とりあえず常識を超えてみる。
「報告は受けている。神代君の様子はどうだ?」
実技棟での事故のため魔導実技の授業は中止となった。幸いけが人もなく、同時に現場である第3実技室はいくつかセンサーの破損はあったものの、水浸しになった程度で済んだ。ともかく「事件」は起きたので、澪は校長室へ呼ばれた。制服はスプリンクラーのシャワーを浴びてびしょ濡れ。なので上下とも体育用の臙脂色のジャージに着替えている。
「着替えて教室へ戻って来たときにはいつも通り、という感じでした。というかあの人、普段も無口ですからあまり変わった、という印象は受けませんでした」
「そうか。それで、彼は『とりあえず』と言ったんだね?」
「はい」
澪は見ていた。レンジに入った大樹の後ろ姿。「あみお」と聞いていた大樹がどんな魔導を繰り出すのか? それとも出せないのか? 出せないなら出せないで励ましの言葉なんか掛けてあげたほうがいいのかな? そのようなことを考えていた。
『――とりあえず冷えろ』
え? 今のが構文詠唱? やっぱりめちゃくちゃじゃない…と思った刹那、耳鳴りの後に爆発音だ。ある意味、やっぱりめちゃくちゃだった。
「あの、校長先生。一体何が起こったのでしょうか? 水って、その、爆発とかするものなのですか?」
「ふむ…普通は爆発なんかしないね。例えば電気分解で水素を発生させ火をつける、なんて方法も考えられるが、電気も火も、あの環境では発生不可能だ。ならば化学反応で、という線はない」
「それならばなぜ?」
「そうだねぇ…澪、水というのは何度まで下げられると思う?」
「0℃、でしょうか。凍りますから」
「残念ながら不正解だ。澪が言っている0度は摂氏のことだろう? だが物理学の世界では通常、温度を表すのにケルビンという単位を使う。このケルビンで0になる温度を絶対零度といい、摂氏に直せばマイナス273.15度だ。物質はそこまで温度を下げることができる。もちろん理論的には、だがね。そして理論的には絶対零度になれば物質の原子の運動が止まる。物質の温度は原子の振動によって決まるからその運動が止まるということは完全に温度を持たない、ということになる。だから絶対零度という名がついているんだね」
「はぁ…それが『とりあえず』とどういう関係が」
「神代君は『とりあえず冷えろ』と言った。だがどこまで冷えるのかは宣言していない。温度低下の下限は設定されていないわけだ。ならば、物質はどこまでも冷えていくことになる。では物質が絶対零度を超えて冷えたら…どうなるのかな?」
「ど、どうって…どうなるんですか?」
「分からんよ」
「はぁっ? あ、ごめんなさい…」
思わず出てしまった声に澪は慌てて口を両手で塞いだ。
「言葉遣いに気を付けないと菫さんに叱られるぞ?」
「う、うぐむぅ」
「冗談はさておき、実際のところそもそも物質を絶対零度まで下げること自体が困難なんだ。その先を観測しようなどと考える余地すらない。だが…それが目の前で起こった、なんてことだったら、ワクワクしてこないか?」
文弥はまるで子供のように爛々と目を輝かせるのだが
「あの、いえ、別に…」
娘のあまりにもつれない返答に肩を落とす。
「…そうか。残念だな。それにしても澪のクラスはおちおち授業もしてられないな」
「笑い事じゃないですよ。中間テストも近いというのに」
「ああ、そうだったね。まぁ世の中勉強ばかりが評価じゃない。魔導もまた然り。学ぶべきことはこの世界にまだまだいっぱいあるさ」
「そうですか…」
(娘の成績を心配しない親って、どうなんだろうな? これでいいんだろうか…)
「澪。全天球流星群を覚えているか?」
「はい。2年前に月の表面で爆発があったとかで、その破片が地球に降り注いだ、とか」
「ではなぜ月面で爆発があったのだろう?」
「隕石、とか」
「野辺山の国立天文台にもNASAにも問い合わせたが、その頃に地球へ接近する隕石や小惑星はなかったそうだよ?」
「うーん、月っていってみれば大きな岩の塊ですよね? 火山活動があるわけないし…」
「その原因が神代君だとしたら?」
「…はぁっ?」
またも思わず声が出たが、今度は口を塞げなかった。というより開いた口がいまだに塞がらない。
「月面の爆発と神代君の物理的因果関係は分からない。ただ、さまざまな調査の結果、彼が『とりあえず』と言った後の願望が満たされなかった場合、その代償として全く無関係なところで膨大なエネルギーが放出される。月の件はその一例だ。他にも『とりあえず彼女が欲しい』と言ったら南極のペンギンが一斉にペアリングに入ったという報告もある」
澪の口はまだ開きっぱなしだった。父親の言ってる言葉は分かっても言ってる内容が分からない。願いが叶わないと月が爆発? ペンギンが交際開始?
「…それじゃ神代君の願いが叶わなかったら火星が爆発でもするのですか?」
澪は冗談で言ったつもりだった。
「そうかもしれない」
否定されなかった。しかも真顔で言われた。いや、ウソだ冗談だと言われた方がマシだった。研究に没頭しすぎてついに…とすら思った。
「彼がどれほど本心でそれを願ったのかは分からない。ただ、結果としてそういう事態が起こりうる。だから澪。君はできるだけ彼のそばにいて、『とりあえず』と願ったその先は叶えてやるようにしてほしい。まかり間違えば地球が消滅しかねない」
そんな冗談のようなことを実の父親から真顔で言われれば、娘である澪はこう答えるしかあるまい。
「…はぁ…」
これでもちゃんと返事をしたつもりである。
◆
校長室を出た澪は、その足で保健室へ。やはり実技の際の想定以上の魔導が働いたことでこれまでのログデータを確認することになったからだ。
久しぶりに外す魔力測定装置。微妙に不快な圧迫感を与えるそれを外したときに感じる解放感。しかし澪はそれに浸っている場合ではなかった。
「あの、どうなんでしょうか?」
「ふーん…健康状態は良好そのもの。月経周期とも関係なし、か」
保健医の杉崎はボールペンを真っ赤な口元に当てながら澪の測定値が表示されたモニターを見つめていた。
「ちょっと見てもらえるかしら?」
液晶モニターを澪に向け、画面上のグラフをボールペンで指しながら説明する。
「横軸が時間ね。数字は時刻。魔力そのものの値が学校へ来ると上がって、帰宅する頃には緩やかに下がって元の値。ここもそう。やっぱり学校へ来ると上がって、そしてここ。さっきの事故の時ね。申告では教室へ入ったのが8:30頃ってなってるけど、間違いない?」
「はい」
「すると、ね? やっぱり学校へ来るのとシンクロして魔力が上がってる。ちょうどあなたが実技に入ったあたりがピークになってるの」
「…あの、それはなぜ、でしょうか…?」
澪は上目遣いで恐る恐る伺った。なにしろ、先ほど校長室で突拍子もない話を聞いたばかりだ、警戒するのも当然だろう。
「そうねぇ…あなた、恋とかしてる?」
「し、してませんよっ⁈」
両手も顔もブルブル振って全力否定。長い黒髪がバッサバサと揺れる。その様子に杉崎は目を細めた。
「ふふ、そう。でもこれ、悪い傾向じゃないから。むしろもっとこの状態で安定するといいわね。来月の定例測定、この調子なら3.0を超えちゃうかも。学年どころか学校内でトップの成績よ?」
「いえいえいえいえ! 私はそんなだいそれたもの、望んでないですから! 普通で。普通で良いですから!」
「あら、残念。魔導科としては優秀な成績の生徒を一人でも多く社会へ送り出せたら嬉しいんだけどねぇ」
「それは、そうですが…でもそれは私でなくても…」
「そうは言っても数字は出ちゃうからね。まぁ月例測定の結果、楽しみにしてなさい。結論としてはどこも悪くない、むしろ魔力の向上でプラスってとこね。安心して教室へ戻っていいわ。あ、これまた着けてね。今後も継続して測りたいから」
再び手渡された測定装置に澪は少し不服そうだったが、素直に頭へ装着した。
「はい…あの、ありがとうございました」
そして席を立ち、一礼して保健室を退出した。それを見届けた杉崎は内線電話の受話器を上げる。
「…保健室の杉崎です。澪ちゃんの測定値、本人にも話しました…ええ、はい。身体良好、魔力値の大幅な向上が見られます。これはおそらく振動数の増加ではなく、生命力そのものが大きくなったと推測されます。登校から下校までの間限定ですので、これはおそらく…校長先生のおっしゃっていた通りでしょう。 …はい。計測は継続しますので、何か変化がありましたら報告いたします。はい、それでは」
◆
保健室からの内線を切った校長室に来客。魔導科技術班である。
「先ほどの第3実技室の事故発生までのデータ、持って参りました。センサーが飛んだので発生時までですが」
「うん。構わんよ」
技術班の前田が差し出したタブレットPC,そこには様々な解析値が表示されていた。文弥はスクロールする画面を見ながらニヤリとする。
「解析値は100Kまでか」
「もちろんです。これでも民間で入手可能な最高水準の計測器を入れてるんですよ?」
「わかっているさ。ただ、せっかく興味深い現象が起きているんだ、科学者の端くれとしてはデータを取っておきたいところだろう。これは文科省におねだりしないといけないかな? ハハハ」
「予算が付くんでしょうか?」
「付くかどうかじゃない、付けるんだよ。世界的な魔導への注目具合からして通るかもしれんぞ? それでどうなんだ? 君はどこまで下がったとみている?」
「下がり方が一次関数的ですからね。その通りで行けば、絶対零度を下回った可能性があります。信じがたいですが」
「フフフ、なおさら計測してみたくなる話だね。実技室はどうかね? 復旧には時間が掛かりそうか?」
「センサー類は入れ替えですね。今業者の在庫を確認しているところです。あとは大部分がスプリンクラーからの水の被害ですから、部品さえ届けば、なんとか。今スタッフ総出で雑巾がけですよ」
「季節外れの大掃除だな。他の実技室は?」
「問題ないです。午後には使用可能かと」
「結構だ。部品については私からも先方に話しておこう。総理にも口添え願えれば話も早いだろう」
「助かります。では、作業に戻りますので」
「ああ。よろしく頼む」
前田が退出した後、文弥は先ほどのデータを見直していた。
「面白い子供がいるものだ。真壁先生の『予言』も、あながち絵空事ではなさそうだ。それに…澪にとってもプラスになる」
◆




