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逃げない。だが、従わない。


翌朝。

部屋を出ると、A区画の廊下はいつも通り静かだった。

人はいる。

けれど、生活音はない。


指定された仕事は、

また倉庫での軽作業。


能力を使わない。

危険性のない業務。


倉庫に入ると、

ある人が目に映った。


少し離れた場所で、

前もいた俺より少し年上の能力者が作業している。


――あ。


一番上の箱が、微妙にずれていて落ちそう。


前も似たような感じだった。


「……またかよ。」


心の中で、そう思った。


不器用なのか。

それとも、この作業が合っていないだけなのか。


能力者は気づいていない。

箱は、ゆっくりと前へ傾いていく。


前なら、考える前に体が動いていた。

反射で踏み込み、手を伸ばし、掴む。


親友を引いた、あの瞬間も。

箱を取ったときも。


今回は、動かなかった。


俺は、一歩も踏み出さない。


箱は、

重力に引かれるように、

そのまま落ちた。


鈍い音。


床に当たり、中身が散らばる。


能力者が、はっとして振り向いた。


「あ……」


短く声を漏らし、

落ちた箱を見下ろす。


俺を見る。


責めるでもなく、

驚くでもなく。


ただ、

「起きた事実」を確認する目だった。


「……ごめんね。」


俺は、軽く頷いた。


能力者はそれ以上何も言わず、

一人で箱を拾い、棚に戻し始める。


動きは慣れている。

誰かを呼ぶこともない。


制度は、動かない。

俺も、動かない。


それで、作業は続いた。


昼休み。


食堂の隅で、一哉と向かい合う。


「今日さ、

 調整の話、終わった。」


箸を持つ手が、一瞬止まる。


「……終わった?」


「うん。

 正式に回すって。」


少し間を置いてから、続ける。


「来週から、外。」


声の調子は変わらない。

決まったことを、そのまま言っているだけだった。


「そうか。」


それしか言えなかった。


「能力ないほうが、

 話は早いらしい。」


一哉は、軽く肩をすくめる。


冗談みたいな言い方だったけど、

そうじゃないことは分かる。


俺は、何も返さなかった。


午後も、倉庫だった。


同じ棚。

同じ作業。


さっき落ちた箱は、

もう元の位置に戻っている。


何事もなかったみたいに。


俺の中だけに、

小さな引っかかりが残った。


動かなかった。

助けなかった。


でも、

命令違反でも、問題行動でもない。


評価は、動かない。


それが、分かる。


作業を終え、部屋に戻る。


鍵の音は、しない。


ベッドに腰を下ろす。


落ちた箱。

拾う能力者。

進んでいく一哉。


俺は、逃げていない。

命令にも、逆らっていない。


でも――

期待されている役割も、果たしていない。


能力を使えば、評価は動く。

使わなければ、安全なまま、止まる。


ここでは、

どちらも「正しい」。


だからこそ、

自分で選ばなければならない。


逃げない。

でも、従わない。


動かないことも、

一つの選択だ。


その選択が、

どこまで許されるのかは、

まだ分からない。


ただ一つだけ、はっきりしている。


俺は、まだA区画にいる。

それだけが、今の立場だった。

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