には残っていなかった。私はゆっくりとグラスを置き、彼の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「あなたが、好きなんです」
部屋の古い換気扇が回る音だけが、私たちの間に流れた。
「毎日あなたの世話をし、あなたの声を聞き、共に食事をし、あなたの削り取られていく命の音を一番近くで聴く。そんな日々が、私には何よりかけがえのないものになってしまった。契約なんてどうでもいい。ただ、私はあなたに死んでほしくない。もっと、生きていてほしい。ずっと、私の目の前でピアノを弾いていてほしいんです」
それは、あまりにも醜く、あまりにも純粋な、私の我儘だった。
彼は驚いたように目を見開き、それから、今まで見たこともないほどに冷たく、残酷な表情で私を突き放した。
「私には、もう時間がないんだ」
彼の声は、微かに震えていた。
「私が死んだあと、君に私という亡霊に縛られた長い時間を生きてほしくない。君は、もっと自分自身のために、温かい人間のために、その時間を使うべきだ。私への感情なんて、今すぐここに捨てていきなさい」
「それでも、私はあなたが好きなんです。捨てることなんてできない」
私はそれだけを絞り出し、逃げるように彼の部屋を飛び出した。閉まったドアの向こう側から、彼の低く、掠れた声が滑り込んできた。
「……次の公演が、私の最後の演奏になる」
私は一瞬だけ足を止めたが、振り返ることも、応えることもできず、ただ暗い廊下を走り去った。
公演当日。
会場へと向かう車内は、出会った当初のような、冷ややかな沈黙に満ちていた。私は黙ってハンドルを握り、彼は助手席で、外を流れる灰色の景色を眺めていた。
「懐かしいな」
赤信号で車が止まった時、彼がぽつりと零した。
「君と出会った頃も、こんなふうに会話が少なかった。覚えているか? 私は君のその淡白さが、とても心地よかったんだ」
私は何も言えず、ただ前を見つめていた。
「……私はね、君に救われていたんだよ。この不治の病のせいで、私の世界はいつも灰色で、すべてのことを前向きに考えることができなかった。いつ心臓が止まるか、そればかりを恐れていた。でも、君が淡々と私の隣にいてくれたから。君が作ってくれる美味しくもないコーヒーを飲み、くだらない世間話に付き合っている時だけは、私は死の恐怖を忘れて、毎日笑っていられたんだ。私にとって、君は……私の世界のすべてだった。ありがとう」
彼の言葉は、あまりにも完成された遺言だった。
私はハンドルを握る指に血がにじむほど力を込め、唇を噛みしめた。大粒の涙が視界を遮りそうになるのを、死に物狂いでこらえた。今ここで泣けば、彼の「最後の舞台」を台無しにしてしまう。
公演は何事もなく、恐ろしいほどの静寂のなかで無事に終わった。
彼が鍵盤の上に滑らせた最後の音色は、これまでのどの演奏よりも激しく、美しく、そして切なく響き渡り、有終の美を飾った。万雷の拍手のなか、舞台袖に歩いて戻ってきた彼は、私の腕の中に倒れ込み、そのまま二度と立ち上がることはなかった。
それから何日もしないうちに、彼は静かに息を引き取った。
彼のいない部屋で、私は一人、遺品を整理していた。心は驚くほど冷徹で、涙の一滴すら出なかった。まるで他人の事務作業を手伝っているかのような、奇妙な現実感のなさに包まれていた。
だが、彼がどこへ行くにも片時も離さず携えていた、あの使い古された革のカバンの底を開いたとき、私の世界は一瞬で瓦解した。
そこには、私に宛てられた、たった一枚の白い手紙があった。
震える手でそれを開き、文字をなぞる。
『私も君を愛していた』
ただ一言、それだけが彼の端正な筆跡で残されていた。
それを目にした途端、私の頭の中は、彼を愛おしく思っていた記憶、彼に愛されていたという真実、その一点だけで暴力的につぶされ、ぐちゃぐちゃに混濁した。
気づけば、大粒の涙が手紙の上にボタボタと落ちてインクを滲ませていた。私は子供のように声を上げ、喉を詰まらせながら、誰もいない部屋でただ狂ったように咽び泣いた。どうしてあの時、もっと彼を強く抱きしめなかったのか。どうして、もっと早くその言葉をくれなかったのか。
彼の葬儀が終わった後、墓標の前には、私だけがぽつんと最後まで残されていた。
見上げる空は、雲ひとつない澄み渡った青だった。
空気は適度に乾き、気温は高くも低くもない。ピアノを演奏するには、これ以上ないほど最高の、奇跡のような一日。
私は、彼が遺した、世界で一番美しい音を出すはずのピアノの前に座った。
鍵盤に指を乗せる。彼の指の長さ、彼の掌の温もりを思い出しながら、ゆっくりと指を滑らせ、音を鳴らした。
――ゴン、と、ひどく鈍く、歪んだ不協和音が、誰もいない部屋を冷たく満たした。
「……やっぱり、ダメだったよ」
私は鍵盤の上に突っ伏し、声を殺して泣いた。
「私には、君のような音は出せないよ。君のいない世界で、どうやってこの音を聴き続ければいいんだ」
涙で歪む視界の先、鍵盤の上には、今もあの細い指先をさざめかせながら、悪戯っぽく微笑む彼の幻影が、白く、優しく浮かんでいた。私の奏でる汚い音だけが、彼がもうどこにもいないという現実を、冷酷に告げ続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
同じ時間を過ごしながらも、すれ違い、奪われ、遺された手紙によってようやく完成した二人の歪な愛の形。不協和音だけが響く部屋で、主人公がこれから過ごす途方もない孤独と執着の行く末を、皆さんの胸の内でそっと響かせ続けていただければ幸いです。




