取り返しのつかない距離
朝から、胸の奥が落ち着かなかった。
見られている、という感じじゃない。
逃げ道が、少しずつ塞がれていく感覚。
何も起きていないのに、起きる前提で世界が動いているみたいだった。
教室のドア。廊下の角。階段の踊り場。
どこを通っても、今日は逃げ切れない気がした。
「なあ、悠馬。昨日話した駅前のやつなんだけどさ」
親友がスマホを振る。
「まだ回ってる。
“学校の近くで見た”って話、増えてる」
背中が冷えた。
「……へえ」
声が、うまく出なかった。
親友は気にせず続ける。
「いいなー。俺もこいつみたいに注目されたいよ。」
笑いながら言う。
その軽さが、やけに遠かった。
胸の奥で、小さな警報が鳴り続ける。
昼休みも、放課後のホームルームも、何事もなく終わった。
だから余計に、薄い膜の向こう側で何かが待っている気がした。
放課後。
親友と話しながら帰っていると、胸の奥で、警報がはっきり鳴った。
――来る。
次の瞬間、親友の腕が引きずられた。
黒い手袋。
太く、筋肉質の腕が視界を横切る。
「っ、うわ……!」
親友の声が途切れた。
考えるより先に体が動いた。
地面を蹴る。
世界が歪む。
引く力の抵抗が、ほんの一瞬遅れた。
次の瞬間、俺は親友を掴んだまま、数十メートル先に立っていた。
「……え?」
親友が、目を見開いたまま固まる。
遅れて音が追いつく。
背後で、何かが砕ける音。
振り返ると、黒服の男が地面に転がっていた。
もう一人は距離を取り、こちらを見ている。
――見られた。完全に。
黒服の男は、転がったまま舌打ちした。
「……派手にやるな。」
怒っているというより、予定と違った、という顔だった。
もう一人の黒服が、俺と親友を交互に見る。
「……他人を連れて、この距離か。」
独り言みたいな口調。
俺に向けた言葉じゃない。
なのに、胸がざわついた。
「……ニュースになってただけはある。」
その言い方が、
今ここで起きた出来事を見て言っている感じじゃなかった。
――何を知ってる?
――俺の、何を。
「……待って。」
声と同時に、彼女が歩み出た。
昨日会った女子。
制服姿なのに、空気の密度だけが違う。
「一般人への直接接触は禁止のはず。」
その言葉が、俺に向けられていないのは分かった。
分かったけど、じゃあ――誰に向けた言葉なんだ。
黒服は軽く肩をすくめ、親友の方を一度だけ見て言った。
「一人で逃げたわけじゃない。
一般人を連れて動いた。」
その瞬間、胸の奥がひやりとした。
――それが、何だ?
――何が問題なんだ?
分からない。
けど、いってはいけない線を踏んだみたいな空気だけは分かる。
彼女が、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
その沈黙が、答えみたいだった。
「未登録」
彼女が言う。
「ここで回収すれば、
処理手順に入るからな。」
処理。
言葉の意味は分からない。
でも、戻れない響きだけはあった。
黒服は一歩下がりながら言う。
「じゃあ、今夜には決着だ。」
視線を向けないまま、続ける。
「お前が引き取るなら――
その手順は回さない。」
何の話をしているのか、分からない。
なのに、俺のことを決めているのだけは分かる。
彼はそれ以上何も言わず、闇に消えた。
残った空気だけが、重い。
親友が、俺の腕を掴んだ。
指先が震えている。
「なあ……今の、今の何?」
答えられなかった。
俺だって聞きたい。
こいつら、何を言ってるんだ。
何を、勝手に決めてるんだ。
「君は、ここから離れて。」
彼女が言う。
親友は何度も振り返りながら、走っていった。
――普通の世界が、遠ざかっていく。
彼女が、俺を見る。
そこにあったのは、同情じゃない。
説明でもない。
判断の目だった。
「……説明してもらう。」
声が、少し震えた。
彼女は一拍置いてから言う。
「ごめん。」
その一言が、
逆に怖かった。
「もう、放っておける段階じゃない。」
通信端末が光る。
《未登録能力者
逸脱値:想定域超過
単独放置:不可》
文字を追おうとして、
途中でやめた。
見ても、分からない。
「決まった。君の扱い。」
心臓が、嫌な音を立てる。
「……拒否したら、どうなる?」
彼女は一瞬だけ、迷った。
「その時は、制度が動く。
私は、もう止められない。」
制度。
また、知らない言葉。
遠くで、エンジン音がした。
俺の足なら逃げられる。
それは、分かってる。
でも――
何かが、もう始まってしまっている。
逃げたら、
本当に取り返しがつかなくなる気がした。
――逃げるだけじゃ、何も守れない。
「行こう」
黒い車の扉が開く。
分からない。
何も分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
能力を使った瞬間じゃない。
誰かを守った瞬間に、
戻れなくなる世界がある。




